工くんと結婚して一年目。二人で初めて経験することは勿論のこと、今まで経験してきたことまでもが新鮮に感じる年。今日も、真っ白な私たちのページにまた色鮮やかな思い出が加わる。

「大丈夫? 帯きつくない?」
「大丈夫です! 完璧です! 流石ナマエさん!」
 嬉しそうにそう言った工くんは、両手を広げて藍色の浴衣の袖を眺めたり、帯どうなってんの? と首を後ろに回したまま一周回ったりする。
 工くんの黒髪によく似合うこの深い青色の浴衣は是非これを工くんに着て欲しいと私が買ってきたものだ。勿論工くんは自分では浴衣をきれないし、私も男の人に着付けをするのは初めてなので、動画を見て勉強し、勉強した動画を見ながら四苦八苦して工くんに着せてあげた。
 こんなに喜んでくれるなら頑張って着せてあげた甲斐があったなぁ。
 未だ興味深そうに浴衣を見下ろす工くんを眺める。トレードマークのぱっつん前髪からは幼さを感じるけど、浴衣を合わせた首元から覗く浮き出た鎖骨からは色気が滲み出ていた。帯を巻いた腰つきがしっかりしているのはさすが男の人だなぁ、と思う。
 顔をあげた工くんは、短冊のような前髪を眉の上で揃わせて、ありがとうございました、と無邪気な笑みを私に向けた。
「どうしたんですか?」
 顔を両手で覆うと工くんの不思議そうな声がかかる。自分で工くんに浴衣を着せておいて、なんなのだけど。
「工くんがかっこ良すぎて直視できない」
「えー、それならもっとちゃんと見てくださいよー」
 私の熱い顔を覆う両手を工くんの大きな手が包み込む。
「ほら、ナマエさん。ちゃんと俺を見て」
 視界を覆っていた両手を下され、広がった景色は眩しい。
「やっぱり無理ー」
 こんなにも素敵な工くんの姿が見られるとは。
「ナマエさん可愛い」
 目をぎゅっと瞑っていると、ほのかに工くんのいい匂いがして、左の頬からはチュッと可愛らしいリップ音が聞こえた。

 工くんの着付けが終わったので、工くんをリビングに残して、寝室に向かい、急いで浴衣に着替える。ドレッサーで手早くメイクを終えて、アップにした髪の毛がパラパラ落ちてこないようにスプレーを頭に満遍なく振り掛けた。浴衣は毎年着ている物だけど、髪飾りは今日のために新しく買った物だ。大きな花を模した髪飾りを耳の上に添えてリビングへと戻る。
「お待たせ」
 ソファに座ってテレビを見ていた工くんは私の方を見ると驚いた様子で立ち上がる。暫く呆けていたかと思うと、目をぎゅっと瞑りそっぽを向いてしまった。
「どうしたの?」
「ナマエさんの浴衣姿が可愛すぎて直視できないです」
「えー、毎年見てるじゃん」
「毎年直視できないんです!」
 毎年、真っ赤な耳を向けてくる工くんが、今日も愛おしい。こっちに向けている、耳と同じように血色の良くなったほっぺにちゅってしてやった。ビクッと体を震わせた工くんは、んーっと唸り声を上げながら、私に覆い被さるように両腕ごと抱きしめた。
「今日も大好きです!」
「私も大好きです」

 下駄でカランコロンと音を響かせながら、駅へと向かう。家を出てすぐに、私の手は骨張った手にそっと包まれた。この瞬間はいつまで経っても大好きだ。初めてこうされた時のようにドキッとはしないけど、とても胸が温かくなる。工くんの包みきれないほど大きな手をぎゅっと握ると、同じようにぎゅっと握り返される。工くんの方を見上げると、見下ろす顔と目が合い、向日葵のような笑顔を向けられた。

 駅のホームに着いて、すぐに到着した電車。下駄を溝に落とさないように気をつけてね、と工くんに言って、私も落とさないように気をつけなきゃと思いながら、ホームを蹴って、電車に足を踏み入れる。瞬間、隣で鈍器がぶつかるような音と、いで、という声が上がった。電車の奥に進みながら、工くんを見上げると、前髪の下をさする工くん。
「おでこ大丈夫?」
「大丈夫です!」
 高身長の人にとっては低すぎる電車の扉。
 今より五センチくらい小さかった高校生の工くんは、たまにぶつけるくらいだったのに、この身長になってからは、ほぼ毎回と言うほど電車に乗る度に小さな悲鳴をあげる。
「いつもそんなにぶつけてるの?」
「ナマエさんといる時だけです」
「なんで?」
 拗ねた様子で唇を尖らせた工くんは、私から目を逸らし、発車した電車の窓の外を眺める。
「ナマエさんが隣にいると嬉しくて、屈むの忘れちゃうから」
 電車のガタンゴトンと言う音に紛れそうなくらい小さくボソリと聞こえてきた言葉。
 思わず、うーっと唸り声を上げてしまい、工くんと手を繋いでいない方の手で苦しくなった胸を押さえる。
「どうしたんですか?」
「工くんの可愛さが胸を締め付けて、息ができない」
「え、息してください! 俺ナマエさんが死んじゃったら生きてけない!」
 きっと、電車に乗っている皆さんは、私たちの会話を聞いて私たちのことを付き合い立てのバカップルだなんて思っているんだろうな。そして、私たちの薬指に付いているシルバーに輝く指輪に気づいて、驚くのか。呆れるのか。工くんの可愛さは今も、付き合う前も、きっとこれから先だって、甘い毒なのだ。

 花火が上がる会場の最寄駅に到着し、電車に降りる前に工くんに、おでこ気をつけてね、と言う。分かってます、と不満げに言う工くんの横顔は、乗る時にぶつけたおでこと同じほんのりとした桃色。ちゃんと、屈んで降りた工くんに、良くできました、と笑うと、ナマエさんがいない時は毎回ちゃんとできてますっ、と頬を膨らませた工くんに言われた。

 花火会場が近くなると、道の端に屋台が並び始める。ソースの匂いや、砂糖の焦げる匂いが懐かしい。目の前が白い煙で曇っていき、煙の立ち所を突き止めると、捻ったタオルを頭に巻いたおじさんに、おねーさん一本どう? と焼き鳥を勧められる。片手を振りながら会釈を返した。
 花火の見える土手に向かってどんどん歩いていく。日も落ちてきて、屋台のオレンジの電球が淡く輝き始めると、人も混雑してきて、歩きにくくなってきた。工くんは私を引き寄せるように繋いでいた手を引っ張った。
「迷子になっちゃダメですよ」
「迷子になるのはどちらかというと、工くんの方でしょ」
「おチビなナマエさんの方でしょ」
「私はおチビじゃありません!」
 工くんと並べば誰だっておチビになっちゃうよ、と思っていると、私を見下ろす目は、愛おしそうに細められる。たまに工くんが見せるこういう大人っぽいところ。ドキッとさせられる。
「あ、ナマエさん、リンゴ飴! リンゴ飴ありますよ! 食べたい!」
 でもこう言う天真爛漫なところがいつまでも健在なのが工くん。手を引かれながら、リンゴ飴の屋台へと向かった。

 リンゴ飴と、焼きそばを買って、草の生える土手に座る。毎年シートを持って行こうと思うのだけど、やっぱり荷物になるからと置いてきたことを、手の平をチクチクと刺す草の感覚に今年も後悔した。
 割り箸を割り、焼きそばに添えて工くんが持っていたリンゴ飴と交換する。ありがとうございます、と言った工くんは受け取った焼きそばを箸で掬ってつるりと口に入れると、満足げに笑いながらもぐもぐ口を動かしつつ、割り箸と一緒に焼きそばをこちらに戻した。私は持っていたリンゴ飴を膝に置いて焼きそばを受け取り、ソースの香りいっぱいに包まれながら、箸で焼きそばを口に入れた。こう言う時に食べる焼きそばは、どうしていつも食べる焼きそばよりも美味しく感じるんだろ。口を動かしながら、また、箸を添えて焼きそばを工くんに渡す。そして、美味しいね、とか、夜なのに熱いよね、とか言っているうちに、一緒に食べていた焼きそばは無くなったので、リンゴ飴の封を開け、工くんに渡す。硬そうなリンゴ飴を工くんがいきなりがぶりと齧り付いたのでびっくりした。
「歯、痛くないの?」
「え? ナマエさん痛くなるの?」
「周りの飴固くない?」
「大丈夫です!」
 歯を見せながら笑う工くんの歯は確かに頑丈そう。ガリゴリ口の中から音を立てる工くんからリンゴ飴を渡されて、食べやすそうな工くんの齧ったところから私もがぶりと齧る。甘い飴とリンゴの酸味が口の中で溶け合った。
「ナマエさん、ほっぺに赤いの付いてる」
 そう言われたかと思えば、目の前に工くんの顔。え? と声を出す前にペロリと頬を舐められた。
「つ、工くん! お外だよ!」
「暗いから大丈夫ですよ」
 いやいやいや、後ろにも横にも、人いますから。見えますから。
 ドキドキ、ドキドキ、胸の鼓動を全身で感じながらリンゴ飴を工くんに渡す。工くんはまた強そうな歯でリンゴ飴に齧り付いた。
 手元には、割り箸を挟んだ空のパックと、棒に刺さったリンゴの芯を入れた袋だけになる。花火まだかなぁ、と工くんを見上げると、工くんの頬にもリンゴ飴が残した悪戯の跡。
「工くんも赤いの付いてるよ」
 拭ってあげようと、手を伸ばせばその手を握られる。
「舐めてくれないの?」
「だからお外だって」
「えー」
 そんなに可愛くおねだりしてもダメです、と返しながらも後ろを確認する。後ろにいる人達からは少し、離れてる。暗いし私たちのことは誰からも見えてないかな。でもやっぱり分かるよね。
 巾着袋の中からポケットティッシュを取り出す。一枚のティッシュを広げ、工くんの頬に当てて。公共の場でごめんなさい、と思いながらティッシュで後ろの人達から私の口元を隠して甘い飴を舌で掬った。
「ナマエ、さん……?」
「もうしないからね」
「うぅっ……」
 工くんが、苦しそうな呻めき声を上げて俯く。
「どうしたの?」
「してもらえないと思ったのに、急にしてもらえたから。嬉し過ぎて心臓爆発しそう」
 工くんが胸に手を当て背中を丸める。
「大袈裟だよー」
「多分、俺の死因、ナマエさんになると思う。ナマエさんが可愛すぎるかなんかして、俺の心臓は止まるんです」
「やめてよー、私を人殺しにしないで」
 飽きもせず、毎日のようにこう言う会話をしてしまうのが私たちの通常運転なのです。

 すっかり、当たりは暗くなり、スマートフォンの灯りを灯せば、煌々と白い光が辺りに広がる。
「そろそろ時間だね」
 私がそう言って、スマートフォンを巾着袋に戻した時だった。
 空気の抜けるような音がしたので夜空を見上げれば、バラバラと雨粒が傘を叩くような軽い音と共に黄金に煌めく光のシャワーが空から落ちてくる。膝に置いていた手に工くんの手がそっと重なり、瞬間、暗闇の中で大きな赤い花が三つ横一列に並んだ。綺麗だと思えば、その上にまた更に大きな一輪の赤い花が咲く。赤が黄金に変わり、瞬く頃に、太鼓のような大きな音が心臓を揺らした。びくりと震えると同時に、手から工くんの震えも伝わってきた。重ねられた手を握り返す。ぎゅっと握れば、同じように握り返された。
 黒く広がる空には、堰を切ったように絶え間なく色彩豊かな花火が重なっていく。青、赤、緑。地平線から吹き出す黄金の噴水。眩い光を放つそれらは、空一面を彩った瞬間に消えてしまい、次に咲かせる花々に夜空を譲った。太鼓のような音がお腹の底を震わせるのを感じながら、うなじを汗が伝っていくのを感じる。繋いだ手はじっとりと汗ばんでいったが、それでも互いに手を離すことはなかった。
 もう、花火が終わることを怖がらなくてもいいんだ。
 花火が終わっても、工くんと、ずっと、ずっと、そばにいられるのだから。
 私たちは知っている。ずっと、そばに居たくても、そばにいられない時があることを。
 学生の時は友達の彼氏と違ってなかなかデートに行けない工くんを責めて、困らせたことがあった。最近は、私の方が仕事で忙しくて、私は朝起きればすぐに支度して家を出るし、家に帰ればすぐにお風呂に入って眠る。おはよう、とおやすみしか会話をしない日だってある。互いにちゃんと休みの日はあるのに工くんとはなかなか被らない。
 だから、たまに訪れるちょっとした幸せに泣きそうなぐらい喜んでしまうのだ。大好き。大好き。大好き、と。普段伝えられていない思いをまとめて押し付けるように。
 隣にいる工くんをチラリと盗み見る。暗闇の中、ぼんやりと浮き出て見える工くんの上を向いた横顔を色鮮やかな光が照らしていた。夜空と同じ色をした瞳では、夜空と同じように花火がキラキラと輝いている
 どうか、どうか来年もその先も。工くんの隣にいられますように。
 大きな願いを込めて、工くんの手をぎゅっと握れば、応えるようにまた、力強く握り返された。