とうとうこの日がやってきてしまった。私は泣いていた。泣いたところでどうしようもないと分かっていたけど、涙が勝手にこぼれ落ちていたのだ。
「そんなに泣かないでよ」
 上から降りかかる優しい声。高校生の間、ずっと隣にあった優しくて、大好きな声。
「だって……」
 見上げれば、青空とピンクの満開の桜を背景に、倫くんは穏やかに微笑んでいた。普段仏頂面のくせに、こういう時にはちゃんとこういう顔するの、さすが倫くんだ。本当にずるいと思う。だから好きだと思うし、離れたくないと思うし、ずっとそばにいたいと思う。
 倫くんの大きな手がそっと私の頭の上に乗っかり、そのまま頬まで落ちてきて、倫くんの親指は私の涙を拭った。
「会おうと思えば明日も明後日も会えるんだから」
「そうだけど……」
「何かが終わるわけでもないんだし」
「終わるよ。倫くんとの学校生活」
 そう、今日は高校生活最後の登校日だった。卒業証書を片手に持った倫くんは可笑しそうに笑いながら、絶え間なくこぼれ落ちる私の涙を拭っている。
「可愛い」
「今そういうのいらない」
「でも可愛すぎるから」
「倫くんは寂しくないの?」
「寂しいよ。でも目の前でそんなに泣かれたら寂しがってなんていられない。大丈夫だよ、ナマエ。明日も明後日も会おうと思えば会えるんだから」
 二度も同じことを言った倫くんは本当に自分の言っていることをちゃんと理解しているのだろうか。
 それは、会おうと思わなければ、会えないということだ。それに、会おうと思ったって、会えない日が来るかもしれない。私の進学先は決まっていた。倫くんの就職先とは少し離れた大学だ。もう、私たちは当たり前のように毎日顔を合わすことができないのだ。
 それを倫くんはちゃんと分かっているのだろうか。
「もう、泣かないで、ナマエ。笑って」
 倫くんはあやすようにそう言って、証書を脇に挟み、私の両頬を引っ張る。軽く引っ張られる懐かしい感覚が心地よくて、余計に泣けてきた。
「ほっぺ引っ張られてたら笑えないよ」
「可愛い」
 そんなの嘘だよ。ほっぺを引っ張られた顔なんて可愛いわけがない。そう思っていたら、倫くんは忘れてたとでも言いたげな顔をする。何かと思えば、こう言う時でもおちゃらけを忘れない倫くんだった。
「泣く時はベッドの上だけでいいから」
「その手順いらないからー」
 ふざけてばっかりの倫くんの両頬に手を伸ばして、よく伸びる頬を引っ張った。好き好き好き好き、ずっと好き。その思いの分だけ引っ張ってやった。
「今日、やけに気合入ってるね」
「最後かもしれないからー」
「だから最後じゃないって。ナマエはほんと大袈裟過ぎ。そこが可愛いんだけど」
 そうやって私たちが互いに頬を引っ張りあっていると。
「お前ら何やっとんねん」
 丁度通り過ぎた侑くんにギョッとした顔をされる。
「ナマエがね、最後かもしれないから激しくしてって」
「そんなん言ってない!」
 思わぬ言葉に私が叫ぶと、頬を引っ張られたままの倫くんは私に向き直り、柔らかに微笑んだ。
「やっと元気になってくれた」
「倫くん……」
 倫くんは私を元気付けようとわざと変なことを言ってくれたんだ。
 倫くんの優しさに浸っていると、隣で侑くんに盛大なため息をつかれた。
「俺は今、何を聞かされとるんや」
 そういうんに俺を巻き込まんといてくれ、と言って恨めしそうな目をした侑くんはなんだかんだで笑顔を残して去っていく。お幸せにな、と付け加えて。ありがとう、と返せば背中を向けたまま侑くんは片手を上げた。
 ナマエ、と呼ばれて、倫くんへと向き直ると、泣きそうな顔で笑った倫くんが見下ろしていた。
「何心配しているか知らないけど大丈夫だよ。俺はナマエが遠いどこかへ行ってしまってもナマエを逃がすつもりはないから。だから安心して俺のものでいて」
 そう言ってくれるのは本当に嬉しいんだけど。つい溢れてしまったのは本音。
「なんかその発言。ストーカーっぽい……」
 この後私は久しぶりに真顔の倫くんに、痛いと何度も言ってるのにめいっぱい両頬を引っ張られ続けた。

 もう、いい加減にやめてよ、と思いながら倫くんを見上げてドキッとする。
 真顔だと思ってたけど、よくよく見たらちょっと拗ねた顔をしていた。
 可愛い。ずっと好き。