木製の杭に書かれた文字を見て絶望する。
 まだ、三合目。あと三合じゃなくて? いや、きっとあと三合だよね、と淡い希望を抱きながら顔を上げた。
 混じり気のない水色の空。それを囲む緑の先からは白い光が差し込み、サワサワ揺れる葉の輪郭を曖昧にしていた。そんな瑞々しい景色の中心に立つのは私を見下ろす工くん。
 撥水仕様の黄緑のパーカーを着て、下には灰色のハーフパンツを履いている。更に、虫に刺されないようにハーフパンツの下には黒のレギンスを履いて、足元には眩しい黄色のスニーカー。完全にアウトドアになった工くんだ。
「ナマエさんは全然体力ないですね!」
 背負ったリュックの肩紐を両手で握り、出発時と何も変わらない笑顔を浮かべる工くん。
「工くんの……体力が……異常なんだよ……」
 息が切れて返すので精一杯な私。
 絶賛山登り中だ。
「ナマエさんのリュック、俺が持ちましょうか?」
「大丈夫……」
 流石に悪いと思ったけど、肩から伝わる重量感は一歩歩く度に重くなっていき、元からないような進もうとする気力をどんどんと削いでいった。背に腹はかえられない。結局、工くんに強がって言った大丈夫と言う決意は、口に出した後、三歩歩いてすぐにポッキンと折れてしまった。
「ごめんね……工くん……」
「大丈夫ですよ!」
 背中に自分のリュックを担ぎ、お腹に私のリュックを担いだ工くんは、未だ変わらぬ笑顔で私の前を歩き、少し進んだ先で私を見下ろして、私が追いつくのを待っている。
「やっぱり緑が気持ちいいですね! 鳥の鳴く声も聞こえてきます!」
 手を広げて大きく深呼吸をする工くんはきっと別の空間にいるに違いない。
 ゼーハーゼーハー口で息をしている私は全然緑なんて感じないし、鳥の鳴き声も聞こえてこない。私の体は山を楽しむどころではないのだ。
 酸欠の脳裏にネットにあったこの山に関する数々の前向きな口コミが過り、怒りがふつふつと湧いてくる。
 何が初心者でも大丈夫だ! ハイキング気分で頂上を目指せるだ!
 こんなしんどいハイキングはハイキングと言いません!
 そりゃ山道は全部が舗装された道だけど、それだけだ。なだらかな道でも、斜面を十分でも歩けば、息は上がるし、足の付け根は痛くなるし、体はだるくなる。
 例外が目の前にいるけど。
「例外はナマエさんの方ですよ!」
 思っていたことが顔に出ていたのか。それとも私が気づかない内に口に出していたのか。膝に両手をついて、じっとりと工くんを見上げていると言われた言葉。
 確かにさっきから、おじいちゃん、おばあちゃん達に抜かされていってはいるけど。でも、あの人たちは、きっと普段から山を登っているからサクサクとした軽い足取りで進めるんだ。本当の初心者は絶対私みたいになると思う。
「ほら、ナマエさん頑張って! 手を引いてあげますから」
 手を引いて貰えたら楽なんだろうけど、強制的に歩かされることになる。そう思うと、差し出された大きな手は取れないでいた。
 これは悪魔の手だ。絶対取っちゃダメだ。
 首を横に振って甘言から逃れようとしている間に、腕を掴まれ引っ張られた。
「はーなーしーてーゆっくり歩きたいのー」
「そんなこと言ってたら、頂上つく前に日が暮れちゃいますよ!」
「その前に帰るからいい」
「ナマエさん!」
 地獄の参道はまだまだ続く。

 五合目の杭にまだ五合目か、と絶望は深まるばかり。二人分のリュックを背負った工くんは汗一つ流していないけど。
「俺がおんぶしてあげましょうか?」
「恥ずかしいからいいです。それよりもう引きかえ――」
「ダメです!」
 鬼がいます。ここに鬼がいます。
 腕をぐいぐい引っ張られ歩かされ続ける私。山道の白いアスファルトばかり見ているから、視界からも緑が消えました。

 頂上が近くなってくると、勾配はキツくなり、舗装された道はなくなる。茶色い土を眺めながら、後ろ向きに歩く工くんに両手を引っ張ってもらい、棒になってしまった足をなんとか前に出してノロノロと進んでいく。
「ナマエさん、もう少しです! 頑張りましょう!」
 なんで、工くんは山を登っているというのに、息一つ乱さず明るい声を出せるのか。
「ごめん……もう喋れない……」
 虫の息の私。まだ頂上ついてないけど、また歩いてこの道を帰らないといけないのかと思うと泣きそうになる。

 やっとの思いで着いた頂上。フラフラと屋根のついた休憩所へと向かい、倒れ込むように丸太の椅子に座った。木でできた机に顔を突っ伏すと、熱くなったほっぺたにひんやりとした感覚がくっついて気持ちがいい。重たい体はこのまま机と座った椅子に同化してしまいそうだった。だらりと伸ばした足は自分のものではなくなったみたいに感覚がない。
 きっと私はもう、一歩も歩くことはできないだろう。
 今日はここで夜を明かそう、と決意する。
「何馬鹿なこと言ってるんですか。大丈夫ですよ、最悪俺がおんぶして帰ってあげるんで」
 最悪はお願いします、と思っちゃう。
 隣に座った工くんは相変わらず元気はつらつで、おしゃべりを続けていた。
 さっき景色見てきたんですけど、凄かったですよ、とか。後であそこで写真撮りましょう、だとか。本当に同じ道を通ってきた人とは思えない。
「だから、ナマエさんがおかしいんですってば」
「普段運動しない社会人なんてこんなものだからね。工くんが例外なの!」
 ようやく、軽口を返せるようになってきたので、立ち上がりさっき工くんが写真を撮りたいと言っていた柱へと向かう。山の名前と共に山頂と書かれた柱だ。足はまだ産まれたての仔鹿状態だったけど、工くんの腕に捕まるとちゃんと歩行機能を果たしてくれた。
 柱の前で顔を寄せ合い自分たちでスマホを掲げて写真を撮る。隣に弾ける笑顔があれば、疲れていても自然と笑顔がこぼれ、楽しそうな二人の写真を撮ることができた。スマホのフォルダにまた二人の思い出が増えたと思うと嬉しくなる。
 隣で感慨深そうに写真を眺める工くんも同じことを考えてくれてたらいいのにな。
 スマホから顔を上げた工くんは、サラサラの前髪を風に靡かせながら言った。
「全部の山を制覇して、俺たちだけの頂上写真コレクションを作りましょう!」
 爽やかな笑顔で鬼のようなことを言わないでください。

 工くんと並んで展望台へと立つ。山々の緑の先には白く霞んだ街並みが広がっていた。街の中にあるビルはまるでおもちゃのように小さくて一番高いビルも指で摘めそうだ。大きく深呼吸をすると、やっと草木や土の香りを感じ、森を揺らす風は疲れた体を優しく撫でていった。
「ナマエさーんっ!」
 突然隣で大きな声を出されてびくりと震える。工くんを見上げると、街並みの方を向いた工くんは両手を拡声器のように口に当てていた。
「大きな声で人の名前呼ばないでよ。恥ずかしいよ」
 工くんの服の袖を引っ張りながら言うと、私を見下ろした工くんはニッコリ笑ってまた前を向く。
「好きでーすっ!」
「だから恥ずかしいってば!」
 工くんの声は、麓に広がる街に向かって大きくこだましていった。
 周りで見ているおじいちゃんやおばあちゃん達が私たちを見てクスクス笑っている。顔から火が出そうだった。
「ナマエさんもやりましょうよ!」
「嫌だよ! 恥ずかしい!」
「えー。ナマエさんは俺のこと好きじゃないの?」
 不満そうに言う工くんは周りの目なんて全く気にならないらしい。
「好きだけど、恥ずかしいから無理!」
「大丈夫です! 知り合いなんていないんで!」
「そういう問題じゃ……」
「ほら、せっかくここまで来たんですから!」
 さぁ、ここは一気にグィッと。とでも、言うように工くんは遠い街並みに向かって手を広げた。期待の眼差しで見られると、やってあげたいという気持ちになってしまう。せっかくここまできたんだし、頂上から思っきり叫ぶのも悪くはないだろう。
 大きく息を吸って、叫ぶ言葉を思い浮かべる。
 工くーん! って言えるわけないよ!
「やっぱ無理!」
 熱い顔を両手で覆うと上から言葉が降ってきた。
「可愛いです。今日はこの辺で勘弁してあげますよ」
 勘弁って何よ、と思っていると、右のほっぺからチュッと軽い音。ますます顔が熱くなってしまった。

 写真も撮って、景色も見て、家から持ってきたおにぎりを食べたので下山する。
「ここから帰らないといけないのか……」
 下りるまでがセットというのはなんて残酷な話だ。長く続く道のりを思うとそれだけで視線が落ちてしまう。
「ナマエさんは体力ないですね」
「だから工くんの体力が異常なの」
 恨めしい気持ちで、お腹と背中にリュックを担いでる工くんを見上げると、頼もしい笑顔を返された。
「大丈夫ですよ! いざとなったら俺がおぶってあげるんで!」
 勇気を出して、一歩を踏み出した帰り道。勝手に足が進む下りの坂道は意外と楽だった。

 翌朝。キッチンで朝食を作っていると、寝室から工くんがロボットのようにカクカクとした動きで歩いてきた。
「痛っ、痛っ!」
「どうしたの?」
「筋肉痛です……」
「普段使ってない筋肉使ったからじゃない?」
「情けないです……」
 首を垂れて、くっ……と声を漏らす工くんは筋肉痛がきてしまったことが相当ショックなようだ。
 そんな私も全身筋肉痛。ぎこちない動きで冷蔵庫へと歩くと、隣から嫌な予感。
「ちょ、くすぐらないで! 動くと痛いんだから!」
 工くんが脇腹をくすぐってくる。工くんから逃れようと動けば全身に電流が流れた。
「も、やめっ、やめてって!」
 いつまで経ってもやめてくれないから仕返ししてやった。
「やめ、やめっ! ナマエさんっ!」
 工くんと出かけたら翌朝も楽しい。そんな幸せな私たち。