部活が終わり帰宅しようとした時、携帯がないことに気づく。そういえば、授業前にメッセージを送った際机の中に入れそのままにしていたような気がする。私は慌てて電気の消えた校舎へ向かった。

 三年生の教室は三階にある。階段を上って教室へと続く廊下を前にすると、長く伸びたその暗い廊下には規則的に並んだ窓から冷たく柔らかな月光が伸びていた。日常の風景がどこか幻想的で、その光の帯を出たり入ったりしながら廊下を進んでいく。足音がいつも以上に響き渡った。
 一組、二組、三組と進んでいって、自分のクラス、四組に到着する。電気をつけて、蛍光灯が点灯したことを確認して自分の席へと走った。机の中を覗くと案の定携帯が収まっていた。それを鞄の中に入れ、帰ろうととしたその時ふと前の席が目に入る。菅原くんの席だった。いつも黒板を見る振りをして私は彼の背中を眺めていた。
 彼の椅子に触れてみる。そして、軽い気持ちでその椅子に座ってみた。
 あぁ、これが菅原くんの見ている景色なんだ。黒板がいつもより近い。菅原くんは、休み時間に入ると大きな欠伸をして疲れたように机に突っ伏すことがあった。こんな風に。その菅原くんの真似をして机に突っ伏してみる。その時。
「ミョウジ?」
 その声に肩をびくりと上げる。声の先を辿ると、教室の扉の所で菅原くんが立っていた。
「す、菅原くん!?」
「そこ、俺の席なんだけど」
 菅原くんは気まずそうに言った。
「そ、そうなんだぁ、間違えちゃった」
 そそくさとその席を離れる。無理のある嘘だと言うことは分かっていた。こちらを見る菅原くんの視線が痛い。そんなに見ないで。絶対にドン引きされている。さよなら私の高校生活と思うと泣きだしそうだった。けれど、菅原くんはそんな私の気持ちに反して無邪気に笑う。
「ミョウジっておっちょこちょいなんだな」
 どうしてが胸が苦しくなり、やはり泣きそうになった。
 菅原くんは自分の席まで歩き、机の中を覗き込むと、「あった、あった」といいながら、筆箱を取り出し鞄の中に入れた。
「ミョウジは帰んないの?」
「もう帰るところ」
「じゃあ一緒に行くべ」
 菅原くんはまた眩しいくらいの笑顔で笑った。
 菅原くんの少し後ろを歩いて、来た道を戻る。菅原くんの髪が月明かりに入る度にキラキラと光った。ぺたぺたと足音が響く中、菅原くんが楽しそうに部活の話をする。そんな菅原くんを見ていると段々もの哀しくなってきて、徐々に前を見ていられなくなって視線を落とした。
「ミョウジ、どした?」
 菅原くんが振り返り私の顔を覗き込む。突然のことに私は足を止めた。
「な、何が?」
「暗い顔してる」
「なんでもないよ」
「本当に?」
「本当に……」
「なら良かった」
 そう言ってほっとした顔で笑う菅原くんの笑顔が心を締め付ける。もし、本当のことを言ったらきっともうそんな風には笑ってくれない。だから「それじゃあ行こう」と、言いかけた時。
「俺、実はミョウジが俺の席に座ってるの見てどきっとした」
「え……ごめん」
「いや、そういう意味じゃなくてさ……まぁいいや」
 菅原くんが困った様に笑いながら頬をかく。そして「早く帰んねーとな」と歩みを再開させた。じゃあどういうこと? と思いかけ、慌てて、頭をもたげたその期待をかき消す。菅原くんの言葉を自分の都合のいいように解釈しそうになった自分に辟易とした。
 菅原くんは、月明かりに照らされた廊下を進んでいく。私は置いていかれないようにその背中を追った。

 昇降口を出ると、丁度前方に丸い月が浮かんでいた。私たちはあっと声を出してその月を見上げる。
「今日満月かな?」
「だな。いつもよりでかく見える」
「そうだね」
 そして
「綺麗……」
 二人の言葉が重なった。私たちは顔を見合わせて、同時に笑う。例えばここで、かの有名な文豪の逸話をしたらどうだろうか。そんな勇気はないのだけど。
 私は地平線近くに浮かぶその月に向き直った。
「月が大きく見えるのは目の錯覚なんだって。近くに建物とか山みたいな比較物があるから大きく見えるみたい。本当かどうかはまだわかっていないみたいだけど」
 文豪の逸話の代わりに出てきたのはそんな毒にも薬にもならない話だった。
「確かに月が登ってしまうと小さく見えるもんな。俺も今度他の奴らにその話教えてやろ」
 そう言った菅原くんが嬉しそうに笑ってくれたので、ちょっと嬉しかった。
「じゃあまたね」
「おう、また明日」
 私たちは別れ道で手を振った。


* * *


 空に浮かぶ白く輝く月は、静かに二人を見守っていた。だから、その月だけは知っている。ナマエが菅原の席に座っていた理由を。それを見た時の菅原の顔を。そして、別れ道で手を振った二人が互いに見えなくなった頃、息を合わせた様に振り返り、見えなくなった背中に切なげに目を細めたことを。
 その月だけは、知っている。
 彼女らもそれを知ることになるのはもう少し後の話だ。