※五色が白く見えたり黒く見えたりする話※

 改札を出ると広い空間に抜けるが、帰宅するサラリーマンやOLで混雑しており、真っ直ぐに歩くことができない。ナマエは人混みに流されそうになりながら、前方に等間隔で並んでいる丸い柱を目指す。待ち合わせに指定された場所は改札前だった。ここで立っていたらいいだろうか。キョロキョロ辺りを見回すが待ち人の姿は見当たらない。ちゃんと、会えるだろうか。不安に思いながら広告が貼られた柱に背中を預けると、ナマエさん、と後ろから名前を呼ばれた。脊髄で反射したかのように振り返ってから、あれ? と疑問に思う。彼から名前で呼ばれていただろうか。彼とは先週、初対面を果たしたばかりで今日で彼に会うのは二回目なのだ。お世辞にも親しい中とは言えない。
「五色選手。ちゃんと会えて良かったです」
「大丈夫ですよ。どんなに人がいっぱいいても俺がちゃんとナマエさんを見つけてあげますから」
 ナマエ達を避けて通る人混みから頭一つ分飛びでた身長を持つ彼は歯を見せて無邪気に笑うのであった。


* * *


 五色選手の世間からの印象はといえば、明るい、純粋、元気、とまるで子どもに向けるようなものばかりが挙げられる。テレビ画面の中でいつも眩しい笑顔を振りまいているからか。母性本能をくすぐるような容姿を持っているからか。主に主婦層からの支持が厚い。
 ナマエが今回担当する製品は成人男性向けの制汗剤ではあるが、CMを打つのであれば主婦をターゲットとした方がいいだろう。商品を手にするだろう層は自分の体臭を気にする男性よりも、夫の汗臭に悩まされる主婦が圧倒的多数を占めるのであろうから。主婦の注目を得るのであれば、お茶の間で人気高い五色選手ほど打って付けな人物はいない。
 こうしたそれっぽい理由を並べて通したナマエの企画はナマエの私情まみれであった。別にそれで良いのだ。だって、この間ボディシートのCMを担当した上司に、どうしてこの女優を起用したんですか、と聞いたら、今売れているから、と統計的な思考を全く感じられない答えが返ってきたのだから。
 メーカー勤務三年目。ナマエによる念願の初企画は、生の五色選手を見たい、という邪な情熱により実現したものだった。

 撮影のスタジオで挨拶に来てくれた五色はナマエのイメージした通りの好青年であった。ハキハキと名乗り、握手と称して大きな両手でナマエの手を包み込んでくれた。その時に五色からナマエが担当している制汗剤の爽やかな香りがし、わざわざ買ってつけてくれたんだ、とナマエは彼の配慮に感心した。やはり彼は世間の期待を裏切らない好青年のようだ。
 本当はサインが欲しかったナマエであったが、仕事で来ているので流石に我慢した。ずっと会ってみたかった人を前に溢れ出る興奮を抑え、遠巻きで順調に撮影が進んでいく様をいつものように見守っていた。
 撮影が終わると、五色はまたナマエの元に挨拶に来てくれた。またよろしくお願いします、と五色はナマエの華奢な手を包み込んだ。五色が手を離すと、手の内には硬いカードの感触。手の中を覗くと、五色工と書かれた名刺があった。何で今更名刺? しかもこんな渡し方で? と疑問に思いながら手に取った名刺をなんとなくひっくり返すと、手書きで書かれたアルファベットの文字列が現れる。胸がドキッとした瞬間に思考は停止し、そっと五色の顔を覗き込むと、画面越しに良く見る笑顔が返された。
「連絡待ってますね、ナマエさん」

 そういえば、最初から彼は名前呼びだった。普段であれば男性からいきなり名前呼びをされると引いてしまうナマエだったが、その時は不思議と嫌な気はしなかった。憧れの五色選手だからだろうか。それとも、やらしさのない少年のような笑顔を持つ五色だからだろうか。
 ぼんやりと撮影時の記憶を思い出したナマエは、行きましょう、と笑う五色に着いて駅を出た。

 駅を出ると、この辺りはオフィスビルが多いのか。夜の帳が下りた空を、格子状に白色光を灯したビル群が彩っていた。天辺で赤い光をチカチカと光らせるビルは道に沿ってずっと並んでおり、見上げた星空は狭く見える。
 歩道では早足に向かってくる人混みは健在であったが、二人並んで歩けぬほどではない。ナマエは五色の横に並んだ。食事の約束をしてここにきたのだが、行き先を知らないのだ。五色はどこへ向かっているのだろうか。五色について歩きながらチラリと五色を見上げた。
 白いシャツの上にグレーのジップパーカーを羽織る彼。フード付きのパーカーがこれほど似合う人物を見るのは初めてであった。それにしても背が高い。見上げる首が痛いほどだ。流石バレーボール選手。まさか自分がテレビで見ているだけだった存在の隣を歩けるなんて。
 そんな浮かれたナマエの気持ちは急に固まってしまう。
「あ、え? 五色選手?」
 五色の横で振っていた手はがっちりとした手に包まれていたのだ。
「あの……五色選手……手……」
「その五色選手っていうのやめてください」
「あ、はい……すみません……」
 繋がれた手のことを抗議するナマエを無視して、拗ねたように頬を膨らませた彼は、そうじゃないでしょ、と優しくナマエを窘めた。
「謝るんじゃなくて、俺のこと、ちゃんと呼んでください」
 ちゃんと、とはなんだろうか。五色選手はちゃんと呼びではないのだろうか。
 五色と会うのはまだ二回目。メッセージのやり取りはしたが、数往復だ。すぐに、五色から食事の誘いが来て、日程が合ってしまったため、五色とはコミュニケーションをロクにとっていないのだ。
 未だ初対面にも似た間柄で呼べる名はあと一つくらいだろう。
「じゃあ、五色、さん」
「しょうがないですね。今日はそれでいいですよ」
 困った顔をして笑う五色は、予約しているレストランはもうすぐです、と言ってナマエを引っ張っていく。まるで、恋の”こ”の字も知らない小学生が幼馴染の手を引くように。
 手を繋がれた瞬間はドキッとしてしまったナマエだったが、こともなさげに振る舞う五色にとっては手を繋ぐことに特別な意味などないのだろう。人通りの多い道を歩いているから、はぐれないように気を遣ってくれたのかもしれない。繋がれた手は、恋人繋ぎでもなければ指を絡め合うというわけでもなく、ただ、握手をした時のように繋がっているだけだった。

 レストランに入り、五色がウェイターに名を伝えると、こちらへどうぞ、と店内へ案内される。
 薄暗いがオレンジの照明がお洒落な店内では白いクロスがかけられた丸テーブルが複数並んでいた。丸テーブルは四人がけとなっており、ビジネス街が近いためかスーツを着た客が多い。ナマエたちも彼らの仲間入りするのかと思いきや、ウェイターはどんどん店内の奥へと進んでいく。テーブルは二つに一つくらいは空いていたのにここじゃないんだ、と不思議に思いながらウェイターの後ろを進んでいくと、途端に照明は暗くなり、申し訳なさ程度に青い間接照明だけが照らす空間へと出た。そこでは壁に沿ってボックス席が並んでおり、ボックス席一つ一つは敷居で完全に区切られている。シートは二人用の座席らしい。壁を背にして奥に一人が座るともう一人が斜め前に座れるようにシートは直角に折れ曲がっている。ウェイターにこちらです、と言われて、ナマエは案内されるがまま、ボックス席に入る。奥の座席に座り、五色がナマエの斜め前に座った。ウェイターはメニューをお持ちします、と言って去っていく。
 二人でシートを埋めると、少し窮屈だった。横には敷居があり、目の前にはすぐにテーブルがある。足を動かせば斜め前に座る五色の足に触れてしまいそうだ。不快ではないが、五色の呼吸音が聞こえてきそうなこの距離は落ち着かない。ブルーの淡い光しか届かない暗い空間が余計に五色の存在を近くに感じさせた。
 五色はこのボックス席についてどう思っているのだろうか。
 対面の席であれば、狭い空間でももっと落ち着いて座っていられた。横並びの席であれば、相手はそういうつもりで来ているのだろう、と覚悟を持てた。斜め前の席というのは、手を伸ばさなければ触れることはないが、手を伸ばしてしまえば簡単に触れることができるという席で、相手の思惑を図るには難しい席なのだ。相手の顔しか見えないような灯りの乏しい空間がより男女のゲーム性を高めているように思えた。
 五色は女性とこういう店によく来るのだろうか。 
 実は遊び慣れた人なのかな、と少し失礼なことを思いながら、五色の方を向くと、突然、ごめんなさいっ、と声を上げられびくりと震える。
「どうしました?」
「こんなに暗くて狭い席に通されると思わなくて……普段はあっちの明るいテーブル席に案内されるんです」
 五色が指差した先は先程通ってきた丸テーブルが並んでいる空間だった。すぐ近くである筈なのに遠く離れて見えるその場所は随分と明るい光を放っていた。
 大きな肩を窄めた五色は心配そうにナマエの顔を覗いて尋ねた。
「席変えてもらいますか?」
 ナマエは五色もこのボックス席に慣れぬ素振りを見せてきたことに少し安心した。
 確かに席を変えてもらった方がいいのかもしれない。薄暗い上にパーソナルスペースを脅かすほどの近い距離を強いてくるボックス席だ。他のボックス席は恋人のように互いに体を寄せ合う人たちばかりだった気がする。会うのが二回目のナマエたちに適した場所ではないのだろう。しかし、ここで席を変えて欲しいと言うのも、五色を信頼していないと言っているようなものなので憚られた。それに触れるか触れないかの距離に五色がいることは嫌ではないのだ。
「大丈夫ですよ」
「ありがとうございますっ!」
 五色の笑顔は暗闇の中でも眩しく見えた。やっぱり笑顔が素敵だなぁ、と思いおしぼりに手を伸ばすと五色の手の甲に指が触れてしまった。慌てて手を引っ込めたのだが、五色は手が当たったことに気がつかなかったのか、気にする素振りもなくおしぼりに手を伸ばし手を拭いている。ナマエは意識をし過ぎている自分が少し恥ずかしくなってしまった。
 
 ウェイターがメニューを持ってくると、二人とも生ビールを頼み、店のおすすめである、サラダ、肉料理、魚料理を注文する。すぐに生ビールは運ばれて来たので、乾杯して飲んでいるとサラダがやってきた。
「俺が取り分けてもいいですか?」
 ナマエが動く前に五色は慣れた様子で白い皿を片手にサラダボールに入っていたトングに手を伸ばす。
「あっ……すみません、お願いします」
「食べられない物とかあります?」
「ないです」
 サラダはテキパキと皿に分けられ、ナマエの前に置かれた。
「ありがとうございます」
「いいですよ」
 ナマエは自分がやらなくちゃいけなかったのに、と少し焦ってしまったが、レディーファーストというよりも後輩気質というような振る舞いをする五色に嫌味のない笑顔を向けられホッとした。
 サラダを食べながら交わす五色との会話も、俺は嫌いな食べ物何もないんですよ、とか。酒はあまり強くないのであまり飲めません、とか。休みの日もいつもと同じ時間に起きる派です、とか。日常に溶け込んだことばかりなので、まるで大学の後輩と話しているような気にさせられた。
 敷居を挟んだ隣の席からは、リップ音や男性の名を呼ぶ女性の甘い声が聞こえて来るので少し気まずかったが、五色の前では自然体で振る舞うことができた。
「ナマエさんついてますよ」
 五色が自分自身の唇の端を指差しながら笑うので、ナマエは慌てて持っていた箸を机に置いた。ドレッシングか何かが唇についてしまったのだろうか。
「すみませんっ……」
 きっと、五色と過ごす時間が楽しくて気が緩んでしまったのだ。顔が熱くなるのを感じながら、鏡になるように五色が指差した方の唇を指で拭う。
「こっちですよ」
 五色がそう言って笑った瞬間だった。ナマエが拭っていた方とは逆側へと手を伸ばした五色は、親指でナマエの下唇を拭うと、拭った指を赤い舌で迎えた。伏せ目になった五色にゆっくりと舌を動かされると、指と舌の間で滴る唾液の音が聞こえてきそうだった。
「ナマエさん? ぼーっとしてどうしたんですか?」
「ご、五色選手っ! 指、え? 指っ……!」
「だからその五色選手はやめてくださいっ」
 ナマエは手に持ったおしぼりで五色の指を拭うべきか、自分の唇を拭うべきかと迷っていると、さっきまで官能的だった五色が愛らしく頬を膨らませてくるので、もう何がなんだか分からなくなる。
「五色選手、じゃないでしょ」
「あ、え? あ、はい……五色、さん」
 ナマエは混乱しながらもちゃんと五色の名を呼んだのに、五色は膨らませた頬をますます大きくした。
「やっぱりナマエさんは俺のこと五色さんって呼ぶんですね。俺はナマエさんって呼んでるのに」
 いじける子どものように言われる。普段であれば可愛いと悶絶するところであったが、先程見た赤い舌が脳裏をチラついて、目の前の五色を素直に受け入れられない。ナマエがおしぼりを手で握ったまま固まっていると、五色は息が吹きかかりそうなくらい顔を近づけてきた。
「ナマエさん、俺の名前ちゃんと知ってます?」
「し、知ってますっ!」
「本当に? フルネームですよっ!」
「知ってます! 知ってます! ファンですから!」
「もうファンと選手って間柄じゃないでしょ!」
「え? 違うんですか!?」
 そうだ。違うのだ。仕事を共にした仲なのだ。いや、本当にこういう解釈であっているのだろうか。
 ナマエがおしぼりを硬く握っていると、五色はふっと吹き出して近づけていた顔を離した。
「焦ってるナマエさん可愛い。とりあえず、これ置きましょうね」
 優しい笑みを浮かべた五色はナマエの手を掴み、おしぼりを握る拳を解いていく。そして、ナマエが握っていたおしぼりを手にし、先程ナマエがドレッシングをつけていた唇を軽く拭ってから机に置いた。
 ドキドキ、ドキドキ。ナマエの耳元では鼓動が鳴っている。その後出てきた肉料理も魚料理も、追加で頼んだデザートもナマエには味が全く感じられなかったし、五色の話す内容は全然頭に入ってこなかった。

 なんとか食事の席が終わり、店を出て、気がつけばナマエは駅前にいた。当たり前のようにナマエの手は五色の手の中にある。相変わらず握手のように包まれているだけなのだが。
「今日は、ありがとうございました」
 ナマエは頭を下げるが、見下ろす五色からは返事がない。普通であれば、こちらこそありがとうございました、というような返事が返ってくるのではなかろうか。よくよく五色を見ると、不満げな顔をしているような気がする。どうしてだろうか。ナマエは何か失礼なことをしてしまったのだろうか。もしかしたら、食事の途中からずっと上の空だったから怒らせてしまったのかもしれない。
 お酒の残る思考を急いで回しながら、かける言葉を探していると、香水の香りが鼻をかすめる。柔軟剤のような花の香りというよりは甘く挑発的な香りだった。気がつけば、目の前には白い首筋があり、頬の横には五色の顔があった。あまりの近さに頬がひりついた。
 今、ナマエの周りを漂う香水の香りは五色が纏っているのだろうか。五色は香水なんて纏うような男だったのだろうか。撮影の時は爽やかな制汗剤の香りがしていたのに。
 熱い吐息が耳にかかると、周りを過ぎていく人々のざわめきが遠くなった。
「もう……、帰っちゃうの?」
 五色らしからぬ匂いに包まれながら、掠れた低い声に耳を犯された。全身が泡立つ。
 帰る以外に何があるのだろうか。
 香水の香りが離れていくと、ナマエの知らない選択肢を持つ男は細めた瞳で鋭く夜の街の光を反射させていた。それはまるで、獲物を狙う獣のよう。ナマエは何か言わなきゃ、と口をパクパクと動かすが、口からは息すら漏れることなく、喉はどんどんと乾いていった。冷たい夜の風がナマエの横を通り過ぎいくのに、背中には変な汗が流れる。
「ごし、ご、ごしきせん――」
「五色工、ですよ」
 ナマエの言葉を遮った五色は柔らかに瞳は細めた。
「さっきのは冗談です。今日が終わってしまうのが寂しくてナマエさんを困らせたかっただけです」
 恥ずかしそうに頬を赤く染める五色工。
「じゃあ、帰りましょうっ! ホームまで送りますよ!」
 ナマエが返事を返す前に繋がれていた手は駅へと進む五色にぐいぐいと引っ張られていく。ナマエは人混みをかき切っていく大きな背中につまずきそうになりながらついていくが、まだ夢を見ているような気分であった。
 目の前を歩く五色工は、ナマエがイメージした通りの好青年なのだろうか。
 平気な顔でナマエの手を包み込み、わざとではないと言って薄暗い店内にナマエを連れ込んで、当然のようにナマエの唇に触れた親指を舐めて見せた男――五色工。
 ナマエの鼻孔にはまだ、五色が纏っていた香水の香りが残っていた。