緑に囲まれる女子寮の前。街頭に照らされながら五色くんと対面して立っていた。周りには誰もいない。門限が間近に迫っているから皆はもう寮内にいるのだろう。近くの草むらからは鈴虫の鳴き声だけが聞こえてくる。それは上品な合唱を奏でていたけど、五色くんが、それではナマエさん、また明日、と言った瞬間に耳鳴りのように遠くなっていくのだ。
 この瞬間になると、いつも緊張してしまう。白い光を反射する瞳が僅かばかりに下へと移動し、じっと私の顔の下の方を見つめてくるのだ。心臓の音が近い。
「あの、五色くん?」
「は、はい!」
 五色くんは慌てたように顔を上げた。一歩を踏み出せない五色くんに、年上の私からなにか言ってあげたらいいのだろうか。でも、私だって初めてなんだから、そんな大胆なことはできなかった。
「あの、そろそろ寮に戻らないと門限間に合わないよ」
「そうですね! ではまた明日の朝迎えにきます!」
「ありがとう」
 何事もなかったかのように元気に片手を上げた五色くんは踵を返して駆け足で闇へと向かっていく。
 ふぅと溜め込んでいた息を吐いているうちに、五色くんの背中は闇の中に溶けていった。

 五色くんとは、付き合って三ヶ月ほどだ。五色くんから告白をしてきてくれたのだ。部活前のことだった。
 その日もいつものように、体育館では部員たちがネットを張っていた。私も普段しているようにドリンクを作ろうとウォータージャグを持って体育館の出口へと向かっていた。出口付近では、五色くんと天童くんがこちらを見ながら、なにやら話をしている。なに話しているんだろう、と思った瞬間だった。急に五色くんは私の元まで走ってきて、大声で言ったのだ。
「ナマエさん! 好きです!」
 その声が体育館中に響き渡ると、体育館はシンと静まり返り、皆からの注目を感じた。五色くんは、真剣な眼差しで私を見ている。
 私も五色くんのことは好きだった。多分、誰もいないところで、さっきの台詞を聞いていたら、嬉しさのあまり涙がこぼれていたかもしれない。そして、私も好きだよって言えていたと思う。
 静かな体育館で、時折、ぶっ……とか、ぐふっ……とか聞こえてくる声はきっと天童くんのものだ。相変わらず、皆からの視線が痛い。
「えと……五色くん?」
「はい!」
「急にどうしたの?」
「急ではありません! ずっと好きでした!」
 また、天童くんの吹き出す声が聞こえた。
 ずっと好きだと言ってくれたことはとても嬉しかったけど、そういう意味で、急にどうしたの、と聞いたわけじゃなかった。
 この場で五色くんになんと返すのが正解なのだろうか。理想としていた恋の実る瞬間とは程遠いので、返す言葉を思案していると、真っ直ぐ過ぎる瞳が私の返事を急かした。一度は、この場を適当に流して、と思ったけど、赤くなった頬と震える拳を見てしまうと、意図していなかった返答が勝手に口からこぼれてしまったのだった。
「私も好きだよ」
 五色くんは喜んでくれると思ったのだけど、私の返事を聞くや否や、魂が抜けたようにふらりと膝をついて後ろに倒れてしまった。大丈夫!? と駆けよると、周りにいた皆はまるで公開プロポーズが成功した後のように盛り上がった。倒れた五色くんを抱き上げれば、皆が集まってくる。そして、私たちは言わずもがな冷やかしという名の祝福を存分に受けるのだった。私たちというよりは、私だけ。だって、五色くんは私の腕の中で目を回しているのだから。
「五色くん、そろそろ起きて」
 皆がロードワークに出ようとするので、五色くんの頬を軽くぺちぺち叩いた。薄ら目を開けた五色くんは勢いよく私から離れる。
「お、俺、なんでナマエさんに抱き締められてたんですか!?」
 困ったさんのおでこを指で弾いてやった。

 公開告白を受けたその日、五色くんが送ります、と言ってくれたので、学校から女子寮への道のりを一緒に歩いた。川の土手に沿って、女子寮がある山へと向かって行く。
「俺、ナマエさんとこうして歩ける日が来るなんて幸せですっ……」
「私もだよ」
 互いに振る手と手が触れる距離ではないけど、いつもより近い距離で並んで歩いた。
 女子寮の前に到着すると、五色くんは、また明日の朝迎えにきてもいいですか! と寮の中にまで聞こえてしまいそうな声で叫んだ。女子寮の玄関から届く白い光が五色くんを照らしており、五色くんの後ろには細長い影が伸びている。五色くんは告白してくれた時と同じで、曇りない瞳で私を見つめていたけど、やっぱり顔は赤みを帯びていて、握った拳は少し震えていた。五色くんが瞬きをするたびに、五色くんの瞳は白い光を反射して宝石のようにキラキラと光る。思わず頬が緩んでしまい、いいよ、と返すと、今度の五色くんは気絶することなく顔をクシャッとして笑ってくれた。
 それから私たちは、毎日、学校から女子寮への道のりを行き帰り共に並んで歩いた。

 一緒に登下校するようになってから一ヶ月ほど経った頃のことだ。並んで歩いていると、五色くんはチラチラと私の足元を見てくるようになった。最初は、なにかな、と不思議に思っていたけど、五色くんのチラチラが意味していることは、日が少し残っている帰り道で判明した。チラチラすることに忙しい五色くんは、土手道を会話もそぞろにして歩いていたのだけど、前方から大学生くらいの男女のカップルが歩いてくると、五色くんは彼らの足元へと視線を移し、彼らがすれ違ってからも彼らの足元をじっと見つめていた。そして、また私の足元をチラチラと見だす。と、思ったのだけど、私に向けられた瞳は僅かに左右に揺れていることに気づいた。その揺れに合わせて振られていたのは私の手だった。五色くんは私の手を見ていたのだ。先程カップルとすれ違った時も、カップルの足元ではなく彼らの手を見ていたのだろう。その彼らの手は繋がれていた。
 もしかして、五色くんは手を繋ぎたいのかな。
 私がそう気づいたのは五色くんが、私の手を見出してから一週間ぐらい経った頃のことだった。
 五色くんの気持ちに気がつくと、急に私の手は壊れたロボットのように歪に動き出す。手の甲から隣で振られる手の気配が敏感に伝わってきた。でも、手を繋ぎたいの? と言ってあげられなかった。もし、違ってたら恥ずかしいし、五色くんは私の初めての相手だから、違っていなくても、恥ずかしいのだ。
 段々と手を振っていられなくなったので、一度手を胸の前に持っていって、休憩させようとする。その時だった。手を動かした瞬間に、五色くんから、あっ、と言う声が上がる。五色くんの手は私の手がさっきあった場所に伸びており、五色くんは慌てた様子で行き場のなくなった手を自分の顔に置いた。
「ごめんっ……ナマエさん……」
 顔を大きな手で覆った五色くんは立ち止まる。私も振り返って立ち止まった。
「俺、今恥ずかしくて……暫く歩けません……先帰ってて……」
 照らす夕日が赤いのか、五色くんが赤いのか。手も、指の間から覗く顔も朱に染めた五色くんは弱々しく言った。
 私の心臓が胸の前に置いていた手を急かすように何度も叩いてくる。さっき、五色くんは頑張ってくれたのだ。いつも五色くんに頑張らせてばかりでいいのだろうか。私だって五色くんのことが好きなのだ。
「じゃあ、私が連れて帰ってあげる」
 情けなく震えてしまった手をなんとか伸ばして、五色くんの足の横にあった方の手を掴んだ。
「えっ、あ、ナマエさん!?」
「歩けないなら、私が引っ張って連れて帰ってあげるよ」
 五色くんの手をぎゅっと握ると、五色くんは顔を覆っていた手を下ろして、泣きそうな顔で笑った。
「ナマエさん、好きです」
「私も好きだよ」

 それから、帰りの道は毎日手を繋いで歩いた。行きの道は明るすぎて、恋人らしいことをするには少しハードルが高いのだ。闇夜が太陽を追い立て始めた時だけ、私たちは指を絡めていた。

 季節が巡り、帰り道がすっかり闇に覆われるようになった頃。五色くんは、女子寮の前で別れを告げた後、私の顔の下の方をじっと見つめるようになった。多分、五色くんが見ているのは私の唇だ。穴が空いてしまうのではないかというほどに五色くんは私の唇を見つめてきた。そんなに見つめられると、つい唇に力が入ってしまう。でも五色くんはなにもしてくることはなかった。もちろん、五色くんがなにをしたいかはわかっていた。でも、五色くんの意図を汲み取ってあげることが、どうしても、できなかった。手と手の触れ合いは友達同士でもあることだけど、それが唇となれば格段に話は変わってくるからだ。何度も、五色くんの前に一歩踏み出て、顔をあげようとした。でも、拳を握って、片足をあげようとした瞬間に、足が地面に貼り付けられたかのように上がらなくなるのだ。
 代わりにと吐いた言葉はなんとも情けない。
「そろそろ寮に戻らないと門限間に合わないよ」
 何事もなかったかのように。いや、実際何事も起こっていないのだ。何事もない私たちは、明日の朝また会う約束をして別れるのだった。

 明日から春高予選が始まる。五色くんはスタメン入りを発表されていた。帰りの道には久しぶりに饒舌な五色くんがいた。五色くんは片手でガッツポーズをして鼻息荒く、明日への抱負を述べていた。
「俺の活躍を見ててくださいね」
 辺りが真っ暗になっても私の歩く道はいつだって眩しい。言われなくても、ずっとそばで見ているよ。
「張り切りすぎて怪我しないでね」
「はい! 怪我しないように頑張ります!」
 そう言って、元気な声を出していた五色くんだったけど、暗闇に白く浮かぶ女子寮が見えてくると、声量が小さくなっていく。今日もまた、じっと唇を見つめられ、お別れをするんだろうな、と習慣のように思って、女子寮の前で五色くんと向かい合った。
 口元に五色くんの熱い視線を感じて、唇を噛む。五色くんが視線を落とし始めてから五分は経っただろうか。そろそろ門限が近い。いつもの言葉を口にしようと、息を吸った。
「ごしき――」
「ナマエさん!」
 告白された日を思い起こさせるような大声と真剣な眼差し。でも、私が目を合わすと、五色くんの目は急にあちこちと泳ぎ出した。
「き、ききき、きっ……」
「キス?」
「え!? なんで俺の言いたいことがわかるんですか!」
 驚いた顔で、じっと見つめられたので、わかるよ、と返すと、五色くんは切なげに目を細めた。
 ごめんね。五色くん。五色くんの気持ちをわかっていながら、なにもできなかったんだ。でも、五色くんが勇気を出してくれたから、私も一歩を踏み出すよ。
 意を決して、足を一歩前に出すが、私を静止するように両肩をがしりと掴まれてしまった。
「待ってくださいっ! 今度は俺からさせてくださいっ!」
 五色くんは私を真っ直ぐに見据え、ゴクリと喉を鳴らす。ここまでされて、異議申し立てをするほど私も野暮ではない。目を閉じて五色くんを待った。
 いつ、五色くんの唇が触れてくれるのだろうか。
 すぐにくると思った感覚はいつまで経っても訪れず、私はずっと街頭の光も届かない暗闇の中にいた。目を瞑ってから、暫く聞こえてこなかった鈴虫の声がだんだんと大きくなってくる。そろそろ、本当に門限が危ない気がする。そう思ってうっすら目を開けた瞬間だった。勢いよく唇にぶつかったなにか。多分五色くんの唇なんだろうけど。五色くんは緊張して強張っているのか、押し当てられた唇は随分と固く感じた。そして、勢いよく五色くんがぶつかってきたためか、私の唇は歯にガリッと擦れる。目を完全に開けると、五色くんは私から離れたところだった。
 きっと、さっきの頭突きにも似たキスは五色くんが目指していたキスとは違ったのだろう。五色くんは悔しそうな顔をして言った。
「ご、ごめんなさいっ! 俺、上手くできなくてっ……」
 言い終えると、くるりと背中を向けて逃げるように闇へと突っ走っていく。私は五色くんの背中が見えなくなっても、五色くんの行った先を眺めていた。唇に手を当てると、熱を持っているような気がした。擦れた唇の内側を舐めれば、愛おしさに、口元が緩んでしまう。一生懸命やっているけど、なかなか上手にできない私たち。
 溜めに溜めたファーストキスは血の味がした。