ナマエの部屋を出て向かった先はネットカフェだった。カプセルホテルにさえ泊まれるだけのお金を所持していなかったのだ。一番安いリクライニングソファーがある個室を指定した。個室と言ってもベニヤ板のような薄い壁で区切られた屋根のない部屋で、一人掛け用の黒いソファーしか置かれていない部屋だ。
 個室の中は床にボストンバッグを置くと、それだけで窮屈となってしまった。座るとくぐもった音を立てたソファーは新幹線のグリーン車にある座席よりも狭くて固い。眠るにあたって背もたれを倒そうとしたがやり方が良くわからなかった。仕方がないので、長い足を折り曲げ、膝を抱えて瞼を閉じた。部屋は乾燥しているし、上から降りてくる冷房の風は冷たい。牢に閉じ込められた囚人になった気分だった。
 眠ろうとしたが、眠れない。
 一人で過ごす夜がこんなにも長いものだと知らなかった。数を数えても頭は冴えていくばかり。永遠にも似た時間を過ごしたが、夜が明けてしまえば、過ごした時間はあっという間にも思えた。
 少しばかりは眠れたような気がしたが、徹夜明けのような熱っぽい頭で朝一の新幹線に間に合うようにネットカフェを出た。

 自宅に帰ると、両親に驚かれた。お盆休みは帰らない、と伝えてあったのだ。しかし、帰ってきたのが息子だったからか、嫌な顔はされなかった。両親は、俯く息子を見て何かを察したのか、何も言ってこなかった。彼らは、今日、親戚の家に向かうらしい。一緒に行くか、と聞かれたが、疲れた体を休ませたかったので断った。
 自室の広いベッドで大の字になりながら、玄関の扉が閉まる音を聞く。両親たちは出掛けてしまったようだ。馴染みの白い天井を眺めていると、ようやく帰ってきた、という安堵の気持ちに包まれる。眠たい。瞳を閉じると同時に、思い出したかのように、目の奥が熱くなっていき、顔の横を涙が伝っていった。
 瞼の裏にはナマエがいた。最近の彼女はつまらなそうな顔ばかりしていたのに、思い出す彼女は皆笑っている。もう、記憶が美化されてしまったのだろうか。こんな調子で自分はナマエを忘れることができるのだろうか。目を瞑ったままでいると、ナマエの笑顔が溶けていく。
「ナマエさん……好きです……」
 はっきりしない意識の中で、呟いた声は他の誰かのもののように聞こえた。

 五色が眠りに落ちてからどのくらいの時間が経ったのだろうか。
 家のインターフォンが鳴った気がした。夢かと思ったのだが、夢ではなかったらしい。もう一度インターフォンが鳴り、その音は鼓膜を明確に揺らした。暗い泉のそこから急速に意識を引き上げられ、車に酔ったときのように頭が痛い。二度もインターフォンが鳴るなんて、母親は何をしているのだろうか。次のインターフォンが鳴ることがないよう、早く応対して欲しい。静かに眠っていたいのだ。閉めたカーテンの隙間から入る光は白い。きっとまだ朝なのだろう。予定もないのだから、眠っていてもいい時間のはずだ。そう思ったとき、再び、間伸びしたインターフォンの音が鳴り響いた。
 母さん!
 苛立ちながら、体を起こして、のそのそと、リビングへと向かう。誰もいない。しんとした空間にそういえば両親は出かけているのだった、と思い出した。目を擦りながら、インターフォンへと向かい、小さな液晶画面を覗く。
「ぅえ!? ナマエさん!?」
 画面に写っていた彼女の姿に、慌てて、通話ボタンを押したが、どうやら間に合わなかったようで、画面は暗くなってしまった。見間違いだろうか。いや、見間違うわけがない。ナマエが来ているのだ。でも画面は消えてしまった。このままでは、ナマエは帰ってしまうかもしれない。急いで玄関へと向かったが、リビングの方からインターフォンの音が聞こえてきたので走ってリビングへと戻った。液晶画面を覗くと、ナマエの顔。通話ボタンを押した。
「ナマエさん! なんで!」
「工くん? 工くんなの?」
 切羽詰まった様子で尋ねられた。あちらは音声しか聞けず、こちらの様子を見ることができないのだ。
「俺ですよ! でもなんでナマエさんここにいるんですか!」
「なんではこっちのセリフだよ! なんで黙って帰ったの!」
 ナマエの問いに、最近見せられていた、ナマエのつまらなそうな顔や、ごめんね、とだけ書かれたメッセージ、日焼け跡の無くなった指を思い出す。でも、言葉は出てこずに口籠もっていると、再び、液晶画面が消えてしまった。ハッとして、玄関に走れば、またインターフォンが鳴ったので、走って戻る。通話ボタンを押して、オートロックの解錠ボタンも押した。
「とりあえず、中入ってください。今日、家誰もいないんで……」
 ナマエの隣でマンションのオートロックが開いたのだろう。横へ視線を向けたナマエはありがとう、と呟いて画面から消えた。
 ナマエが来るので、玄関へと向かい鍵を回して扉を開けば、すでに息を荒げたナマエが立っていた。走ってここまで来たのだろうか。大丈夫ですか、と五色が声を発する前に、ナマエに掴みかかられた。
「なんで勝手に帰ったの!」
 ナマエの勢いに押され、二、三歩後ずさってしまった。それでも離してもらえず、ナマエは五色について部屋に入る形となり、ナマエの後ろでは玄関の扉が閉まった。
 ナマエはまた吐き捨てるように言った。
「なんで、何も言わずに帰ったの!」
「なんでって……ナマエさんはもう俺のこといらなくなったんでしょ……」
「何それ……何言ってんの……そんなわけないでしょ……」
 力なくそう言ったナマエは五色の胸を掴んだまま、項垂れた。まだ、ゼーゼーと息を吐いている。大丈夫だろうか。とりあえず、中に入ってもらってお茶でも飲んでもらってと思っていると、ナマエは顔を上げた。トマトのような真っ赤な顔をして睨みあげてくる。また金切り声が響いた。
「ねぇ、私の指輪どこにやったの! 返してよ!」
「指輪って……ナマエさんこそ何言ってるんですか? あんなものもういらないでしょ」
「なんでそんな意地悪なこと言うの!? 工くんは私が嫌いになっちゃったの? 別れたいの?」
 ナマエさんが、それを言うのかよ。
 ナマエにそんなことを言われる謂れはなかった。ナマエに散々振り回されてきたのは五色の方なのだ。
 忘れていた怒りが沸々と込み上げてくる。ナマエに釣られるように大きな声を出してしまった。
「別れたいのはナマエさんの方じゃないですか! 俺といても、いつもつまらないって顔して!」
「してないよ! 工くんと一緒にいられて嬉しいよ! 確かに最近疲れてて、会ってるときもぼーっとしてたことあったかもしれないけど、それは工くんと一緒に過ごすために頑張ってたからだよ!」
 本当だろうか。ナマエの言葉は信用できない。そもそもナマエは何を頑張っていたというのだ。他の男との両立だろうか。五色が高校生だからといって馬鹿にするのも大概にして欲しい。五色は知っているのだ。日焼け跡のない指を。
 月明かりの下で見た綺麗過ぎる指を思い出すと、気分は下がる。こぼした言葉も弱々しくなってしまった。
「でも、ナマエさん、指輪もうしてないじゃないですか……」
「してるよ! 毎日してるよ! なんでそんなこと言うの?」
 五色の胸に置かれたままのナマエの右手を掴む。論より証拠だ。彼女の手の甲を上に向けさせて、指輪があったはずのところを親指でさすった。
「日焼けの跡、なくなってる」
「それは……」
 気まずそうに下を向いたナマエに、やっぱりしていないんじゃないか、と心の中でぼやいた。ナマエの手を離してやれば、彼女の手はだらりと下に落ちる。きっと知らず知らずのうちに、ここまで来てくれた彼女に期待してしまっていたのだろう。彼女の態度にがっかりした。
 もう、ナマエの顔なんて見たくない。どっか行ってしまえ。ナマエなんて嫌いだ。大嫌いだ。
 ナマエの白いつむじを眺めていると、ナマエは、ぼそりと呟いた。
「頑張ってたのに……」
 何を? と聞けば、顔を上げたナマエは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「日焼け跡がないのは朝から晩までバイトしてたからだよ! ずっと室内にいたから日に浴びてないの! 二年になってから講義とかレポートとかで忙しくてバイトできなかったの! だから夏休みに頑張ってたの! 工くんと少しでも一緒にいたくてお金稼がなきゃって……」
 ナマエは尻すぼみに続けていく。
「確かに昨日、駅まで迎えに行けなかったのは悪かったと思うけど……なんで信じてくれないの? 私たちが一緒に過ごした時間ってその程度だったの?」
 真っ直ぐに向けてくる瞳から目を逸らした。洪水のように押し寄せてきた情報に眩暈がする。
 講義やレポートとやらに追われていたから、会ったときに行為を断られ疲れた顔をされていたのだろうか。バイトとやらで忙しなかったから日に浴びることがなく指輪をしていても日焼け跡ができなかったのだろうか。
 勿論、ナマエの言うことを信じてあげたいし、信じたかった。でも信じられるだけの材料がないのだ。
 五色がいつまでも黙っていると、彼女は力なく体を揺らし、一歩、二歩と五色から離れた。
「押しかけてごめんね……帰る……」
 ナマエが踵を返すと、丸まった背中は随分と頼りなく見えた。こうして、恋が終わるのだろうか。他人事のように考えていた。ナマエが扉に手をかけ、扉を押す。一つ一つの仕草がノロノロとしているのか、五色の刻む時間が遅くなってしまったのか。ナマエの動きはのんびりとしたものに見えた。ナマエが部屋から出ると、焦らすようにゆっくりと扉が閉まっていく。狭まっていく隙間からナマエが振り返ったのが見えた。ナマエの口が、元気でね、と動いたような気がした。真っ白の扉が閉まる。きっと、もう、ナマエと会うことはないのだろう。五色が下ろした手を伸ばさない限り。
 でも、きっと、これで良いのだ。これで、来ないメッセージに毎晩イラつくこともなければ、会って嫌な思いをすることもなくなる。ナマエと付き合う前の日常に戻るだけなのだ。
 自分に言い聞かせたが、下ろしていた手がざわついた。大理石の白い床に視線を落とせば、最近のナマエはつまらなそうな顔ばかりしていたのに、今まで見てきた色んな彼女の笑顔が脳裏を駆け巡る。好きだよ、と微笑むナマエ。五色の下で、ずっとそばにいたい、と切なげに笑い両腕を伸ばしてくるナマエ。隣で歩いていると、ねぇ、工くんは? と悪戯っぽい笑みで見上げてくるナマエ。きっとこれら全てが五色とナマエが重ねてきた時間なのだ。
 五色は下ろしていた手に拳を握った。何のためにこの大きな手はあるのだろうか。
『私たちが一緒に過ごした時間ってその程度だったの?』
 その程度と言って切り捨てられるものではなく、目を瞑れば鮮明に彼女の姿を思い出せるほど、かけがえのないものだったのだ。
 ナマエを信じる理由なんてそれだけで十分じゃないか。
 今ナマエを追いかけなければ、二度と彼女と会えないような気がした。
 何のためにこの大きな手はあるのだろうか。
 五色は拳を握っていた手で扉を開き、走り出していた。

 扉を開いた先にナマエはいなかった。エレベーターのある場所まで走ったが、そこにもナマエはいない。エレベーターの下に行くボタンを押したが、一階で止まっているエレベーターが迎えに来てくれる時間がもどかしくて、階段へと向かった。
 マンションを出て左右を見渡す。ちらほらといる通行人の中にナマエの姿はない。駅の方だろうか。右に曲がって大通りに出て、左を向けば、歩道を歩くナマエの背中を見つけた。
「ナマエさん!」
 叫んで駆け寄れば、振り返ってくれたナマエ。彼女の表情を見る前に彼女をきつく抱きしめた。ナマエの頭と背中に腕を回してナマエの体を自分の体に押しつける。
「ごめん、ナマエさん、ごめんね。俺何もわかってなかった……」
 ごめん、ごめんなさい、と繰り返せば、背中に腕が回る。何も言ってもらえなかったけど、背中のシャツをきつく握られる感覚に、何も言ってもらえなくても十分だった。腕の中から嗚咽が聞こえてくるので、五色まで涙が滲んでしまう。
「俺、ナマエさんの指輪捨てちゃった……」
「え、どこに!?」
 ナマエが顔を上げる。涙でぐしょぐしょになった顔が心配そうに歪んでいた。
「ナマエさんちのゴミ箱……」
「なら良かった。まだうちにある……」
「そっか、良かった……ごめん……」
「いいよ。でも勝手に帰ったりしないで」
「うん、わかった……ごめんなさい……」
「私も工くんを不安にさせないように気をつけるから」
「それはもう大丈夫です……俺、大人になったんで……」
「なってないでしょ。こーこーせー」
 ナマエは不満げに唇を尖らせる。なりましたよ、と五色も唇を尖らせると、互いに笑顔がこぼれた。こうして笑い合うのはいつぶりだろうか。懐かしく感じたが、これがいつもの俺たちだ、と落ち着きも感じる。
 五色たちが抱きしめあっていると、五色たちの横を晩夏の朝らしく、涼やかな風が吹き抜けた。蝉が遠くや近くで鳴いている。懸命に愛を叫んでいるのだろう。けたたましいはずの声が今は耳に心地いい。
「ねぇ、ナマエさん。セックスしよーよ」
 無性にナマエを抱きたかった。しかし、言い終えてから、そういえば、ナマエは疲れているのだ、と思い出す。昨日も無理に進めたのだ。また、ナマエを抱けば、彼女の体に負担をかけてしまうだろうか。それならば、家でゆっくりすればいい。互いに手を繋いで、眠るだけでもいい。ナマエの隣にいられるならなんでも良かった。五色たちの時間はこれからもずっと続いていくのだから。
 そう思って、家に来ますか? と言おうとすれば、ナマエは五色の胸に顔を埋めた。
「いいよ。セックスしよ」
「え、でもナマエさん疲れてるんじゃないの?」
「昨日ぐっすり寝たから大丈夫」
 顔を埋めたまま話すナマエの耳は赤い。可愛い。
「俺、手加減できないかも」
「いつも手加減してくれてるの?」
「……してない」
 呟けば、下からクスクスと笑う声が聞こえる。ナマエが笑うたびに胸に愛おしさがジワジワと広がっていった。
 張り切って鳴く蝉にも負けないくらいの気持ちで大きな思いを口にする。
「ナマエさん、大好き」
「私もだよ」
 ナマエの体に回していた腕に力を込めた。