※注意事項※
五色の幼年期を捏造しております。
結末はハッピーエンドとバッドエンドに分かれており、バッドエンドでは更に、黒五色編と白五色編に分かれております。分岐点でリンクを置いておりますので、選択してください。
ハッピーエンドとバッドエンドで夢主の設定が異なります。ハッピーエンドとバッドエンドの両方を読まれる場合は、そのことだけ留意して読んでいただければわかるように書いたつもりですが、わかりづらかったらすみません。
話のど真ん中で分岐点がやってくるので、読みにくかったらすみません。



 工くんと初めて出会ったのは、小学六年生に上がる前の十一歳のときだった。春休みに、家の近くにある公園で近所のちびっ子たち三人と遊んでいたら、公園の入り口で、生垣のツツジに体を隠して、ひょっこりとおかっぱ頭を出してきたのが工くんだった。当時五歳でもうすぐ小学校に入学する工くんだ。
 工くんが一緒に遊びたそうにソワソワしていたので、地面について遊んでいたバスケットボールを隣にいた男の子に渡して、工くんに手招きした。工くんは、ぱぁーっと顔を明るくしたけど、すぐにぷいとそっぽを向いてどこかへ行ってしまった。ちょっと寂しかった。人見知りの子なのかな、と自分に言い聞かせて、今度会ったときはなんて声をかけたらいいだろう、と考えたけど、次の日には忘れていた。
 次の日も、お昼過ぎくらいに公園で、バスケもどきをちびっ子たちとしていたら、昨日と同じように入り口でおかっぱ頭が覗いていた。昨日の子だ、と思い今度は駆け寄ってみた。工くんはびっくりした様子で、顔を半分までツツジの木で隠してしまった。怖がらせてしまったのだろうか。大丈夫だよ、と笑いかけながらしゃがみ込んで目線を合わせる。
「一緒に遊ぶ?」
「いい」
「なんで? 楽しいよ」
「バスケは突き指するからいい」
 工くんはぶっきらぼうに言った。当時の私は、バスケットボールが怖いのかな、と思った。
 バスケットボールは大きいし、重たいしで、私も初めてパスを出されたときは怖かったなぁ、と思い出しながら、じゃあバスケ以外で遊ぼ、何がいい? と聞いた。工くんは照れ臭そうに体をツツジから露わにする。その両手には白いバレーボールがあった。
「バレーできるの?」
「できる! 俺、バレー教室に通ってるもん! 小学生になったらクラブチームに入るんだもん!」
「え、すごい!」
 口からついて出た褒め言葉に、工くんの小さなお鼻が高くなった気がした。工くんがお調子者なのは生まれたときからだったのかもしれない。
「バレーしたいの?」
「お姉ちゃんバレーできるの?」
「ごめん……できない……」
 項垂れた工くんは唇を尖らす。バレーボールを挟んでいた両手にキュッと力を入れたようだった。なんだか、目に涙まで浮かんでいるようにも見える。
 涙を落とされる前になんとかしなきゃ、と慌てて口を開いた。
「でも、教えてくれたらお姉ちゃん、バレーできるようになるかも!」
 顔を上げた工くんは目に見えてご機嫌を取り戻したようだった。
「じゃあ、俺が教えてあげる!」
 工くんは言い切るや否や、私を置いて、走って公園へと入って行く。
「お姉ちゃん早く!」
 振り返った工くんは、待ち切れないと言った様子で、私に向かって叫んだ。
 ちびっ子三人組にもバレーをやるかと声をかけたけど、彼らはバスケットボールに夢中なようで工くんと二人で遊ぶこととなった。工くんは手振り身振りで一生懸命、教えてくれたのだけど、こうやって、こうやって、こうやるの、という説明は初心者にはなかなか難しい。結局、工くんがオーバーハンドで出してくれたパスをうまく返せなくてバレーボールはあっちこっちに飛んでいった。まともに対人パスもできなくて、工くんは泣いちゃうかな、と不安になってしまったけど、そんな心配は必要なく、工くんは、お姉ちゃん下手くそ! とケラケラ笑うだけだった。
 太陽が大きく見える夕方。カラスが鳴く頃に工くんとお別れをする。
「次に会うときまでにはお姉ちゃん、練習しとくね」
「次も遊んでくれるの? いつ?」
「お姉ちゃんは毎日、ここで遊んでるよ」
「じゃあ俺も明日ここにくる!」
「明日までにはお姉ちゃん、上手になれないかも……」
「いいよ。明日も俺が教えてあげるから!」
 工くんは脇にボールを抱え、えっへん、とでも言うように顎をあげた。可愛いなぁ、と思いながら、また明日会う約束の指切りをした。
「一人で帰れる?」
「帰れる!」
 じゃあ、また明日、と言いかけて、あっ、と思い出す。
「僕、名前は?」
「俺、もう僕って言ってない!」
 工くんは頬を膨らませた。難しいお年頃なのかな? と思い、名前は? とだけ言い直す。
「五色工……」
「工くん?」
 うん! と元気に答えてくれた工くんに、私はナマエだよ、と自己紹介すると、ナマエちゃん、と舌足らずに呼ばれ、胸が捩れるほど、ときめいてしまった。
 走って行く小さな背中に手を振る。工くんは、時折、まだ私がいるのかを確かめるように振り向くので、工くんが振り返る度に手を振ってあげると、工くんも大きく手を振り返してくれた。
 次の日も、お昼過ぎに公園で、お馴染みのちびっ子三人組とバスケットボールで遊んでいたら、バレーボールを持った工くんが現れた。私の姿を見た瞬間に瞳を輝かせた工くんは、ナマエちゃん、と言って駆け寄ってきてくれた。工くんがすっかり懐いてくれた様子に私まで工くんへと駆け寄りたくなってしまう。ついでに抱っこしてぎゅーってしたい気分だったけど、そんなことをしたらまた工くんにびっくりされそうだったからやらなかった。
 バスケットボールをちびっ子たちに託して、工くんと、バレーボールで遊んだ。相変わらず、パスもまともにできない私だったけど、工くんは、飽きもせず必死な様子で私に教えてくれた。
 そんな日々が一週間ぐらい続いた頃のことだ。私が変なところに飛ばしたバレーボールを一緒に追いかけていたら、工くんが派手に転んでしまった。
 地面で腹ばいになった工くんは、私が駆け寄る前に、むくりと顔を上げた。平気そうで良かった、と安堵したのも束の間、工くんは目にいっぱい涙を溜めていた。ぐっと唇を噛んで立ち上がる。
「大丈夫?」
「痛くない!」
 工くんはそう言ったけど、短パンから見えていた膝小僧には膝全体を覆うような擦り傷ができていた。痛そうだ。
「膝、大丈夫……?」
「痛くない!」
 それは工くんの精一杯の強がりだったのだろう。小さなおててに握られた拳がいじらしかった。
「工くんは強いんだね」
 おかっぱ頭を撫でてあげたら、工くんは真っ赤にした顔をクシャッとして、私の腰にひしとしがみついてきた。私のお腹に顔を埋める。
「膝洗いに行こっか」
「うん……」
 私のお腹に顔を伏せたまま震える声をこぼした工くんだった。
 工くんの手を引いて、洗い場に向かう。工くんの手を握りながら膝を洗ってあげたのだけど、工くんは顔を顰めるだけで泣くことはしなかった。代わりにと言わんばかりに私の手を痛いくらいにぎゅっと握りしめるだけだった。
 工くんが転けてしまったので、工くんを家まで送ることにした。
「抱っこしてあげようか?」
「男だからいい」
「かっこいいね」
 工くんは素気なく前を向いたけど、ニヤけるのを我慢しているのか、ぎゅっと閉じた口がわずかばかりに緩んでいた。
 小さな手を握りながら、工くんの案内に従い、夕陽に向かって進んでいく。
「ナマエちゃん」
「何?」
 工くんが立ち止まるので、同じように立ち止まった。夕日に染まった顔がこちらを見上げている。
「俺と結婚して!」
 つぶらな瞳がぱちぱちと瞬きをしていた。瞬きをするたびに、黒い瞳の中で、オレンジの光がゆらゆら揺れる。
 やっぱり可愛いなぁ。弟にしたいくらいだ。
 私も工くんぐらいの頃は愛を知らずにたくさんの愛の言葉を口にしていたのだろう。きっとそれは信頼の証だったのだ。
 幼気な信頼に現実を突きつける必要などない。
「いいよ」
 嬉しそうに笑った工くんと小指を交わらせた。

 小学校が始まると、工くんと遊ぶ機会はぐんと減った。工くんに新しい友達ができたからというのもあるのかもしれないし、工くんがバレーボールのクラブチームに入ったからというのもあるのかもしれない。工くんが公園に来ることは殆どなくなってしまったのだ。それでも、朝、登校中に会うと、大きなランドセルを背負った工くんは駆け寄って来てくれた。なんの話をしたかは思い出せないけど、バレーの話が殆どだったと思う。あれを練習しているとか、これができるようになったとか。バレーについて詳しくない私にもわかるように懸命にこちらを見上げて説明してくれる姿が印象的だった。
 私が中学生になると、工くんとは、疎遠になってしまった。私が公園に行くというのもこの頃からは、もうなくなってしまっていたように思う。工くんと会えるのは二、三ヶ月に一度くらいになり、会うといっても、中学からの帰り道で同じく下校途中の工くんとばったり出くわすという程度。工くんとは挨拶を交わすだけだった。工くんは、私とお話をしたそうにしてくれていたけど、それと同時に、一緒に帰っていた友達たちとも一緒に過ごしたそうにしていた。当然のことだろう。近所に住む、たまに会うお姉ちゃんよりも毎日一緒に過ごす友達と一緒にいる方が楽しいはずだ。むしろ、挨拶をしてくれただけ良かったというものだ。だから、工くんを引き止めたりはしなかった。工くんに悪いと思ってあえて長話をしなかったのだ。
 私が高校生に上がると、工くんはすっかり他人行儀になってしまった。上下関係の厳しい体育会系に属しているからというのもあるのだろうし、工くんが異性を意識し出す小学五年生に上がったからというのもあるのだろう。工くんはすっかりおませさんになっており、もう、ナマエちゃん、と呼んで駆けつけてくれることはなくなった。会えば、無愛想に久しぶりって言うだけ。こうして男の子は男子になっていくんだなぁ、としみじみ思ったことは今でも覚えている。
 そんな工くんがついに、男子になってしまったのは、私が高三で、工くんが中一のときだ。季節はいつのことだったかは覚えていないけど、夕方、高校からの帰り道で、まだ皺一つないテカテカの学ランを着た工くんに会ったときのことだった。彼は私を、ナマエさん、と呼んだのだ。歩道のど真ん中にもかかわらず、私は足を止めてしまった。工くんも足を止めて隣に並ぶ。
「え、今なんて?」
「だから、久しぶりですねって」
「え……久ぶり、デスネ? なにそれ……」
「え? ナマエさんと会うのは久しぶりだと思うんですけど」
「確かに、会うのは久しぶりなんだけど……」
 工くんに言いたいことはいっぱいあった。なんで、さん付けなの、とか、なんで敬語なの、とか。それに、ついこの間まで、私を見上げていたはずの子が私を見下ろしていたのだ。もう、何が何だかわからなかった。
「ごめん……私、今何も考えられない……」
 大切な娘がお嫁さんに行ってしまった父親の気持ちというものがわかってしまった気がした。私はどう頑張っても父親になれないし、工くんも私の娘になることはないのだろうけど。
 工くんが公園で転けてしまった日、工くんの手を引いて並んで歩いた。その日のことは、繋いだ手から感じた、高めの体温まで鮮明に思い出せるのに、それは分厚いアルバムをめくってようやく現れる、遥か遠い昔の記憶だったのだ。
 私たちの間を冷たい風が吹き抜け、季節は変わろうとしていた。
 ――ん? 冷たい風? 季節が変わる? これはそういう時期の話だっただろうか?
 その辺はあまり詳細には思い出せないので、とりあえず話を戻そう。
 私の言動が不可解だったのか、工くんはあせあせしだす。
「すみません……俺何か変なこと言いました?」
「ううん、私の問題。ごめんね」
 工くんに笑いかけて止めてしまった足を進める。工くんも私の横に並んで歩いた。
「ナマエさん、今年受験生ですよね?」
「え?」
「だからナマエさん、今年受験生ですよね?」
「あ、うん。そうだよ」
 会話に集中できないのは、目の前にいる工くんを未だに受け入れられていないからだ。小鳥のさえずりのようだった声は落ち着いた低い声となっており、丸みを帯びていた顔は精悍な面立ちとなっていた。ぱちくりして見上げていたおめめは鋭い三白眼となって私を見下ろしている。工くんは男の子ではなく正真正銘男子なのだ。変わっていないのは、艶のあるおかっぱ頭だけ。
 まるで知らない人と話しているような気分だった。
 私のぎこちない態度が不服なのか、工くんは、顔を背けて愛想なく尋ねた。
「あの……どこの大学に進学するんですか?」
「あぁ、えっと……」
 県外の大学を志望していたので、その旨を工くんに伝える。
 ――あれ? 工くんと志望校の話をしているということは、これは秋のことだったのだろうか。そう思えばそんな気がしてきた。このあと、工くんが突然立ち止まってしまったのだけど、工くんの後ろに見える街路樹がイチョウに見えてきた。黄金を背景に工くんは私をじっと見下ろしてきたのだ。
「それってもうナマエさんに会えないってこと?」
「会えないって大袈裟だよ。実家はずっと今住んでるとこにあるんだからさ」
「そうだけど……」
 神妙な顔をした工くんは、視線を落とした。工くんはもしかして私が県外の大学に行くことを寂しがってくれているのだろうか。工くんの輪郭を夕日がキラキラと溶かしており、このまま工くんは消えてしまうのではないか、と思えるほど工くんの姿は儚げに見えた。大丈夫だよっと肩をぽんぽん叩いてあげても、工くんは顔を上げようとせず、下ろした手にきつく拳を握っている。体は大きくなったけど、まるで置いてきぼりを食らった子どものようだった。可愛いなぁ。でも大丈夫だよ。私は工くんの幼馴染であることには変わらないんだから。そんなことを考えていたような気がする。実際、口に出して言っていたのかもしれない。あまり覚えていないんだけど。
 このあと、どうしたんだったか。
 何か言われたような気がするけど、思い出せない。思い出せないということは、きっと、大したことを言われたわけではないのだろう。もしかして、冗談のような話が出て場が和んだのかもしれない。確か、この後、工くんは昔と変わらない笑顔を向けてくれたのだ。だから、私も安心して、並んで一緒に帰ったのだった。
 それからも、工くんとは高校からの帰り道でたまに遭遇しては、他愛のない会話を繰り返した。内容はやっぱりバレーのことだったと思う。見下ろしてくる工くんに慣れてしまえば、向けてくる眼差しが昔と変わらず無邪気なものだ、ということに気がついて、やっぱり工くんは初めて公園で目を合わせたときに、顔を輝かせてくれた工くんと変わらないんだなぁ、と思っていた。

 工くんとの記憶がここでぱたりと途絶えているのは、大学に進学してからは、もう、顔を合わせていないからだ。大学に進学すると、楽しくて、殆ど実家に帰っていなかった。実家に帰らなければ工くんと会うことなんてまずない。矢のように大学時代の日々を飛び越えていき、気がつけば社会人になっていた。私、二十五歳。いわゆるアラサーというものに足を一歩踏み入れたのだった。
 そんな私がなんで幼馴染の思い出に耽っていたかというと、それはまた後ほど。


* * *


 長い休みのあとの出社ほど憂鬱なものはないと思う。お盆休みから一週間たっているにも関わらず、私の体はまだ休みの中に取り残されていた。何をしていてもぼーっとしてしまうのだ。
 社会人になってからも私は両親にとって糸の切れた凧だった。便りがないのは元気な証拠と呆れられていることをいいことに今年のお盆はヨーロッパで過ごした。チーズ美味しかったなぁ、と口の中でトロけた思い出に浸りながら、体に染み付いた動きに任せ業務を片付けていった。入社三年目にしてマスターしたオートモードだ。
 定時五分前になると、ディスプレイに表示されている窓のバッテンボタンを全てクリックしていく。誰にも話しかけられませんように、と心の中で祈りながら右下に表示されている時刻が定時になるのを見届け、ノートパソコンを閉じた。
 お疲れ様でーす、と鞄を持ってそそくさと職場を後にする。ちょうどお盆前にプロジェクトを終えたところなのだ。じきに新たなプロジェクトに組み込まれ激務に見舞われることとなる。それまでは束の間のひとときを平和に過ごしても誰にも文句を言われないのだ。

 オフィスビルを後ろにして、伸びをする。空はまだ、青く澄み渡っていた。涼やかな風は出てきたが、蝉はまだまだ夏は終わっていないと言わんばかりに声を重ねている。
 今日の晩御飯何にしようか、と思いながら、歩道に向かって一歩踏むだしたとき、ふと前方にある街路樹――緑生い茂る木の横に長身の男性が立っているのが視界に入った。誰か待っているのだろうか。歩く通行人より頭一つ分くらい背の高い彼につい目を向けてしまうと、彼とばっちり目が合ってしまった。知らない人だったので、反射的に視線を絶ち、帰路に就こうとしたけど、ナマエさん、と懐かしい声で呼ばれ、振り向けば、先程、目があった男性がすぐそばに立っていた。
 目の前に立つ男性はどこかで見たことのあるおかっぱ頭をしていた。しかし、こんなに凛々しく眉をあげ、優しく目を細めて私を見下ろしてくれる人なんて知らない。
「あの……どちら様でしょうか?」
「俺のこと忘れちゃったんですか!?」
 男性は目を剥く。私の知り合いなのだろうか。首を捻る。記憶を引っ掻いてくるおかっぱ頭にヒントが隠されているような気がする。そう思ったとき、頭の中で、ナマエちゃん! と、バレーボールを持った小さな工くんが駆け寄ってきた。頭の中で描かれた工くんは目の前の男性と重なる。
「え? もしかして工くん?」
「そうですよ! ナマエさんひどいです!」
「ごめんね。その、あまりにも……」
 カッコよくなっているから、とは言えなかった。
 工くんに最後に会ったのはいつだったか。忘れていた、幼馴染の記憶が一気に駆け巡る。最後に会った工くんは男子だった。でも目の前に立つ人は男の人だ。瞳は、記憶の中で一番新しい工くんとなんら変わることのない澄んだものだったけど、端正な顔つきはより力強さを増した気がする。肩幅は私の倍以上あるんじゃないだろうかってくらい広くなっているし、照れたように頬を掻く手は私の顔を覆っちゃうんじゃないかというくらい大きくなっていた。
 工くんは本当にカッコよくなっていたのだ。でも、それを口にしようとすると、顔が火照ってしまいうまく言葉にできなかった。私が、あまりにも、と切り出した先を言えずに口籠もっていると、工くんは不思議そうな顔で覗き込んでくる。
「あまりにも?」
「その、あまりにも……えっと……大きくなってたから!」
 思いついた言葉を口にすると、工くんの鼻が高くなった気がした。いつか見た光景と重なり、本質的なところは私の知っている工くんと変わらないんだな、と思うと笑みがこぼれた。
「それより、こんなところでどうしたの? 誰か知り合いでも待ってるの?」
「ナマエさんを迎えにきたんですよ」
 工くんは、青空を背景に爽やかに笑う。
 ひまわりような笑顔を前に、やっぱりまだ夏は終わっていないのだということを感じた。
「私を迎えに? なんで?」
「約束したでしょ?」
「約束?」
「もしかしてこれもナマエさん忘れちゃったの?」
 工くんは、ひどいです、とボソリと呟くと、がっかりと言わんばかりに首を垂れた。
 約束、とはなんの話だろうか。そもそも、私が大学に進学してから一度も会っていないのだから、約束なんてしようがないのだ。全く身に覚えのない話だったけど、工くんのしゅんとした様子を見ていると申し訳ない気持ちになってくる。
 工くんは、恨めしそうな目を私に寄越してきた。
「昔、俺がナマエさんに告白したとき、ナマエさん、お互い大人になったらって、言ってくれたでしょ」
 工くんが私に告白? そんなことがあっただろうか。告白、コクハク、こくはく? と頭の中で意味もなく同じ言葉を繰り返していると、工くんの後ろに見える青空に茜が溶け込み始める。横からは眩い黄金の光が差し込み、工くんの輪郭で光がキラキラと踊っていた。
 瞬間、記憶がフラッシュバックする。
 それは、私が高三のときのことだ。工くんは中一。帰宅途中でたまたま工くんと会い、工くんと話していたときのこと。工くんが、私が県外の大学に進学すると知ったとき、今と同じように立ち止まって俯いたのだ。彼の後ろでは色づいたイチョウがサワサワと揺れていた。
『でも大丈夫だよ。私は工くんの幼馴染であることには変わらないんだから』
 そう言ったら工くんは、顔を上げて真っ直ぐに私を見た。
『俺はナマエさんを幼馴染だと思ったことは一度もありません』
 はっきりとそう言われてショックだった。私だけが工くんのお姉ちゃんでいたつもりだったらしい。それもそうかもしれない。公園で遊んだのは私が小六に上がる前の春休みくらいで、あとは立ち話を少しするだけの関係だった。工くんからしたら、近所に住む赤の他人なのだ。勘違いしてしまっていたのだ、と思うと、イチョウを揺らす風が酷く冷たく感じた。早く帰りたい気持ちでいると、工くんは、例の言葉を口にしたのだ。
『俺! ナマエさんがずっと好きでした!』
 叫びにも似た声量にびっくりしたし、発せられた言葉にも虚をつかれて何も言えないでいると、また工くんは、大きな声で言った。
『俺と付き合ってください!』
 そのとき、私は言ったのだろう。お互い大人になったらね、と。
 だって、しょうがないじゃないか。相手は五個も年下の中一なのだ。工くんがこういう冗談を言う子ではないということはわかっていたけど、きっと、まだ恋を知らないんだろうなぁ、と思ってしまったのだ。幼稚園児が先生に好きだ、というようなものなのだと思い、適当にその場を流した。
 だって工くんは、可愛くて素敵な子だったんだもん。好きだ、と言われた瞬間に、世界はくるりと反転し、私を見下ろす工くんは異性に変わった。でも、私だけが期待をして、近い将来、本当の恋を知った工くんを前に、悲しい思いをするのは嫌だったのだ。だから、また、世界をくるりと回して元に戻し、気まぐれのような言葉を発してその場から逃げたのだった。
 これは、今から七年前の約束だった。
「えっ!? そんなこと覚えててくれたの!?」
「そんなことなんて言わないでください! 俺はずっとその言葉を支えに頑張ってきたんですから! それで、先日、やっと二十歳になったんでナマエさんを迎えに来たんです」
「そうだったんだ……」
 まさか、自分の発した言葉が七年間も工くんを縛るなんて思いもしなかった。
「でも、会ってがっかりしたんじゃない? 私、そんなに――」
 可愛くないし、美人でもないし、と言いかけてやめた。そんなことを言って工くんを困らせることは嫌だった。でも、言い出してしまった言葉の続きを見つけられないでいると、工くんは穏やかに微笑む。いつからそんな風に笑うようになったのだろうか。
「ナマエさんは出会ったころと変わらず、素敵ですよ」
 顔が、ボン、と音が出そうなほど熱くなる。
「でも、私若くないし……」
「俺とそんなに変わりませんよ」
「でも、私……工くんと歳離れてるし……」
「年齢差なんて関係ありません」
「でも……」
 必死に言い訳を探した。恋人がいるわけでもなければ結婚をしているわけでもない。ただ、カッコよくなった工くんを前に自分が小さくなってしまったようで、堂々と前を向けなかった。
 すると、工くんは、逞しくなった手で私の顔を包み込む。私の顔を上に向けさせると、眉尻を下げて笑った。
「また俺のこと、はぐらかそうとしてるんですか?」
「そんなつもりは!」
 工くんの笑顔が羽のように優しく私を包み込んだ。これじゃあ、どっちが年上かなんてわからないじゃない。
「約束通り、ちゃんと大人になりました」
 工くんは額を私の額にコツンとぶつける。顔が近い。工くんの呼吸音が聞こえてきそうだった。先程まで、うるさいほどに鳴いていた蝉の声は遠ざかっていき、代わりに心臓の音が近づいてくる。
「ナマエさんは俺のこと嫌いですか?」
 工くんの声が私の心の中に静かに響くと、心を武装していた不恰好な鎧は崩れ去った。まるで熱に浮かされたような心地で、キュッと結んでいた口を開く。
「嫌いじゃない」
「俺にキスされるのは嫌ですか?」
「嫌じゃ――」
 言い終える前に口を塞がれた。目の前には閉ざされた瞳。少し涙が滲んでいるようにも見える。ゆっくり瞼を閉じると、工くんの唇の柔らかさを感じた。
 人々のざわめき。車の走る音。蝉の鳴く声。これらが混じり合った音がどこか遠くで聞こえる。
 工くんは顔を上げると、覆いかぶさるようにして私を抱きしめた。昔は私の腰に腕を回していたくせに。本当に大人になったんだなぁ。
「好きです。ナマエさん。もう離さないですからね」
「うん……」
 返した言葉は、込み上げてくるものが邪魔をして震えてしまった。すると、私を守るように、私を締め付ける力はより一層強くなった気がした。

 オフィスビルを出ると、クーラーでキンキンに冷えていた体はじっとりとした空気に包まれる。どうやら、夏はまだまだ終わらないらしい。青空には黄金のベールがかかっていたたけど、太陽は地平線から程遠いところで輝いていた。
 今日は晩御飯、何つくってあげようかな、と入道雲の上を歩くような気持ちで足を踏み出すと、後ろからナマエさん、と懐かしい声に呼び止められた。振り向くと、見上げる首が痛いほど背の高い男性が立っていた。おかっぱ頭をした彼は穏やかな笑顔で私を見下ろしている。一瞬、誰だろう、と首を捻ったけど、見慣れたおかっぱ頭が記憶を叩いた。記憶の中にある、ナマエちゃん! と見上げてくる幼馴染の笑顔と目の前の笑顔が重なる。
「嘘! 工くん!?」
「はい」
 柔らかな声で返事をしてくれた彼は、暫く見ないうちに随分と逞しくなったようだ。最後に会ったときから少し目線が高くなったような気がする。筋肉がついて、筋の浮き出る腕は大人の男の人のものだ。それでも、健在の愛らしいおかっぱ頭は大きな体とチグハグのようだけど絶妙なバランスでマッチしていて、つい笑ってしまう。きっと笑顔が素敵な工くんだから、このおかっぱ頭が許されるのだろう。

  • 黒五色編
  • 白五色編

 久しぶりの再会に感激して、口に手を当てると、工くんにその手を強引に握られた。握られた手が少し痛いし、工くんからは笑顔が消えた気がした。
 いきなり、どうしたんだろう。
「何これ」
 低い声で言われて、情感に溢れた心は冷え切り、体がびくりと震えてしまう。
「何って……?」
「この指輪何?」
 工くんは私の左手を掴んだままもう一度問うた。恐らく、工くんが、何これ、と言ったのは、工くんが掴む手についたシルバーの指輪のことだろう。
「あぁ、えっと……今年の春に結婚したの……」
「結婚?」
 工くんは眉根を寄せる。結婚を喜んで、とは言わないが、こんな顔をされる理由もわからなかった。工くんは、悔しそうに歯を噛み締めた。
「やっぱり結婚したっていうのは本当だったんですね……」
「やっぱり? どういうこと?」
「おばさんから聞いたんです。ナマエさんを迎えに行きたくて、居場所を聞きにおばさんを訪ねたんです。そしたら、おばさんがナマエさんは結婚したって言うから……」
 おばさんと言うのは私の母親だろう。工くんと公園で遊んでいた頃に、母と工くんは面識があった。今も交流があるとは知らなかったけど。
 工くんの後ろでは、空の青みに茜が差していた。工くんの顔に落ちる影がより深みを増した気がして、一歩、小さく後退りをする。
「ナマエさんが結婚したなんて嘘だと思って急いでここまできたんです。でも、やっぱり本当だったんですね……」
 縋るような瞳を向けられる。私が一歩工くんから離れた分、工くんが一歩近づいてきた。
「ねえ、なんで? 俺と約束しましたよね? 俺のこと裏切ったの?」
「約束?」
 全く身に覚えのない単語に首を傾げると、握りっぱなしにされていた手を更に強く握られたので、思わず、痛っ、と声を上げてしまった。工くんは、ごめんなさいっ、と言って慌てた様子で手を離す。
 だけど、私を見る瞳は暗い。瞳に闇を宿したまま、工くんは歪に笑った。
「まさか約束を忘れたなんて言いませんよね……ナマエさんが言ったんですよ……」
 そう言われても、工くんの言う約束に関する記憶は何も思い出せなかった。
 私は工くんに、何を言ってしまったのだろうか。工くんと最後に会ったのは、七年前だ。少なくとも七年間はその約束に工くんは縛られていたということになる。一人の人間をそんなにも長く縛る約束などあるのだろうか。
 呪いにも似た約束とやらを思い出さないといけないとわかっていたけど、ぐちゃぐちゃになった頭の中からは何も取り出せなかった。
 工くんは辛そうな顔で笑ったまま続けた。
「俺がナマエさんに告白したとき、ナマエさんが大人になったら付き合ってあげるって言ったんじゃないですか……」
 そんなことを私は言ったのだろうか。工くんに言われた今もピンと来なかった。工くんに告白をされたということも全く覚えていない。でも、勘違いじゃない? なんて言えるような軽々しい雰囲気ではなかった。きっと、当時の私は言ってしまったのだろう。それこそ、軽々しい気持ちで。
 工くんを真っ直ぐに見ることができず、俯く。俯いた先では胸の上で緩く握っていた拳が見えた。その手に、はめられた、シルバーに輝く指輪は夕日を冷たく反射している。
「ごめん……」
「いいですよ」
 あっさりと許しの言葉をもらえてホッとする。同時にどっと疲れが押し寄せてきて、真っ直ぐ家に帰りたい気持ちだった。夕日も沈みかけているらしく、地面では、工くんから長い影がおどろおどろしく伸びていた。
 工くんに、じゃあまたね、と口にしようとして地面から顔を上げた。しかし、私の口から何も出てこなかったのは、工くんと目が合い、固まってしまったからだ。
 工くんがいいですよ、といったのは嘘だ、と直感した。工くんは冷たい瞳に虚な光を灯して笑っていた。
「ナマエさんがこれから俺のものになってくれたら許してあげます」
 工くんが言い切るや否や、目の前には瞳を閉じた工くんの顔があり、私の口は柔らかな唇で塞がれていた。
「やめて」
 両手で工くんの胸を押して、工くんから離れる。
「なんで嫌がるの?」
「なんでって……」
 悲しそうな顔をされて困ってしまう。工くんだって、なんでがわからないほど子どもじゃないだろうに。
 わざとわからないふりをしているのか、それとも本当にわからないのか、置いてきぼりにされた子どものような目が私を覗いていた。
「ごめんね」
 私が悪いとわかっていながらもどうすることもできない。この場から逃げようと足を伸ばすが、腕を捕られた。
「離して……」
「離したらナマエさん逃げるでしょ」
 工くんの静かな声には怒りと悲しみが満ち溢れていた。それにもかかわらず、工くんがニコリと笑うので、体がすくんでしまう。
「大丈夫です。俺がちゃんとナマエさんを幸せにしてあげますから」
 工くんが両手を広げて覆いかぶさってくる。逃げなきゃ、と体の中では警報がけたたましくなっているのに、体は動かなかった。大きな体に包み込まれる。逃がさない、とでもいうようにきつく抱きしめられた。
 工くんは私の首筋に顔を埋める。
「好き。子どもの頃からずっとあなたが好きだった。だから、ナマエさん……」
 耳元で聞こえる声は随分と頼りなかった。
「手を引いてくれたあの頃みたいに俺だけを見てよ……」
 工くんの手を引いてあげたあの頃――それは何も知らなかったあの頃のことだ。
 心の奥底にしまわれていた思い出が錆びついた蓋を開く。工くんと過ごした日々の記憶が一気に駆け巡った。
 あの頃は何も知らずに、工くんと結婚の約束を交わした。きっと、あの頃は願えば何にでもなれたのだ。お母さんにだって、お花屋さんにだって、きっと、宇宙飛行士にだってなれた。
 でも、私たちはもう今の私たちにしかなれない。窮屈な大人になってしまったのだから。
 首筋にポタポタと熱いものが落ちていく。転けて大きな擦り傷を作ったときには、必死に泣くことを我慢していたのに、大人になった工くんは嗚咽までこぼしていた。
 夏はまだまだ終わらないらしい、と思ったのはどうやら、勘違いだったようだ。工くんの少し後ろでは、蝉の亡骸が転がっていた。あんなところに転がっていて大丈夫だろうか。無数の人が行き交いする歩道のど真ん中だ。あんなところに転がっていては踏み潰されてしまうのではないだろうか。
 目の前にある白い首筋に顔を埋める。遠くで、クシャッという乾いた音がして心が潰れてしまったような気がした。

 久しぶりの再会に感激するあまり口に手を当てると、工くんはぎくりとでもいうように固まった。
「どうしたの?」
「ナマエさん……その指輪……」
「指輪?」
 工くんの目線は、私が口に当てた左手に注がれていた。その手の薬指にはシルバーに輝く指輪がはめられていた。
「あぁ、これ今年の春に結婚したの」
 私が指をつけた手を見せると、真っ青になった工くんは、片手で髪をクシャッと掴みながら、一歩、二歩とふらふら後退りをする。
「ご、ごめんなさい……俺、なんか勘違いしちゃってたみたいで……」
「勘違い?」
「いえ、なんでもないです……」
 工くんはなんでもないと言ったが、明らかに、なんでもないような様子ではなかった。顔は病人のように青いままだし、足元はふらついている。大丈夫? と聞いても、大丈夫です、としか返ってこなかった。しかし、その声は酷くか細くて、あちこちで鳴く蝉の声にかき消されてしまいそうなほどだった。
 項垂れた工くんはボソリと呟く。
「ナマエさんは何も覚えてないんですね……」
「え? 何?」
「いえ、何でもないです。本当に、何でも……」
 工くんは自分に言い聞かせるように言った。
 本当にどうしたのだろうか。体調でも悪いのだろうか。そう思ったとき、工くんは顔を上げた。眉尻を下げて悲しそうに笑っている。
「初めてあなたと会った頃からずっとあなたのことが好きでした」
 胸がドキッとした。好き、という工くんの言葉というよりも目の前にある笑顔の方に胸を引っ掻かれた。
 工くんは、静かに続ける。
「だから、あなたの幸せだけを願ってます」
 それは言われて嬉しいはずの言葉なのに、胸を締め付けてきた。どうして、こんな気持ちにさせられるのだろうか。工くんの好き、という言葉が私に重くのしかかっていた。しかし、工くんは好きでした、と言ったのだ。過去形だ。何も知らない小さな男の子が、近所に住む年上の幼馴染に憧れる、なんて話はよくある話だ。大人になった今の工くんにそういう気持ちはもうないのだろう。だから、かつての思い出を語るように好きだったという告白をしてくれたのだ。
 半ば言い訳のように思考を巡らせていると、工くんの瞳が一瞬だけ揺れたような気がした。でも見間違いだったのかもしれない。黄金の空を背景に、工くんは綺麗に笑ったのだ。
「結婚、おめでとうございます」
「ありがとう……」
 呆気に取られた気持ちで私がお礼を返すと、工くんは笑顔を残して、クルリと背中を向ける。大きくなったと思った背中は小さく丸まっており、工くんが歩み始めると、その背中はすぐに人ごみに飲み込まれていった。心臓が強く胸を叩いている。どうしてか、工くんの背中を追いかけなければいけない気に駆られた。しかし、追いかけたところでどうするというのだ。きっともう会うことのない幼馴染だ。地元で偶然会えたとしても、挨拶を交わす程度だろう。今までだってそうだったじゃないか。私も、踵を返す。そういえば、工くんはどうしてこんなところに来ていたのだろうか。私に何か用があったのだろうか。我が家に向かって二、三歩歩けば、その疑問は消え失せた。足取りは重たかったけど、更に、二、三歩歩けばそこはいつもの帰路だった。