教室の掛時計を見ると、時計の針はちょうど、縦まっすぐに伸びる1本の棒となっており、工くんの部活が終わるまであと1時間だということを知らせていた。
 工くんとは昨年の冬、つまり高1の冬から付き合いだして、そろそろ1年が経つ。付き合ってからは、部活で忙しい工くんとの時間を作るために、毎日一緒に寮へと帰っていた。今日もその習慣に習い、工くんと帰宅する予定だ。いつもの待ち合わせ場所である私の教室で一人きり、課題をしながら、工くんを待っていた。
 課題が全て終わったので、ふぅ、と息をついて机に突っ伏す。目の前にあるストーブがジリジリと膝を焼いており、ポカポカと温まる体は睡魔に襲われた。何気なく顔を横に向けると、曇った窓から見える景色は真っ暗で、その景色を縁取るように窓のサッシには雪が積もっていた。今年のクリスマスもホワイトクリスマスになるのだろうか。2週間後に、工くんと初めて過ごすクリスマスが迫っていた。
 クリスマスには、工くんにプレゼントを渡したいと思っている。でも、プレゼントを何にするかまでは、まるで決まっていなかった。どうしようか。何をあげたら喜んでもらえるかなぁ。工くんに渡すプレゼントを思案し始める。できれば毎日使ってもらえるものがいいなぁ。タオル? 文房具? マフラー? と取り留めなく頭の中で挙げていっていたら、羊を数える要領で、まぶたが重くなってきた。このまま寝てしまったら風邪を引くだろうか。でも、目の前にストーブがあるから、大丈夫かなぁ。そう思う頃には、暗闇に包まれ、深い泉へと沈んでいた。
 手を握られる感覚に、微睡の中から、意識が引き上げられる。眠り始めて、どのくらい時間が経ったのかはわからないけど、きっと工くんが迎えにきてくれたのだろう。うっすらと目を開けると、目の前に、大きな手のひらに乗った私の手が見えた。この大きな手は工くんの手だろうか。まだうとうとする頭を起こせずに視線だけを上に向けると、真剣な顔をした工くんがじっと私たちの繋がった手を見下ろしていた。私が起きたことにも気がつかないほど、集中している様子。どうしたんだろう。手を繋いでいない方の工くんの手はメジャーを持っていた。その手は僅かに震えているように見える。なんで、メジャー? 疑問に思っていると、工くんは手を繋いでいる方の手で、私の薬指をそっと指で挟み、メジャーを近づけてくる。あれ? これはもしかして? と思うと、なんだか起きてはいけない気がしてきて、慌てて目を閉じた。私の脳裏を過ぎったのは、2、3週間前にした会話だった。昼休みに、友達から彼氏に指輪をもらったという話を聞いて、帰り道で、なんとなくその話を工くんにしたのだ。街灯だけが照らす暗い夜道でのことだった。雪は降っていなかったけど、道の端では、昨日降った雪が残っていた。二人とも白い息を吐きながら、指を絡めさせ合うことで互いの熱を分け合い、寮へと向かって歩いていた。
「指輪って憧れるよね」
「俺にはよくわかんないけど……ナマエ、指輪欲しいの?」
「えー? どうだろ……もらったことないし、もらうこと想像したこともないからよくわかんない」
「ふーん……」
 工くんは、繋いでいた手にぎゅっと力を込めた。どうしたんだろう。工くんを見上げると、工くんは私がいる方とは反対側を見ていた。街灯の下に入ると、淡い光が工くんの赤くなった耳の縁を照らす。
「あのさ……」
「何?」
「別に予定はないんだけど……」
「うん」
「ただ聞いてみたいだけなんだけど……」
「うん」
「もし、俺から指輪プレゼントされたら嬉しい?」
 工くんから指輪をプレゼントさせる日のことを考えると、顔が熱くなっていく。吐いていた白い息も、その熱を増したような気がした。いつかそういう日が訪れるのだろうか。きっと高校生の私たちには指輪なんてまだ早いから、だいぶ先の未来の話になるんだろうけど、だいぶ先の未来も工くんの隣を歩けていたらいいなぁ、と思うと、嬉しいよ、と返していた。
「ふーん」
 素っ気なく返した工くんだったけど、照れているだけなのだろう、ということは、私から顔を隠すようにそっぽを向いたままの工くんを見ればわかった。工くんも、だいぶ先の未来も変わらず私と一緒にいると思ってくれているのだろうか。そうだったらいいなぁ、と思いながら、ぎゅっと握ってくれる手を握り返した。
 それが、2、3週間前にした会話だった。指輪をプレゼントされる日が来るとしたら、だいぶ先のことだと思っていたのだけど、もしかしたら、その日はもうすぐ来るのかもしれない。今の状況がそう物語っていた。きっと、工くんは私の指のサイズを測ろうとしてくれているのだ。私が寝ているのだと思って。
 じゃあ、絶対にこの状況では起きてはいけない気がする。寝ているふりを続けた。でも、工くんが指輪をプレゼントしてくれるのかぁ、とか、寝ている間に一生懸命、指のサイズを測ってくれるんだぁ、とか思うと、胸がくすぐったくて、結んだ唇が震えてしまうし、閉じた目もピクピク動いてしまう。動いちゃダメだ、と自分に言い聞かせた。せっかく工くんが私に内緒で喜ばせようとしてくれているのだ。その思いをムゲにしたくなかった。表情筋に力を込めて、顔を静止させる。すると、工くんから、あっ、という声が上がった。どうしたのだろうか。床の方では、ぱさり、と何かが落ちるような音がした。
 もしかしたら、工くん、メジャー落としちゃったのかな。メジャーを持っていた手は震えていたし、指のような細いものをメジャーで測るには工くんの手は大き過ぎる。きっと、工くんが窮屈に震える手を動かしている間に、メジャーが工くんの指をすり抜けてしまったのだろう。私の手を握ったままの工くんがしゃがみ込む気配を感じる。やっぱり工くんはメジャーを落としてしまったようだった。私は、工くんが無事にメジャーを拾い、私の指を測り終えるまで、もう暫く表情筋に力を込めておかなければならない。寝たふりを続ける決意を固めていると、いでっ、という声があがり、私が伏せていた机が大きく揺れた。どうしたのかな? 鈍器をぶつけたような鈍い音もしたから、状況を察するに、工くんは頭を机にぶつけてしまったのだろうか。大丈夫かな? 起きた方がいいのだろうか。心配していたら、ふぅ、と安心するような声が聞こえてきたので、無事、工くんはメジャーを拾えたものと思われる。良かった。
 頑張って、と心の中で応援をして、寝たふりを続けることにした。
 それにしても、工くん、コソコソしているわりに騒がしいな。声を上げられたり、机を揺らされたりとされて、眠っていられる人なんていないと思うんだけど。でも、工くんは私が眠っていると思い込んでいるようだから、やっぱり私は寝たふりを続ける。狸寝入りの名人になれそう。
 そんなアホなことを考えていたら、ようやく、私の薬指にメジャーが巻かれる感覚。工くんは私の指にメジャーを通すところまでできたようだった。あと、ちょっとでゴールだよ、と心の中で応援を続ける。
「ひゃくよんじゅうごう、てん……えっ?」
 途中まで読み上げられた数字は指の円周には、あるまじき数字だった。恐らく単位はセンチだろうから、工くんが先ほど読み上げた数字は145センチということとなる。ちょっと小さい女の子が腕を回せる大木サイズだ。私の指はそんなに太くないし、世界中を探してもそんなに太い指を持つ人はいないだろう。きっと、ゾウさんの指だってそんなに太くない。多分、工くんはメジャーの頭ではなく尻尾の方で計っちゃったんだ。でも引き算したら指の円周はわかるよ。大丈夫だからね、と心の中で励ます。
「あ、逆か……」
 指からメジャーがするり、と抜かれる感覚。これで工くんのミッションも完了だ。そろそろ起きてもいいだろうか、と思うと、また指にメジャーが通される感覚。もしかして、工くんは、メジャーの頭の方で測り直すのだろうか。手が震えてしまうくらいに緊張しているから、引き算をするという発想になれなかったのかもしれない。工くんに付き合ってもう少し寝たふりを続ける。
 指にメジャーが巻かれているのを感じながら、同時に私に触れている工くんの手の感触も感じていた。工くんとはいつも手を繋いでいるけど、こうして触覚だけで工くんの手を感じていると、改めて工くんの手は男の子の手なんだなぁ、と思う。私よりも大きくて、骨張っていて、ゴツゴツしている。そして、ちょっと乾燥していた。工くんはハンドクリームを塗らないのだろうか。バレーボール選手だから、手のお手入れはちゃんとしているんだろうけど。ガサガサってほどではないけど、手の甲が白くなっていそうなくらいには乾燥していそうだった。そうだ、クリスマスプレゼントはハンドクリームにしよう。でも、ハンドクリームだけでいいのかなぁ。工くんは多分、指輪をプレゼントしてくれる気だ。なんだか、指輪とハンドクリームじゃ、釣り合わない気がする。プレゼントは気持ちなんだろうけど。ハンドクリームと一緒にお菓子でも作ってあげたらいいかな。うーん、と唸って、その唸り声が鼓膜を揺らして、やばっと思う。心の声が口から漏れてしまったようだった。私の唸り声は工くんの耳にも届いていたらしく、工くんの手はビクって動いた瞬間に固まってしまっていた。工くんに私が起きていることがバレてしまったのだろうか。全身から変な汗が噴き出てくる。工くんに握られている手も汗ばんできた。どうしよう。起きていた、と白状するべきだろうか。それとも、寝たふりを強行するべきか。ドキドキ、ドキドキ、と心臓の音が迫ってくる。この心臓の音が工くんに聞こえてしまっていたらそれこそ終わりだ。どうか、私の心臓、静まって! 目を瞑ったままお願いをしていると、工くんはボソリと呟いた。
「びびった……寝言か……」
 せえぇーふ……なんとか急場を凌げたようだった。工くんの手が再び動き出す。私は瞳を閉じたまま、小さく深呼吸をした。
「よんてんなな……」
 工くんが、そういうと、指からメジャーが抜かれる気配。私の指の円周は4.7センチらしい。太いのか、細いのか、よくわからなかった。こんなところを測るなんて初めての経験だったし、他の人のサイズもよくわからないし。
 工くんは、よんてんなな、よんてんなな、と繰り返しながら、私から離れていっているようだった。きっと、口ずさんでいる数字をメモするつもりなのだろう。よし! と聞こえてきたので、無事にメモすることができたようだった。どうしてか、私が安堵の息を漏らしてしまう。いつの間にか緊張していたのだろう。初めてお使いに行った我が子を迎えるお母さんの気持ちがわかってしまったような気がした。
「ナマエ、起きて」
 体を揺さぶられる。本当は、もう、完全に起きているんだけど、今しがたまでずっと眠っていましたよ感を出すために、伸びをしながら、目を開けた。でも、顔がニヤけてしまう。だって、工くん、一生懸命で可愛いんだもん。素敵なんだもん。私が、おはよ、なんて言いながら、目の前に立っている工くんを見上げると、工くんは、落ち着かない様子でソワソワとしていた。でも素知らぬ顔で、おはよ、とぶっきらぼうに言ってくる。明らかにいつもと様子が違うのに、本人は、何もバレていない、と思っているのだろう。可愛いな。好きだな。そう思いながら、机の上に広げていた課題を片付けようと視線を机に落としたら、机の上には、皿に乗ったパスタのようにくねくね曲がったメジャーが置かれていた。どうしよう。机の上にあるメジャーを見なかったふりをするには少し厳しい状況だ。これ何? って聞かない方が不自然なのだ。私が固まっていると、机の上にあったパスタはサッと消える。それは工くんの手の内に移動しており、工くんは素早い動きで、着ているジャージのポケットにそれをしまった。そして、唇をぎゅっと結んで、緊張した面持ちで見つめてくる。
 工くんが何も言ってこないということは、きっと、私が何も気づいていないことに賭けた、ということだ。ここで何も気づかないなんて、少し無理があるような気がするけど。少なくとも、さっきのメジャーは何? くらいは言ってもよさそうな気がするんだけど。
 でも、そんな意地悪をしたら、一生懸命やっている工くんが可哀想だ。本当は、さっきのメジャーは何? って聞いて慌てふためく工くんを見てみたい、という悪戯心も少しあり、工くんが必死な様子で弁明する姿を思い浮かべると、ちょっと笑ってしまったんだけど、メジャーなんてものは見てませんよ風を装って、机に広げていたノートやペンケースをバッグにしまった。
「帰ろっか」
「おう」
 工くんはホッと一息つくと、良かった、というような顔をした。絵に描いたような安堵の表情だ。
 もう、わかりやすいんだから。
 でも、私は何も気づいていないから、大丈夫だよ、と心の中で話しかけて、少し乾燥した手を握ってあげた。もうすぐ迎えるクリスマスが楽しみだ。やっぱりプレゼントはハンドクリームにしよう。手に塗ってあげたら工くんは喜んでくれるだろうか。工くんを見上げると、私の手をギュッと握り返してくれた工くんは、帰るか、と言ったあと、眉をキリッと上げて、カッコいい笑顔で笑ってくれた。
 いつだって可愛い工くんだけど、こうしてちゃんとカッコいいところを見せてくれるとこは少しズルい。ちょっとドキッとしてしまったことは内緒にして、私たちは並んで帰路に就いた。