※夢主が記憶喪失になり、五色が、自分は彼氏だと嘘をついてしまう話※

 学校から病院まで十分ほどしか走っていないのに、五色は息が上がってしまった。ナマエがいるのだろう病室の前で、胸に手を当てゼーハーゼーハーいっている呼吸を整える。何度か深呼吸を繰り返すと、呼吸は落ち着いてくれたが、心臓はまだ手のひらを痛いほどに叩いていた。
 大丈夫。大丈夫だ。命に別状はないと聞いているのだから。
 自分に言い聞かせて、扉を開いた。
 真っ先に目に入ったものは、風と戯れる白いカーテン。それをぼんやりとした様子で見つめていたナマエは、斜めに起こされたベッドに背中を預けていた。五色が病室に入ると、ナマエはゆっくりとこちらを向く。頭には包帯が巻かれており、頬や顎に当てられた四角いガーゼが痛々しかった。
「ナマエ……さん……?」
 ナマエは色のない瞳で五色を見つめた。いつもであれば、五色と目が合うなり、蕾が綻ぶように笑ってくれるのに、その表情は冷たく固定されたままだった。
 五色はまるで別人のように見えるその人の名をもう一度口にする。
「あの、ナマエさん?」
「あ、はい、ごめんなさい。ぼーっとしちゃって……」
 ナマエはようやく頬を緩ませた。それは、普段、ナマエが何か失敗してしまったときに、照れを隠すようにして見せてくれる笑顔だった。目の前にいるナマエはナマエなのだ。安心はしたが、やはり、ナマエから感じる違和感を拭い去ることはできなかった。ナマエは五色に敬語で話したりなどしない。
「あの、俺、ナマエさんが事故にあったって聞いて……」
 昼休みに、珍しく教室に訪ねてきた白布に聞いたのだ。昨夜、ナマエが部活を終えて帰宅している途中、事故に遭い病院に搬送された、と。その場で走ってナマエに会いに行こうとしたが、白布に首根っこを掴まれた。
「お前どこに行こうとしてんだよ」
「ナマエさんのところに決まってるでしょ!」
「入院先も知らねーのに?」
 確かに、ナマエがいる病院を聞いていなかった。自分はどこへ向かおうとしていたのか。黙る他なかった。
「今更お前が慌てたってしょうがないだろ」
「すみません……」
 五色が項垂れると、白布は呆れたように小さなため息をこぼした。
「ミョウジさんのことだけど、とりあえず命に別状はないらしいから安心しろ。でも……」
 白布からその先の言葉を聞いた瞬間に教室のざわめきが消えた気がした。白布の瞳に映る自分の顔が歪んでいくのが見える。それは笑っているようにも見えた。
「え、何言ってるんですか? ドラマじゃあるまいし……」
「俺だって信じらんねーよ」
 白布はイライラとした様子で前髪をぐしゃぐしゃにした。
「そういうことだから、ミョウジさんを困らせないように見舞いはレギュラーメンバーだけで行くことになったから。授業終わったら、昇降口に集合な。先に行くんじゃねーぞ」
 はい、と力無く返事を返すと、白布は訝しむように眉を寄せた。
「本当にわかってんだろうな? 絶対に先に行くんじゃねーぞ」
「わかってますよ! 昇降口に集合でしょ! わかってますから!」
 そうは言ったものの、今、五色が一人っきりでナマエと対面しているのには五色なりに訳があった。
 授業が終わり、急いで昇降口に向かったのだが、なかなか、他のメンバーが集まらなかったのだ。ようやく来てくれた天童が、あれー? まだ工しか来てないの? と言うのを聞くと、まだ他のメンバーを待たなければならないのか、と思い、時計の針が一分一秒を刻むたびに苛立ちが募っていくようになった。そして、次に来た川西があくびをしながらのんびり歩いてくる姿を見ると、とうとう、我慢ならなくなり、天童が止めるのを無視して、走ってここまで来てしまったのである。念のため、昼休みに白布からナマエのいる病院を聞いておいて良かったというものだ。そのとき、白布の眉間に刻まれた皺が深くなったことは言うまでもないのだが。
 そう言うわけで現在の状況が今に至るのである。
 五色は、いつもとは全く違う反応をするナマエを前にして、昼休みに聞いた白布の言葉は本当だったのだ、と思いつつも、まだ、信じたくなくて、もう一度、細い糸を辿るようにナマエの名前を呼んだ。
「あの、ナマエ、さん、ですよね……」
「そうですよ。えっと……その、クラスメートの方ですか?」
 ナマエが困った顔で笑うので、目の縁が熱くなってしまった。やはり、白布が言ったことは本当だったのだ。
『命に別状はないらしいから安心しろ。でも……記憶がなくなってしまったらしい』
 そんな話があるのだろうか。フィクションじゃあるまいし、と思っていたが、そんな話が現実にありえたらしい。唇を噛んだ五色が何も言えないでいると、ナマエは慌てた様子で話し始めた。
「ごめんなさい。私、色々忘れちゃったみたいで……きっと、お友達なんですよね。ごめんなさい。思い出せなくて……」
「いえ! ナマエさんが悪いわけではないので謝らないでください!」
 涙は溢れそうだったけど、泣いてはいけない、と思った。一番辛く不安な思いをしているのはナマエなのだ。事故に遭い怖い思いをした上に、記憶まで失ってしまったのだ。きっと、彼女を取り巻く世界は酷く冷たく孤独なものなのだろう。ナマエは五色に向かって笑いかけてくれたけど、その笑顔は儚げで、頼りなかった。五色がしっかりとナマエの腕を掴んであげなければ、せっかくこの世界に留まってくれたのに、今度こそナマエが遠いどこかへ行ってしまいそうな気がした。
 五色は拳を握って、笑顔を作った。
「俺は五色工です! ナマエさんの部活の後輩です!」
「え……そうだったんだ……来てくれてありがとう……」
 ナマエはキョトンとした顔をしたが、穏やかに笑ってくれた。きっと、五色の名を聞いても、何も思い出せなかったのだろう。でも五色に話を合わせてくれたのだ。
「だから、安心してください! 必ず俺がナマエさんを守ってみせます!」
「うん、ありがとう」
 ナマエは愉快そうに笑ったが、ふと笑顔を消すと、遠いどこかへ視線をやった。
 どうして、ナマエはそんな寂しい顔をするのだろうか。
 風が舞い込み、ナマエの横でカーテンが膨らむ。ナマエの輪郭が風に流されてしまいそうだった。
「五色くんはきっといい後輩だったんだろうね。思い出せないのが残念……」
 ナマエは五色に視線を戻して切なげに笑った。
「だって部活の後輩ってだけでそんなふうに言ってくれる人、なかなかいないよ」
「それは……俺が……」
 続きを言えなかった。
 五色が俯いてしまうと、大丈夫? とナマエが顔を覗き込んでくる。ナマエに心配をかけさせてはいけない、と思い、慌てて、大丈夫です! と勢いよく顔を上げた。そして、ついそうだったらいいのに、と一瞬過ぎった願望が口から滑り出てしまった。
「それは俺がナマエさんの彼氏だからです!」
「え……そうなの?」
「そうです! だから、安心してください! ナマエさんは必ず“彼氏”の俺が守ってみせますから!」
「そっか……そうだったんだ……へぇ……五色くんは私の彼氏だったんだ……」
 ナマエは独り言のようにそう言いながら、五色を物珍しそうに上から下まで眺め、また、視線を上に戻して五色と目を合わせると、ありがとう、と嬉しそうに笑った。それは紛れもなくナマエの笑顔だった。五色が恋をした笑顔だったのだ。その笑顔が五色にだけ向けられている。そう思うと、胸が舞い上がったけど、同時に心がこれ以上にないほど痛んだ。
 本当はナマエが誰とも付き合っていないことを知っていた。更には、ナマエには自分とは違う好きな人がいることも知っていた。ナマエから直接好きな人のことを聞いたわけではなかったけど、ナマエのことをずっと目で追ってきたから、否が応でも気付かされていたのだ。
 記憶を失う前のナマエはきっと、牛島が好きだった。
 五色はナマエにとって、ただの後輩で間違いないのだ。
 でも、嘘をついてしまった。腹の底で欲望が囁いたのだ。
『だって部活の後輩ってだけでそんな風に言ってくれる人、なかなかいないよ』
『それは……俺が……』
 ナマエさんのことが好きだから。
 そう心の中で続けたときに、チャンスだ、と思ってしまったのだ。ナマエは記憶を無くしてしまっている。今なら、誰のことも好きではないのだ。すると、欲望は声を重ねてきた。お前は牛島に勝てるのか? 今なら、ナマエを手に入れられる。この機を逃すな、と。
 でも、嘘で自分の気持ちまでもは塗り固めることができなかった。嘘をつくことがこんなにも辛いことだとは知らなかったのだ。きっと、これからナマエが笑うたびに五色は嘘をついた自分にさいなまされることとなるだろう。やはり、嘘をついた、と白状するべきだろうか。堂々とナマエの隣に立てないと、意味がないのだということがわからないほど馬鹿ではないのだ。
 五色がじっとナマエを見つめると、ナマエはどうしたの? と言いたげに首を傾げる。嘘をついた、と言わなければ。今なら、まだ、引き返せる。
 カラカラに乾いた喉から、謝罪の言葉を搾り出そうとした瞬間だった。後ろで扉が開く。
「五色……と、ミョウジか」
「牛島さん……」
「やっぱり、お前ここにいたか。先に行くなよって言っただろうが」
 開かれた扉の前では、一緒に見舞いに行くはずだったメンバーが立っており、先頭に立つ牛島の後ろでは白布が怖い顔をして五色を睨んでいた。牛島が病室に入ると、続けて病室に入ってきた白布はグイッと五色に顔を寄せる。
「お前、ミョウジさんに変なことしてねーだろな」
「し、してないですよ!」
 白布の目が、本当だろうな? と言っていた。その目から顔を背けてしまうと、白布の低い声が、お前、と呟く。背中に変な汗がダラダラと流れていった。握った拳は震えてしまっている。どうしよう。ここで謝ってしまおうか。そう思ったとき、肩に軽い衝撃が乗った。
「まぁまぁ、病人の前なんだしさ。賢二郎もそんなに怖い顔してたらナマエちゃん怯えちゃうよ」
 天童が五色と白布の肩に手を置いていた。
「それもそうですね。ありがとうございました」
 白布は素気なくそう言って、ナマエの前に立つ牛島の後ろへ歩んでいく。白布の背中を見送った天童は、意味ありげに目を細めると、五色の背中をポンと叩いて白布に続いた。
 安堵と心残りが胸の中で渦巻いている。ただ、ナマエが誰に対しても同じような目を向けていたので、少しホッとした。

 ナマエの彼氏になってからは、部活の前に毎日ナマエの元を訪れた。学校から走って十分ほどの病院へロードワークの途中に寄って、顔だけ見て帰る、ということを繰り返したのだ。
 五色はいつもナマエの病室に入る前に、一つ深呼吸をした。嘘をつき続けることに迷いはあったが、暗い顔をしてナマエに心配をかけたくなかった。ナマエに何も悟られないように、元気よく、扉を開いた。
 ベッドで横になっていたナマエは、五色が来ると、いつもベッドを起こして、笑顔で迎えてくれた。
「横になってていいですよ! 俺が勝手に来てるだけなんで!」
「大丈夫だよ。私も五色くんとお話したいし」
 ナマエが甘えるような瞳で五色を見てくる。記憶を無くす前も、真っ直ぐに五色を見てくれていたけど、熱っぽい瞳は他の人に注がれていた。嘘から始まったものだったけど、ナマエから向けられる好意に鼻の付け根が熱くなってしまう。
「好きです……」
 思わず口からこぼれてしまった本音。ボソリとこぼされたそれは、白いカーテンを膨らませる風がさらっていった。
「ごめん、何か言った? 聞こえなくて……」
「いえ、なんでもありませんよ」
 ナマエを前にすると、いつかは泡沫うたかたとなって消えるこの時間をまだ手放したくない、と思ってしまう。さっき呟いたことは忘れてくれ、と言う代わりに話題を変えた。
「それより顔につけてたの取れたんですね」
 確か、昨日はまだ、頬と顎に白い大きな絆創膏が貼られていたはずだ。一見、傷跡は残っていないように見えたが、顔を寄せて、跡が残っていないか、細やかに見ていく。もし、跡が残っていても五色は気にしないのだが、ナマエはきっと悲しむだろう。
「あのっ……! 五色くんっ……!」
「なんですか?」
「そんなに見ないで!」
 大きな声にハッとして、ナマエを見ると、顔を真っ赤にしたナマエが小さく静止のポーズをとりながら、顔を背けていた。
 ナマエさんもこんな顔をするんだ。初めて見た。
「もっとよく見せて」
「だ、だめ……」
 五色の顔を覆うように手のひらが伸びてきたので、その手をそっと取り、ナマエの顔を覗くと、潤んだ瞳が見上げてきた。
「可愛い……」
 五色がナマエに覆いかぶさるから、ナマエの顔に影が落ちて、瞳孔が丸く広がる様子がよく見て取れた。とても綺麗だ。五色だけを映している瞳はいつまでも見ていられた。
 ナマエが何度かまばたきをする。ナマエの下まつ毛にいつのまにか溜まっていた涙が一筋つっと頬を伝った。
「え、あ、泣いてっ……え、ごめんなさい!」
 慌てて両手を離すと、ナマエはクスクス笑いながら、涙を拭った。
「大丈夫だよ。五色くんがあんまりにも近い距離にいたからなんか緊張しちゃって」
「ごめんなさい……」
「いいよ、五色くんだから」
 それは彼氏と名乗った五色だから、という意味だろうか。もし、五色がただの後輩だったら、同じことを言ってくれてただろうか。
 五色は拳を握って、ナマエにくるりと背を向けた。
「そうですね。俺はナマエさんの彼氏ですから! じゃあ、また明日来ます! お大事になさってください!」
 どうしてか、大好きなナマエの顔を見ることができなくなってしまったので、今日は、もう帰ることにした。背中から、来てくれてありがとう、と聞こえ、いいですよ、とだけ絞り出して、病室を出た。
 ナマエの病室を出て、後ろで扉が締まると、瞳を閉じて天を仰ぐ。
 もう少しだけ夢を見させてください。
 ナマエをこの世界に留めてくれた何者かに願った。
 ナマエのお見舞いを始めて一週間を回したころだっただろうか。五色が毎日ナマエの下に訪れるものだから、心配になったのか、ナマエはおずおずと尋ねてきた。
「部活忙しいんでしょ? 毎日来てても大丈夫なの?」
「大丈夫です! 俺はナマエさんの彼氏ですから!」
 五色が胸を張って言うと、本当に大丈夫? と言いたげにナマエが見つめてくるので、また、背筋を伸ばして言った。
「俺、走るの早いんで! ここに寄って帰っても、皆と学校に到着するのは変わらないんです!」
「へぇ、そうなんだ。五色くんはすごいんだね」
「それは……ナマエさんの彼氏ですから……」
 ちょっと照れくさい気持ちで言ったけど、やっぱり、胸が苦しかった。
 ナマエはいつまでも五色の嘘を信じて、穏やかに五色を迎えてくれる。もし、ナマエに嘘がバレたらどうなるのだろうか。きっと、もう、口を聞いてくれないのだろう。いや、それはないのかもしれない。いつも優しいナマエだから。でも、二度と今のような関係にはなれないのだろう。五色の嘘がそうなるようにしてしまった。それならば、いつか必ず来るその日まで、この幸せを噛み締めていたかった。
「では、今日はもう帰りますね」
「うん、また明日」
 ナマエの口から、次に会う約束が聞けるまでは、嘘をつき続けても許される気がした。
 それはある日のこと。いつも手ぶらで病室に訪れるのも気が引けたので、ナマエがよく食べていたプリンをコンビニで買ってから向かった。
「ナマエさん! 差し入れです!」
「え、そんなのいいのに……」
 そう言ったナマエだったけど、プリンを前にすると、目をキラキラに輝かせた。
「これ、最近ハマってるものなの! ありがとう」
「いいですよ! 彼氏ですから!」
 ナマエがあまりにも嬉しそうに笑ってくれたので、次の日は、昔、ナマエが購買で買っているのを見かけたチョコレートを持っていった。また、喜んでもらえたので、次の日は、ナマエにもらったことがある飴を持っていった。
「五色くんが持ってきてくれるものって毎回すごい美味しいの。五色くんは私が好きなもの知ってるの?」
「勿論です! 彼氏ですから!」
 この頃になれば、嘘も重ねれば本当になると思っていた。そんなはずないのに。
 だから、夢は唐突に崩れ去ってしまったのだろう。ナマエのお見舞いを始めて一ヶ月がたったころのことだった。ナマエの記憶は相変わらず戻っていないようだったけど、ナマエの退院がせまっていた。
 その日もいつものようにナマエの病室の前で深呼吸をして、扉を勢いよく開けた。いつもは、揺れるカーテンが真っ先に目に入ってくるのに、その日は大きな背中が視界に飛び込んできた。ナマエと対面していた彼は、扉が開かれると同時にこちらへ振り返った。
「なんで……牛島さんが……」
「ミョウジと俺は同じクラスだろう。今日はクラスの見舞いできた」
 そういえば、そうだった。それに、牛島はナマエがマネージャーとして所属しているバレー部のキャプテンなのだ。ここにいても、なんらおかしくない。しかし、五色の心臓はうるさく警鐘を鳴らしていた。
「じゃあ、俺は用事が済んだからもう帰る」
 牛島が踵を返そうとすると、ナマエは驚いたように牛島を見上げた。牛島は、どうした、と声をかけたが、ナマエは、泣きそうな顔で笑って、なんでもないよ、と口にした。しかし、明らかになんでもない、という顔をしていなかった。頬を赤らめて下を向いている。まるで、牛島に、帰らないで、とでも言っているようだった。
 牛島もナマエの様子に疑問を持ったようで、首を傾げたが、ナマエが何もないというのなら、何もないことにした方がいいと判断したのだろう。素知らぬ顔を作り、じゃあ、と片手を上げた。ナマエも慌てた様子で、またね、と言って笑った。
 牛島は五色の肩にポンと手を置いて病室を出て行った。
 五色の心臓は相変わらず、うるさく暴れていた。さっきまでのナマエの様子を見て何も気がつかないふりはできなかった。どうやら、ナマエは記憶を失ってもナマエのままだったらしい。そのことは嬉しかったが、こんな形で思い知りたくなかった。嘘を持ってしても五色は牛島に勝てなかったようだ。悔しさを奥歯で噛み締めたが、迎えるべきその日を今日迎えてしまったのだ、と悟ると、不思議と心は軽くなっていった。
「ナマエさんは、牛島さんのこと、好きなんですか?」
「え、なんで?」
「俺にはわかるんです……だって、俺……あなたの彼氏ですから……」
 ナマエが記憶を失ってから共に過ごした日々は砂場で城を作るような日々だった。
 どんな城にするか夢を描きながら両手で砂を押さえ山を作っていくのだ。華美なお城にしたいけど、そんなふうにしたらすぐに壊れてしまう。身の丈にあった城の形に山を削っていった。でも三角の屋根を作るつもりがキノコのような丸い屋根になってしまったり、窓のつもりでひいた線はぐにゃぐにゃに曲がった、ただの模様になってしまったりした。結局、出来上がった城はガタガタに歪んでおり、城と呼ぶには不恰好過ぎたかもしれない。だけどその歪さが愛おしかった。
 ずっとこうしていられたらよかったのに。
 砂場で遊ぶのももう終わりだ。日が暮れたら帰らなければならない。次の人のために城を壊して、何もなかったかのように砂場を平らにして。
 ナマエの横では、茜色に染まったカーテンがゆらゆら揺れていた。ナマエの頬が赤いのは、夕陽のせいだと思いたかった。
 今までずっと我慢してきた涙が頬を伝っていく。腕で拭っても拭っても涙は止まらなかった。きっとみっともなく顔に皺を寄せて泣きじゃくっているのだろう。ナマエの前ではずっとカッコよくいたかったけど、もうそんなことはどうでもよかった。
「ごめんなさい……俺、嘘つきました……」
 しゃっくりを交えながら続けた。
「本当は俺、ナマエさんの彼氏でもなんでもないんです……嘘をついたんです……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 病室では五色の嗚咽と、弱々しく発せられる、ごめんなさい、の言葉だけが響いていた。
「――知ってたよ」
 五色の体がびくっと揺れる。
 ナマエは静かに続けた。
「だって五色くん全然私のタイプじゃないんだもん」
 ナマエの言葉が胸にぐっさり刺さったけど、その痛みが心地よかった。どうしてか、スッキリしたのだ。ナマエの気持ちを弄ぶような嘘をついたという自覚があったからかもしれない。罰を与えられて、ホッとしたのだ。
「多分、私は牛島くんみたいな人を好きになるんだと思う。落ち着いてて、笑顔が優しくて。牛島くんは素敵な人だよね」
「そうですね……」
「だから五色くんにちゃんと伝えなきゃって思ってたことがあるの」
 何を言われるのだろうか。普通であれば、嘘つきとののしられたあと、もう二度と顔を出さないで、というようなことを言われるのだろう。でもナマエだ。どんなに五色の嘘に傷ついていたとしても、そんなことは絶対に言わないだろう。だから、ナマエに何を言われるのかわからなかった。
 でも、ナマエからの言葉は全て受け入れようと思った。腕で乱暴に涙を拭いて、真っ直ぐにナマエを見つめた。もう、五色の頬に涙は伝っていなかった。
 ナマエも五色と同じように大きな瞳で真っ直ぐに五色を捉えると、口に緩やかな弧を描く。
「五色くんが好き。私と付き合って」
「え……?」
「だから五色くんが好きだよって」
「なんで……?」
「なんでって言われると難しいんだけど……好きは好きってことだから……」
 ナマエは首を捻ると、恋人を見るような瞳で五色を見上げた。
「あえてあげるなら、五色くんがいつも私のために一生懸命になってくれるところが好き。あと、嘘をついたあと悲しそうな顔をするぐらい優しくて、でも私に笑ってもらおうと、必死に笑顔を作ってくれるところがやっぱり優しいなって思うから好き」
「そうじゃなくて……さっきナマエさん、牛島さんは素敵な人だって……」
「うん。牛島くんが素敵な人だって思ってるのは本当だよ。でも、好きな人は五色くんだなって思ってた。今日も五色くんを見た瞬間恥ずかしいくらい舞い上がっちゃったもん」
 ナマエは照れくさそうに微笑む。
 先ほど、牛島の前で顔を赤らめていたのは、そういうことだったのか。
「そう、ですか……それは嬉しいんですけど…………でもナマエさんのその気持ちは……」
 俺の嘘から始まっている、と自分のしてしまったことを口にできなかった。しかし、ナマエは五色が何を言いたかったのかを感じ取っていたようで、子どもにさとすような口調で言った。
「そうだね。私のこの気持ちは五色くんの嘘がなければ生まれてなかったかもしれないね。でも嘘がなくても生まれてたかもしれないよ。だって五色くんは、嘘をついてもつかなくても、記憶を無くした私のために頑張ってくれただろうから。違う?」
「そうですけど……」
 だからといって、嘘なしでナマエに好きになってもらえたかどうかはわからないし、好きになってもらえる自信もない。だから、嘘をついたのだ。
 不甲斐なさと情けなさに拳を握っていると、ナマエには五色の考えていること全てがやはりお見通しだったようで、ナマエは五色の拳を両手で包み込みながら言った。
「私は、五色くんの嘘に気づいてたんだよ。だから、五色くんは嘘をついたけど、私たちの間に嘘は存在してなかったの。でも私は五色くんを好きになっちゃった。私の気持ちは受け止めてもらえないのかな?」
「でも……ナマエさんの記憶が戻ったら……ナマエさんは俺のこと、嫌いになるんじゃ……」
「五色くんは頑固だなぁ。私は大丈夫だと思うけど」
 ナマエは、五色の指を一本ずつ開いていき、固く握られていた拳を解いていく。五色の手のひらには爪の跡が残っていた。ナマエは三日月の形をしたその窪みを労わるように親指で伸ばす。
「記憶が戻っても、五色くんが私のことを好きでいてくれたら、私はまた五色くんを好きになる気がする。それに五色くんだって、また、私が五色くんを好きになるように頑張ってくれるんでしょ」
 いたずらっ子の笑みを浮かべたナマエは五色の開かれた手を両手で包み込むと、五色を上目で見上げた。
「それとも五色くんは私のこと嫌い?」
 そんなふうに言われたら答えは決まってしまうではないか。
 五色の目にまたじわりと涙が滲んだけど、涙を拭う前にナマエの華奢な肩をひしと抱きしめた。カーテンが膨らみ、二人を温かな風が包み込む。
「好き……大好きです。ナマエさん……」
「ありがとう」
 五色の丸まった背中にもナマエの手が回った。