委員会の仕事を終え、下校しようとするころには、時計の針は七時を回っていた。それにも関わらず外が明るく感じるのは夏の始まりだからだろうか。私は教室から見える分厚い雲に覆われた空を見て、急いで昇降口へと向かった。良かった、まだ雨は降っていない。そう思い靴を履き替え、昇降口を出たとき、ついに空から大粒の雨が降り出した。どうしようと躊躇したのも束の間、外はどしゃぶりの雨へと変わる。じっとりとした空気の中冷たい風が吹き込んだ。
「傘……持ってないのに……」
 梅雨のど真ん中六月のこと。私は降りしきる雨を前に呆然と立ち尽くした。
 
 いつもなら必ず片手に傘を持って登校するこの時期。それにもかかわらず、立ちん坊になってしまったのは、今朝の梅雨らしからぬ良く晴れ渡った青空の所為だった。きっとそういう人は私だけではないはずだ。すると、案の定というか、やはり少し離れたところから帰宅しようとするバレー部やバスケ部のにぎやかな声が聞こえてくる。傘を忘れたお仲間たちだろう。女子の叫び声に交じって男子の、「走るぞ」とか、「雨すげー」と叫ぶ声が聞こえてくる。楽しそうだ。一人寂しく雨宿りしている私からしたら、はしゃいでいる彼らがすこし羨ましい。そして、あの人はどうしただろうか、だなんて。考えてみたり。だけど、どうしようもなく一人曇天を見上げ佇んでいると、不意に後ろから名を呼ばれた。
「ミョウジじゃん。どしたー?」
 その声に、心臓がどきりと跳ねる。
「え!? 菅原くんこそどうしたの!?」
 振り返ればそれは丁度頭に思い描いていた人物で。
 段々と弾み始める心は、きっと気のせいじゃない。
「忘れ物があって教室取り行ってた」
「私は委員会の仕事があって」
「あー! お疲れ」
「でも傘を忘れて帰れなくて……」
「俺も傘忘れた組ー」
 菅原くんはそう言ってへらりと笑い肩を並べる。そして、空を見上げながら「すげー雨だな」と漏らした。
 その時、一瞬だけ、僅かに手と手が触れる。慌てて胸元で手を握った。だけど、菅原くんは全く気にする様子はなく「朝すごい晴れてたのになー」とこちらを向いて笑う。私は、この状況に鼓動がますますうるさくて、空気は冷たくなっていくのに顔は熱くなっていく。だから、誤魔化すかのように俯いて「こんなに降るとは思わないよね」と笑った。
 地面を見ると、昇降口から伸びる道路にはいくつか水たまりができている。大粒の雨は激しく地面を叩きつけては小さく跳ね、水たまりへと還っていった。
「雨、なかなか止みそうにないね」
 私はそう言いながら俯き加減にそろりと菅原くんを見る。どうか、冷えた風が私の頬を覚ましてくれていますようにと願いながら。すると菅原くんは、視線が合うや否やまるで太陽の様に笑うのだった。その笑顔は、驚くほど無邪気で。
「じゃあ、行くしかないべ」
「え? 行くって?」
 そう聞いたときには既に遅く。菅原くんは、雨の中へ大きな一歩を踏み出していた。
「え!? 菅原くん!?」
 弾むように外へ飛び出した菅原くんは眩しい笑顔のままこちらを振り返り「ほら、ミョウジも!」と手を差し出す。その、差し出された手の意味が分からなくて。私は胸の前で握っていた手をさらにぎゅっと掴み、菅原くんを見る。
 「でも……あの……」
 浮かべた笑顔はきっとぎこちない。その間にも菅原くんの柔らかそうな髪はどんどんと雨に打たれ、重く顔に張り付いていった。
「だから、ほらっ、ミョウジも!」
 菅原くんは催促するかのように差し出した手を振る。
「意外と気持ちいぞー」
 こっちの気も知らずそうやって楽しそうに笑う彼は、少しずるいと思った。
 私はきゅっと唇を結んで、恐る恐る手を伸ばす。
 指先が屋根の外へと延びて。
 けれど冷たい滴が幾つも打ち付けて、思わずその手を引っ込めた。
 刹那――――菅原くんはその引っ込めかけた手を半ば強引に。そして、強く、痺れるくらいに強く、握った。
「ほら、行くべ!」
 そう言って走り出した菅原くん。
 引っ張られるまま体が傾き、足が伸びた。
 一歩。そのたった一歩足を外へ踏み出せば、次の一歩は軽く、打ち付ける雨は、見た目よりもずっとずっと優しく。
 私は、掴まれた手はそのままに。握り返すほどの勇気はなくとも、引っ張られるままに彼について走りだした。
 
 ぱしゃぱしゃと水を踏む音だけが空間を支配する。
 どうしよう。どうしよう。
 どうしようどうしよう。
 目の前の背中を眺めながら、同じ言葉ばかりが頭を巡っていた。
 ――――ねぇ、
「菅原くんっ!」
 弾んだ声で彼の名前を呼ぶ。
「呼んだ!?」
 菅原くんは走り続けながらも、一瞬振り返り同じく弾んだ声で答える。
 前を走る彼の背中は大きい。それは、いつの間にか目で追っていた、背中。眺めていた、背中。
 ねぇ……ねぇ、菅原くん。
 もし、この手を握り返したら――――だ、なんて。出来る筈がない。
 代わりに紡いだ言葉は、精一杯の気持ち。
「ありがとうっ」
 そうすると彼は、再び無邪気な笑顔で振り返り
「俺の方こそ!」
 そして、走り出した。

 雨は冷たいのに、握られた手が熱い。体が、熱い。
 私は彼の背中を見つめながら、ぱしゃぱしゃと水を踏み、冷たいのに優しい雨の中、走り続けた。




いつか、晴れた日もきっと