昔から当たり前のようにそばにあったもの――バレーボール、両親、祖父母、チームメイト、勉学、友人、そして。
「若利くん!」
 目の前の女の子、ナマエ。
「ノート、貸してくれてありがと!」
 若利くんは字が綺麗だし、丁寧にまとめられてるから見やすいんだよね、と牛島にノートを差し出してナマエは笑った。クラスが違うにも関わらず、彼女は昔と同じようにノートを貸してとやってきてはこうして返しにくるのだ。
 それは風が桜を攫って慌てるように季節を変えようとする時期のことだった。
 ナマエがノートを返しにきたのは牛島の移動教室の前だった。既に、教科書片手に席を立っていた牛島だったが、嬉しそうにこちらを見上げるナマエに足を止めた。差し出されたノートを受け取る前に、いつものように、自分の目線から遥か下にある、手の置きやすい高さ――ナマエの頭に手を伸ばす。撫でてやろうと思ったのだ。
「だめ!」
 牛島が触れる前に貸してやったノートで守るように頭を隠された。牛島の手は止まる。
 もしやこれは嫌がられたのだろうか。
「なぜだ」
 ナマエの頭を撫でてやることに特に意味などない。子どもの頃、それこそ小学生になる前からそうしていた。なんとなくそうしたいから、そうしていた。だから今日もこちらを満面の笑みで見上げるナマエを見ると、そうしてやりたくなったから、挨拶代わりといった気分で手を伸ばしたのだ。もちろん、これまでナマエに一度も拒まれたことはない。嫌がられたこともない。それどころか、撫でてやると、ナマエは柔らかに目を細めてくれていた。
 だから、どうして拒まれたのか。晴天の霹靂だった。
「とにかくもう、頭を撫でるのはだめなの」
 牛島が貸したノートの下では、ナマエが膨れっ面をそっぽに向けていた。リスのように膨らまされた頬は僅かに赤い。
「分かった。すまなかった」
 そうは言っても、なんだか心がモヤモヤする。
 牛島は撫でてやることができなかった手で、未だナマエの頭を守っているノートを受け取った。
「じゃ、ありがと!」
 ナマエはそう言うなり、牛島を見ることもなく、膨れっ面のまま踵を返してしまう。牛島が何か声をかける間もなかった。そんなにも頭に触れられるのが嫌だったのだろうか。
 ナマエの背中を無言のまま見送った牛島は不機嫌そうに眉を寄せた。

 あれからナマエはノートを借りにこない。
 そのことに牛島が気づいたのは、雨が全ての感情をぶつけるように激しく地面を叩く時期になってからのことだった。
 幼馴染とはいえ今やナマエとはノートの貸し借りをすることでしか接点がなかったため、あの日――頭を撫でることを拒まれてしまったあの日からずっとナマエと顔すら合わせることもない日々を過ごしていた。
 ある日のお昼休み。その日も激しく雨が降っていた。天童と共に学食で食事を済ませた牛島は、あの日以来、久方ぶりに廊下でナマエと顔を合わす。目が合えば微笑んでくれた彼女はまるで別人のように見えた。
 顔つきや体型が変わったというわけではない。見た目は無邪気に若利くん、と呼んでいたナマエのままだったのだが、内側から染み出す雰囲気が滴る雫のような艶かしさを持っていたのだ。
 すぐに目を逸らされ、ナマエとはそのまますれ違ってしまったのだが、牛島はすれ違うその瞬間までナマエを目で追ってしまった。
「あの子若利くんの幼馴染だよね?」
 ばらばらと外からの激しい雨音が聞こえる中、隣で天童が口を開いた。
「そうだな」
「なんか雰囲気変わったくない?」
「そう、だろうか」
「うん。化粧してるからかな。うっすらとだけど」
 化粧。聞き慣れない言葉だし、彼女と結びつけるにもなかなかしっくりこない。
 だって、顔を泥だらけにして遊んでいたあの女の子が。
 横でよだれを垂らしながら寝ていたあの女の子が。
 そういえば、わんわん泣いて抱きついてきたかと思えば牛島の胸に鼻水と一緒に顔を擦り付けてきたこともある。そんな女の子が。
 まるで、大人の女性のように、髪を梳かして、肌を手入れして、紅をさすなど、するのだろうか。
「あれ、もしかして若利くん寂しくなっちゃってる?」
「なっていない」
 果たして、本当にそうなのだろうか。
「なってるよ、それ」
「そうだな。そうかもしれない」
 きっと、もう、牛島がその顔についた泥を、涎を、鼻水を、拭いてやることはないのだろう。そして、ありがとうと弾けるような笑顔を見せてくれていた彼女の頭を撫でてやることも、二度とないのだろう。
「女の子ってすぐあぁやって女子になっちゃうからね。俺たち男の子は寂しくなっちゃうよねー」
 女の子が女子に。どちらも性別を表す言葉である。初めは何おかしなことを言っているのだと思ったが、先ほどの別人のように変わってしまったナマエを思い出すと、なんとなく意味を理解することができた。彼女をもう女の子とは呼べない。そんな気がした。

 それは、太陽が久しぶりの仕事だと張り切りすぎたように痛いほどの日差しを浴びせてくるようになった時期のこと。
 放課後になり、日も沈みかけ暑さも和らいだので牛島はロードワークに出ようと校門へ向かった。丁度前方に女の子ではなくなってしまったナマエの後ろ姿を見つける。その隣には、ナマエより少し背の高い、男子生徒が歩いていた。男子生徒がナマエを見下ろすと、ナマエも彼を見上げた。目に見えないスイッチがあるかのように彼らは息ぴったりといった様子で笑い合う。
 走る前だというのに牛島の鼓動は早くなっていった。しかし、体温は下がっていくように感じた。
 ナマエの今までの変化は、そういうことだったのか。目の前で歩く彼らを見てそう悟った。
 きっと、牛島は当たり前のようにそばにあったものを失ったのだ。
 失う日は必ずしも突然くるわけではない。牛島は知っていた。沢山ピースは落ちているのに、拾って繋げた先がまさか、失うことだと予期できないから、突然失った気になるのだ。
 あの時も、そうだった。
 父が家を出て行った日。どうして突然と思ったが、振り返れば、ここへ行き着くまでに沢山の思い当たる節はあった。
 近頃の両親は暗い顔をしていることが多かった。声を荒げるほどのことはなかったが、剣呑な様子で話していることが多かった。そして、互いに家にいるにも関わらず、顔を合わせていない日が多かった。
 洞察力の秀でた牛島はきっと人より多くのピースを集めることができただろう。
 頭を撫でようとしてダメとナマエに断られるまで、思えば、心当たりのようなものはあった。
 声をかければ、こちらに反応したその顔は困ったような笑みを浮かべていたような気がする。それでもいつものように微笑み返してくれていたので、気にはしなかった。頭を撫でてやれば、手の下に見えるその顔は不満げに歪められていたような気がする。それでもいつものように柔らかに目を細めてくれていたので、気にはしなかった。踵を返そうとする彼女を見送れば、目を逸らしたその顔は俯きがちだったような気がする。それでも再び会えば笑ってくれていたので、気にはしなかった。
 きっと、これらのナマエの反応は全部、全部、今、ナマエの隣を歩く彼のことを思ってのものだったのだろう。そんなこと、思っても見なかった。
 その結果、突然失った気になるのだ。
 牛島は、地を蹴って、駆け出す。小さく、愛らしく、ずっと隣にあると思っていた背中を追い越し、かつての思い出を振り返ることもなく、ただ前だけを向いて。

 きっと、これから先、ナマエに嬉しいことがあっても、もう共に喜んでやることはできないのだろう。涙を流していても、その頬を拭ってやることはできないのだろう。けれども、幼馴染であったことが、消えて、無くなるわけではないのだ。もし、彼女が救いの手を欲していたら、喜んでその手を取ってやろう。そして、今度はちゃんと気づいてやるのだ。気づいてやって、彼女が自分の元を離れる日に向かって、ちゃんと背中を押してやる。力になってやる。
 それがただの幼馴染の牛島に唯一、許されることだろうから。

 ナマエのいない季節は巡る。太陽がそろそろ疲れてきたとでもいうように日差しを緩める時期がやってきた。
 お盆休みに帰省していた牛島が、のんびりとバレー雑誌を読んでいると、家の呼び鈴が鳴る。普段であれば、母か祖母が応対するのだが、今、二人は出かけてしまっているらしい。いつまでも玄関の扉が開く音がしないため、牛島は立ち上がり、のそのそと玄関に向かった。日本家屋のスライド式の扉。夕暮れ色に染まった磨りガラスには、人影が一つだけ映っていた。
 スリッパを履いて、広い玄関を再びのそのそ歩いて、扉を開く。
 がらがらと音を立てて扉を開けば、懐かしい客人が立っていた。驚いたように顔を上げたその客人はナマエだ。
「どうした?」
「あ、えと……」
 言葉を詰まらせたナマエは俯く。このまま立ち話をするのもなんだし、とりあえず中に入ってもらおうと思ったが、彼女に声をかけることはできなかった。俯いた彼女の頬にぽろぽろと涙が伝っていたからだ。
「ごめん、泣くつもりじゃなくて」
「いや、構わない」
 声を上げることもなく涙を流すナマエは手のひらを使って乱暴に頬を拭う。そんなやり方で頬を擦ると、頬が痛くなってしまうのではないだろうか。代わりに拭ってやろうと手を伸ばしたが、それがもう許されないことを思い出す。伸ばした手を止め、ぎこちなく下ろした。
「若利くんと話すの久しぶりだよね」
「そうだな」
「私、馬鹿なことしてた」
「馬鹿なこと?」
 ナマエは相変わらず頬を擦りながらぽつり、ぽつりと言葉をこぼした。
「今のままじゃ嫌で、なんとか、変えたくて」
 しかし、要領を得ない。大事なところに限ってぷつとぷつと切れる壊れたラジオを聴いているような気分だったが、突然やってきて涙を流したナマエの要件はおおよそ察しがついていた。
 牛島は手に拳を握る。かつて決意したではないか。次こそはその背中を押してやろうと。力になってやろうと。例え胸がぎゅっと締め付けられようとも。
「喧嘩でも、したのか?」
「へ? 喧嘩? なんのこと?」
 ナマエは手を止め、こちらを見上げる。どうやら涙は止まったらしい。あぁ、よかった。これでよいのだ。牛島は自身に言い聞かせた。
「付き合っている男と喧嘩したのではないのか?」
「付き合ってる!?」
「なんだ、もう、別れてしまったのか」
「別れた!?」
「別れてはいなかったのか……」
 ナマエの涙が止まったことは良いのだが、こちらの質問におうむ返しにも似た返答をされ、話が全く進まない。
 付き合っている男に泣かされ、助けを求めてここに来たのではなかったのか。それならそうと早く言って欲しい。先程はもう別れたのかと思い一瞬色めきだってしまったではないか。事実がはっきりせず、こちらの憶測だけで話を進めるこの状況はなんとも歯痒く、胸が苦しい。こちらはもう覚悟を決めているというのに。
 他の男のものになろうとも、助けてとただ一言言ってくれれば、その手をとってやる。
 ナマエは驚いた様子で目をぱちぱち繰り返し、考え込むように頭を手に当てた。
「待って、話が見えないんだけど」
「俺も見えない」
 しかし、それは牛島が悪いのではなく、ナマエのせいだと思う。
「私付き合ってる人なんていないんだけど」
「なんだ、まだ付き合う前だったのか」
「付き合う前!?」
「違うのか?」
 再びナマエが頭に手を当てる。
「待って、話が見えないんだけど」
「俺も見えない」
 まるで言葉の通じない宇宙人と話しているような気分だった。この意味のない問答はいつまで繰り返せば出口に辿り着けるのだろうか。そう思った時のこと。ナマエが俯き、うー、もーと唸り声を上げる。牛島がどうしたと声をかけようとすると、ナマエは真っ赤にした顔を上げて、再び瞳に涙を浮かべながら言った。
「私はずっと若利くんが好きなの!」
 一瞬時間が止まる。いや、大分長い間止まっていた気がする。ナマエは今なんと言ったか。聞き間違えだろうか。
「すまない……話が見えないのだが……」
「もう見えるでしょ!」
 ナマエ、曰く。牛島はこれまでナマエによってわざと距離を取られていたそうなのだ。牛島とは絵に描いたような幼馴染で、その枠から外れ、女性としてみてもらえるようになるべく、適度な距離を保とうと。けれども距離を離したところで、ただ疎遠になっただけで、寂しくなり、今日訪ねてきたらしい。最後に言葉を交わしておよそ四ヶ月。久しぶりに顔を合わせられたことが嬉しく、それだけで感極まって涙が出たそうな。
「俺は、ナマエが他の男と付き合っているのだと思っていた」
「なんで?」
「頭を撫でようとしたら断られたし、ナマエは急に綺麗になったし――」
「き、綺麗!?」
「あぁ、綺麗になった。だが、こうして見たら昔のままだな。やはり愛らしい」
「あ、愛らしいなんて……」
「何もおかしなことを言っていないだろう。ナマエは愛らしい」
 牛島は先ほどまで濡れていた頬に手を伸ばす。しかし、指先がナマエの頬に触れれば、びくりと震えられたので手を止めた。
「すまない」
「ううん、大丈夫」
 止めた手に、ナマエがこてりと首を傾げ頬を当ててくる。柔らかく、熱く、吸い付く肌が牛島の手に触れた。このまま抱き寄せたい衝動に駆られる。
「それに、男と親しげに帰宅していた」
「男?」
「梅雨が明けた頃だ」
「誰だろ……クラスメートかな? たまに同じ方向の男子と一緒に帰ったりはするんだけど」
「なんだ、そうだったのか」
 それは、心の底から漏れ出た言葉だった。張り詰めていたものが一気に解けていく。
 今まで、ナマエに声をかければ困った顔をされたのも、頭を撫でてやれば変な顔をされたのも、背中を見送れば、俯きがちだったのも、全部全部そういうわけだったのか。パズルの行き着く先がまさかこんな未来だとは思わなかった。
 では、許されるのだろうか。思いを口にしても。
「俺もずっとナマエが好きだった」
 え、と小さな口からこぼれる。
「ナマエは他の男のものになったと思っていたから、もう共に喜びや悲しみを共有できないのだと思っていた」
 ナマエの頬に触れていた指に、ナマエの涙が絡まっていく。なぜ、ナマエは泣いているのだろうか。泣く必要などないというのに。
 牛島の胸の内では熱いものがじわじわ、じわじわと広がっていった。
「俺は、涙で濡れるお前の頬を拭っても許されるのだろうか。震えるお前の肩を抱いても許されるのだろうか」
 ナマエの頬に触れていた手に、ナマエの手が重なる。
 牛島の手の中にすっぽりと顔を収めているナマエは愛らしいと思うが、やはり綺麗になったと思う。こんなに美しく涙を流すナマエの姿を見たことがない。
 うん、という弱々しく発せられた言葉を聞いて、牛島は覆い被さるようにナマエの肩を抱き締めた。

 今度はちゃんと、ちゃんと気づいてやろう。この肩を離さないように。ずっと抱いていられるように。