自分でも馬鹿だなぁ、と思っている。
 歩いているだけで頬を切り裂いてくる凍える寒さの中、手袋をとって五色くんと手を繋いで帰路を共にしていた。無防備に外気に晒された指先はもう感覚が麻痺してしまっている。だけど、私と同じように手袋をとった大きな手に握られている感覚はたしかにあり、私の手を硬く握ってくれるその感覚が愛おしかった。
 私は受験生、五色くんは部活に忙しい日々を送るばっかり。五色くんの部活が終わり、一緒に帰る時間だけが私たちが共に過ごせる時間だった。一緒にいられるときは、少しでも五色くんとの距離をなくしたくて、手袋をとって手を繋いでいたのだ。どちらが先に手袋をとったかなんて覚えていない。でも気がつけば、互いに互いの熱を求めていた。
「それではナマエさん、また明日」
「うん、送ってくれてありがとう」
 すぐそこにある角を曲がれば、私の家だ。この後もちゃんと、五色くんは家の前まで送ってくれる。だけど、いつもここでいったん立ち止まり、向かい合うのだ。五色くんは私の肩に両手を置く。片っぽは手袋をしているのに、片っぽは裸の手。首をコテンと横に倒した五色くんが色気を滲ませながら目を細め、顔を近づけてくるので、私も目を閉じた。少しかさついた柔らかな唇が、チュッと私の唇に触れ、わずかな熱を残して、離れる。目を開けると、キスをするのはこれが初めてではないのに、初めてキスをしたときと同じように顔を赤らめて、恥ずかしそうに斜め下を向く五色くんがいた。
 さっきも言ったように、キスをするのはこれが初めてではない。夏に付き合った私たちは、寒くなる前に、ファーストキスを迎えたのだ。
 初めてキスをしたばかりのころは、五色くんの唇に触れただけで、体中の血液が増したように、体全体が熱くなった。だけど、寒くなっていくにつれ、離れていく熱が恋しくなっていき、今はもう、触れるだけのキスでは身を焦がすには物足りない。
 キスをしたあと照れを隠すようにキュッと結ばれる唇を咥えてみたい。舐めてみたい。そして、もっと熱い中へ、舌を伸ばしてみたい。大人がするようなキスをしてみたいのだ。
 きっと、そう思っているのは私だけなのだろう。
 私が五色くんの唇だけを眺めていると、先程まで地面を見ていた五色くんは顔を上げて、はにかむように笑った。
「それでは、行きましょうか」
 五色くんは、また、手袋をしていない方の手で私の裸の手を握った。
 私は、口を開いて、五色くんに伝えようとした。大人のキスがしたい、と。だけど、口からは白いもやが吐き出されただけだった。もし、拒まれてしまったら、と思うと怖くて言えないのだ。
 思いを口にする代わりに、うん、行こっか、と笑って五色くんの隣に並んだ。五色くんに伝えられなかった思いが喉から胸へと逆流し、いつまでも渦を巻いていて、息苦しい。五色くんと繋いでいた手をぎゅっと握りしめた。
 年の暮れのことだった。

 年が明けてからも、授業が終わると、図書室で五色くんの部活が終わるのを待って、一緒に帰宅した。毎日のように、手袋をとった手で手を繋いで、家の近くの角まで行き、そこで触れるだけのキスをして、離れていく熱にもう終わっちゃったって思いながら、その思いを口にしようとするけど、やっぱり何も言えないまま家の前まで送ってもらい、また明日、と手を振った。
 しかし、とうとう、また明日、が来なくなる日がやってきた。共通テストを受け、二月に入ろうとしていたころのことだ。
 その日も、街灯だけが照らす夜道を私の家へ向かって五色くんと手を繋ぎながら歩いていた。雪がしんしんと降っており、雪は鼻の先に落ちては、じわりと体温を奪っていく。道の端ではわずかに雪が積もっていた。
「あのね、五色くん」
「なんですか?」
 こちらを向いた五色くんは、耳の先も、頬も、鼻の頂きも赤くしていた。五色くんの口元では、白い息が吐き出されてはすぐに溶けてを繰り返している。
「明日から自由登校になるの」
「そう、ですか……もうすぐ二次試験? でしたもんね」
「そう。だから、明日からは家で勉強しようと思ってて……」
「わかりました。会えなくなるのは残念ですけど、大事な時期ですもんね」
 物分かりの良すぎる彼氏は、寂しそうな顔をしたが優しく微笑んでくれた。頑張ってください、と言うように私の手をぎゅっと握って信号を送ってくる。私も、五色くんの手を力一杯握りしめた。それは、五色くんの信号を受け取ったという意思表示でもあり、これからしようとしていることに対して自分を奮い立たせるものでもあった。
 目の前には、いつもキスをする角が迫っていた。私はこのときこの場所で、五色くんに、かねてからの思いである大人のキスがしたいという願望を告白するつもりだったのだ。
 受験という大事なイベントの前に、言いたくても言えないというモヤモヤとしていた気持ちを発散させたかった。それに、大人のキスをしてもらえたら、これから来る離れ離れの寂しい日々を乗り越えられる気がした。もし、断られて雰囲気が悪くなってしまっても、冗談だよと笑えば、暫く会えない間に何もなかったことにできるかな、という打算的な考えもあった。
 立ち止まり、寒さと緊張で震える口を開いた。
「それでね、しばらく会えなくなるから……」
 言葉の途中で視線を寒々しいアスファルトに落とした。五色くんも私と同じように立ち止まったようで、五色くんのスニーカーのつま先がこちらを向いていた。
 言いかけた言葉の続きを言おうと、息を吸う。冷たく乾燥した空気に喉が裂けそうだった。だけど、五色くんと繋いだ手だけは温かかった。その熱をもっと分けて欲しい。そのためには、勇気を出して言わなくちゃ。
「五色くんとね……その……」
 大人のキスがしたいの。
 そう言うために、口は、お、の形を作っていたのに、言葉は出てこなかった。言葉を出そうとすればするほど、喉は凍りついていき、見えない弁が喉にできあがっていくのを感じた。何度か口をぱくぱくしてみたが、やはり言葉は出てこない。足元では雪がふわふわ落ちていき、アスファルトに吸い込まれるようにすっと消えていく。雪がアスファルトに溶けていく姿を眺めていると、肩から力が抜けてしまった。
 どうして、今まで言えなかったことが突然言えるようになると思ったのか。
 やっぱりやめよう。
 きっと、私たちにはまだ早かったのだ。諦めて、口の形を作り直して、顔を上げた。笑顔も作り直した。
「やっぱりなんでもないよ」
「言ってください」
「え?」
「俺そんなに頼りないですか?」
 真剣な瞳が私を映していた。その瞳からは私を何者からでも守ってやるというような強い意志が伝わってくる。
「少し前からナマエさんが俺に何か言いたいことがあるということはわかっていました」
「そうだったの?」
「そうですよ。俺があなたのことどれほど好きだと思ってるんですか」
 五色くんが年下とは思えないほど大人びた表情で笑うのでドキッとした。
「本当はナマエさんが言ってくれるまで待つつもりでした。でもやっぱり何も言ってもらえないままでいるのは寂しいです」
 五色くんは悲しそうに眉根を寄せる。
「たしかに俺は年下で頼りないかもしれません。でもナマエさんには一番に頼ってもらいたいんです」
 ナマエさんが好きだから。
 そう言うと、五色くんは真っ直ぐに私を見つめた。
 剥き出しの思いを真正面からぶつけられ、嬉しいのやら照れ臭いのやら、と心がくすぐったかったけど、ちょっと気まずかった。
 多分、五色くんは勘違いをしている気がする。話してくれなきゃ寂しいようなことを私は言おうとしていたわけではない。でも、五色くんの口ぶりを鑑みるに、五色くんは私が何か重大な悩みを抱えているのだと思っているのだろう。
 どうしよう。
 この流れで、大人のキスがしたい、とは言いにくい。だけど、うまく誤魔化す術も知らない。変な汗がこめかみを伝っていくのを感じる。いつまでも口をつぐんでいると、勘違いをしている五色くんは意地っ張りの困った子どもを見るような優しい眼差しを作り小首を傾げた。私が言いやすいように、と雰囲気を作ろうとしてくれているのかもしれない。
「ちゃんと言ってよ。ナマエさん」
「でも……」
「ナマエさん!」
 きっと、五色くんは私が話すまで私を家に帰す気はないのだろう。私の手を固く握る手がそう伝えていた。
 逃げ道がないと悟った私はぐっと五色くんの手を握り返した。
「あのね!」
「なんですか?」
「その……私が何言っても引かない?」
「引きませんよ」
「えっと、その……」
 胸の中で心臓が大きく鳴っている。半ばやけくそな気分で、うるさい心臓の音にも負けないように叫んだ。
「大人のキスがしたいの!」
「――へ?」
「だから、その…………やっぱりなんでもない!」
 キョトンとした五色くんにもう一度、言う勇気はなかった。顔がカーと熱くなっていく。鼻に落ちてくる雪の溶ける音がじゅわぁっと聞こえてきそうだった。この場から逃げ出したい衝動にかられる。早くおうちに帰ってご飯を食べて、何もなかったことにしたい。でも、その前に五色くんに今の発言を忘れてもらわなきゃ。
 やっぱり、今のはなし、忘れて! と言おうとしたら、五色くんは大きな手で自分の顔を覆って俯いてしまった。
「五色くん? どうしたの?」
「ナマエさん、可愛すぎ……」
「え、あ、ありがとう……」
 まさか、可愛い、なんて言ってもらえるとは思っていなかった。五色くんのこの反応は、いいように受け取ってもいいのだろうか。ドキドキしていると、五色くんは顔を覆っていた手を下ろして、自分を落ち着かせるようにふぅっと息を吐いた。そして、顔を上げると、熱っぽい瞳で私を見つめた。
「俺ももっとナマエさんとキスしたかった。その……してもいいの? 大人のキス……」
 そうだったんだ。
 うん、と言おうとしたら、また緊張が込み上げてきて、うん、とは言えず、代わりに、何度も頷いた。
「でも、俺上手くできないかも」
「私もだよ」
 すっかり等身大になった五色くんに愛おしさが溢れ、笑みがこぼれると、五色くんも顔を綻ばせた。
 五色くんは私の肩に両手を乗せる。片っぽは手袋をした手で片方は裸の手。小さく微笑んだ五色くんは顔を傾けると目を細めながら近づいてきた。それは、いつもキスをしているときよりも、ゆっくりとした動作に見えた。目を閉じると、唇に普段よりも強張った唇が押し当てられる。離れたかと思えば、震える唇に上唇を咥えられ、ビクッと体を揺らしてしまった。すると、大丈夫だよ、と言うように、角度を変えて、そっと二度、三度と上唇や下唇を吸うように咥えられる。咥えられたところから熱が帯びていき、体の内側に火をつけられたようだった。
 五色くんが離れていく気配がしたので、目を開けると五色くんはコツンと額と額をくっつけた。
「涙浮かんでる。大丈夫ですか?」
「うん……」
「可愛い……」
 呟くようにそう言うと、五色くんはまた唇を押し当てた。今度は柔らかな唇に下唇を咥えられる。思わず涙が落ちてしまうくらいに、キスは深い口づけへと変わっていった。