※悲恋

 五色くんは私のことが好きなのかな、と思っていた。どうしてこんな勘違いをしてしまっていたのだろう。
「工、彼女できたっぽいよ」
 昼休みに食堂の席で天童くんが三年のメンバーたちに向かって話しているのを通りすがりに聞いてしまった。
 食事が乗ったお盆を落としてしまいそうになる。友人が待つ席へ向かうはずだったのに、私の足はそこでピタリと止まってしまっていた。
 天童くんたちは、私に盗み聞きをされていることに気づく様子もなく話し続ける。
 同じクラスの子なんだって、とか、昨日工から告ったらしいよ、とか、だからあいつ昨晩浮かれてたのか、とか。
 どうしてか、心臓の音が大きくなっていき、天童くんたちの会話をする声も含め、食堂の喧騒が遠ざかっていく。
 相変わらず、私はその場で動けずにいた。
「ナマエ!」
 遠くから響いてきた声にハッとする。
「席、ここだよ!」
 満席のテーブルが並ぶ中、少し先で友人が大きく手を振っていた。きっと私が立ち止まっていたから、友人を食堂の中から見つけられずにいるのだと思ったのだろう。
 友人が私に向かって大きな声を出したものだから、注目を浴びていてちょっと恥ずかしかった。天童くんたちも驚いた様子で私を見上げている。
 さっき、聞いてしまったことは心の奥底に沈め、早足で、未だ手を振っている友人のもとに向かった。

 部員たちがロードワークに出かけている間にやらなくてはならないことは沢山ある。ドリンク作りもその一つだった。
 急いで、ジャグタンクを二つ持って、体育館の外へ向かう。飲み水が出る一番近くの水道で、蛇口を二つ捻り、ドリンクの粉末を入れてあったジャグタンクに二つ同時に水を注いでいく。
 白く濁った水面がゆらゆら揺れながら目盛を登って行く様子を眺めていると、ふと先程天童くんに謝られたことを思い出した。
「今日はごめんね」
「え? 何のこと?」
 面食らったような顔をした天童くんは、珍しく気まずそうにした。
「えっと……昼休みにさ……」
「昼休み?」
「うん、昼休み。ナマエちゃん、俺らが話してるの――」
 その続きを聞けなかったのは、部員たちが皆ロードワークに出てしまったからだ。あ〜とこぼした天童くんは焦ったそうに頭をかき混ぜたけど、また後でね、と微笑み、私に向けた手のひらを残すようにして、背を向けた。
 天童くんのあれは何だったのだろうか。
 考えていると、水が溢れそうになり、慌てて蛇口を閉める。すると、一番乗りで戻ってきたのだろう牛島くんが体育館へ向かって走っていくのが見えた。やばい、と思って、焦りながらジャグタンクの蓋を閉め、いつもは無理をせず、一つずつ運んでいるのだけど、重たいジャグタンク二つを、両手に一つずつ持って体育館へ向かった。
 やじろべえのように情けなく揺れながら体育館へ歩いていく。プラチックの食い込む指が千切れそうだ。痛いのか痺れているのかよくわからない。いつもは、すぐだと感じていた体育館までの距離が遠く感じる。
 やっぱり、片方をここに置いて、一つずつ持っていった方がいいだろうか。落としたらいけないし。
 でも時間が惜しかった。
 今日は、どうしてか、ぼぅっとしてしまい作業が遅れがちだったのだ。普段だったら、牛島くんが帰ってくる頃には、今私が運んでいるジャグタンクは二つとも体育館のステージに並んでいる。すでにドリンクの入ったボトルをクーラーボックスに入れて体育館に置いてあるため、すぐにこのジャグタンクたちは必要ないのだけど、このあともやらなければならない仕事はたくさんある。この時間にジャグタンクを運んでいたら、いずれどこかしらで間に合わない仕事が出てきて、皆に迷惑をかけることになるだろう。サポートの立場でそんなことは許されない。自分は何のためにここにいるのだ。そう言い聞かせて、やはり、両手にジャグタンクを二つ持って、ジャグタンクに振り回されそうになりながら体育館へ向かう。
 だけど、もう見えている体育館のその入り口がやけに小さく見えた。いつもであればなんでもないはずのそのことが、今日はたまらなく辛いことのように感じて、目の縁がじわりと熱くなる。
 もう、やめたい。
 何に対してそう思ったのか自分でもよくわからなかったけど、そう思い、立ち止まりそうになったその時、急に右手が軽くなった。
「片方持ちますよ」
 顔を上げれば、私の右手から片方を奪った五色くんが立っていた。丁度ロードワークから帰ってきたばかりなのだろう。肩で息をしている。しかし、軽々となみなみドリンクの入ったジャグタンクを片手に持って、私に微笑んだ。
 手が、胸が、ジンジンと熱い。
 ちょっと手伝ってもらえただけなのに、また、泣きそうになってしまった。今日の私は少しおかしいのかもしれない。
 照れ臭い気持ちで、ありがとう、と言いかけた。しかし、頭の中でひんやりとその言葉が響いた。
『工、彼女できたっぽいよ』
 思わず、五色くんの笑顔から顔を背ける。
「いいよ。走ったばっかりで疲れてるでしょ」
「大丈夫ですよ。体育館に戻るついでてすし」
 五色くんは、先に体育館に向かって歩いていく。気がつけばその背中に向かって叫んでいた。
「いいよって言ってるじゃん!」
 自分でもその声の大きさに驚いてしまった。どうして、こんなことを言ってしまったのだろう。でも言わずにはいられなかった。五色くんはキョトンとした顔で振り返る。
「どうしたんですか?」
「その……彼女、できたんでしょ?」
「はい」
 どうして、そんなことを聞くんだ、というような顔をしながらも包み隠さずにそう言った五色くんに胸が苦しくなった。五色くんが片方持ってくれたおかげで両手で持てるようになったジャグタンクをギュッと握る。
「だったら、それ、持たなくていいよ」
「なんでですか?」
「女の子は自分の彼氏がそうやって他の女の子に優しくするのは嫌なの。きっと彼女も嫌がるよ。だから、それ、持たなくていい」
「大丈夫ですよ。部活でのことですし」
「それでも女の子は嫌なの!」
 また大きな声を出してしまった。
 せっかく手伝ってくれると言ってくれたのに、それを断って、嫌な女だと思われただろうか。
 上目で、五色くんの顔を盗み見ると、五色くんは、大人のように笑った。
「大丈夫ですよ。何かやましいことをしているわけじゃないんですし。もし彼女に何か言われてもちゃんと説明します。そしたら彼女もわかってくれると思います。それならいいでしょ?」
 あぁ、こういうところだ、と思った。
 こうして私が困っていたら王子様みたいに颯爽と現れて、必ず助けようとしてくれるから、五色くんは私のことが好きなんだろうなって勘違いしてしまっていたのだ。でも五色くんのそれは私だけの特権ではなかったらしい。なんでそんな簡単なことに気がつかなかったのだろうか。
 そんなことを今更考えるまでもなかった。
 きっと、私が五色くんの片方持ってくれるという申し出を断った理由は、五色くんが私に優しくしたら彼女が嫌がるだろうと思ったからじゃない。
 彼女ができたなら、優しくしないでよ。
 たったそれだけだった。
 私の方が、いつも助けてくれる五色くんを好きになってしまっていたのだ。
 五色くんの優しさが胸に膿をはらませていく。じゅくじゅくと痛くて、つい、涙がポロポロこぼれてしまった。
「えっ……! 大丈夫ですか!? なんで泣いて……そんなに俺が持っていくの嫌でした?」
「そうだね……これ、私の仕事だから……」
 五色くんからジャグタンクを奪い返して、俯きながら歩く。じゃあ、お願いします、と後ろから聞こえた。
 もう、食い下がってくれないんだ。
 そう思ってしまった自分に笑ってしまった。