昼食を終え、教室で友人たちと話していると、クラスメートの女子に、五色くん、と話しかけられた。
「バレー部のマネージャーさんが来てるよ」
 彼女が指し示すように顔を向けた先を見ると、教室の扉のところで中を覗き込んでいるナマエがいた。落ち着かない様子のナマエは、目が合うと、申し訳なさそうに眉尻を落とす。
 なんの用だろうか。
 ナマエと昼休みに会う約束をしていたわけではなかったし、今まで、こうして呼び出されたこともなかったため、ナマエの要件は皆目見当もつかなかった。
 声をかけてくれた女子には礼を言い、友人たちには、ちょっと、行ってくるわ、と断りを入れ、未だ申し訳なさそうな顔をしているナマエの元へ向かった。
「急にごめんね」
「いいですよ。それで、どうしたんですか?」
「あ、えっとね。ここではちょっと恥ずかしいから、移動してもいい?」
 はい、と返しつつも、腑に落ちないというような返事になる。
 ここではちょっと恥ずかしい要件とはなんだろうか。
 ナマエは、ごめんね、と困ったような顔で笑い、あっちの方に行こう、と人気のなさそうな渡り廊下を指差した。五色は、再び、腑抜けた返事をして、ナマエの背中についていった。

 誰もいない渡り廊下を歩いていると、二人分の足音がやけに響いて聞こえた。
 少し肌寒い。きっと、窓から見える樹木が赤や黄色に色づく季節だからだろう。クラスメートで溢れていた教室は暖かく、急にひんやりとしたここにきたものだから、体がブルリと震えた。
 渡り廊下をしばらく進むと、やがて、ナマエは立ち止まり、くるりとこちらを向いた。
「あ、あのね……」
 向かい合ったナマエはまつ毛を伏せる。その頬が僅かに赤いのは、きっと、ナマエも寒いからだろう。彼女は肩を縮こめさせモジモジと体を揺らしていた。
「これ、作りすぎちゃったから、良かったらと思って」
 そう言われて差し出されたものは紙袋だった。お弁当が入りそうなくらいの大きさで、茶色く無地のシンプルなものだった。
「え? 俺にですか?」
 そうだよ、とナマエはニコッと笑う。
「昨日の夜にクッキー焼いたの」
「あ、ありがとうございます……」
 ナマエから何かをもらうのは初めてだった。しかも、それは手作りお菓子だという。
 突然のサプライズに呆けてしまい、受け取れないでいると、ナマエは不安そうな顔をした。
「もしかして、甘いもの嫌いだった? それだったら無理しなくても……」
「いえ! そういうんじゃなくて!」
 ナマエさんが俺に作ってくれたんだ、と思うと感動してしまい、そこで時が止まってしまっていたのだ。
 五色はまじまじと差し出された紙袋を見てしまう。
 へぇ、クッキーをあのナマエさんが、俺に。
 わざわざ、昼休みに教室に来てまで、俺に。
 しかも、教室では、恥ずかしいからと言って、こんなところに呼び出してまで、俺に。
 ここまで、考えて、待てよ、と気づいてしまう。
 ナマエをじっと見つめると、へ? と声を上げたナマエは心もとなさげに視線を彷徨わせるが、もう一度五色へ視線を戻すと、はにかみながら、何? と小首をかしげた。やはりナマエの頬は上気しており、先ほどは寒いせいでそんな頬をしているのかと思ったが、もしや、ほかに理由があるのではないかと思ってしまう。
 ナマエさん、俺のことが好きなのかな?
 だって、昼休みにわざわざ五色の教室にまで来て、手作りお菓子を持ってきてくれたのだ。普通、ただの後輩にそんなことをするだろうか。それに、よくよく考えてみたら、作り過ぎた、というのもおかしくはないだろうか。材料を計って作るのだから、どのくらいできるかということは作る前にわかるはずだろう。もしかしたら、作り過ぎた、というのは、ただの方便で、ナマエはただ五色にクッキーを渡したかっただけなのかもしれない。だから、先ほど教室では、みんなの前ではちょっと恥ずかしいと言っていたのだろう。みんなの前で好きな人に手作りお菓子を渡すのは、たしかに、恥ずかしい。
 五色は、胸が熱くなっていくのを感じた。そして、ずっと憧れの存在でしかなかったナマエがぐっと身近に感じられるようになった。
「クッキー、ありがとうございます」
 口元が緩んでいくのを我慢して、紙袋を受け取る。すると、ナマエがホッとしたような顔をするから、その可愛い顔をちょっと困らせてやりたくなった。
「こうしてナマエさんからいただけるのは嬉しいんですけど……」
 けど? と五色の語尾を拾ったナマエは心配そうな顔をする。
 五色は生意気に口角を上げた。
「ちゃんと言って欲しいです」
「え? 何を?」
「これ、俺に食べて欲しかったんでしょ。じゃあ、作りすぎたなんて言わないで、ちゃんとそう言って欲しいです」
「あ、や、えと……へ?」
 今さら、ナマエがとぼけるので、ますます悪戯心をくすぐられた。
 本当は、男らしく五色から気持ちを伝えたかった。でも、ナマエが作り過ぎたと嘘をついてまで五色に手作りお菓子を渡そうとし、それを受け取ってもらえると安心したような顔をするから、そんな彼女がいじらしくて、芽生えた悪戯心を摘めるほど、大人にはなれなかったのだ。
「ねぇ、ナマエさん。ちゃんとナマエさんの気持ち、教えてよ」
 他人の距離だったナマエに一歩近づく。するとナマエが、一歩下がるから、ナマエを逃したくない五色もおのずとまた一歩前に足が出る。するとナマエがまた一歩下がる。それを何度か繰り返せばナマエはすぐに壁に突き当たった。ナマエの頭の上で壁に手をつき、恋人の距離で見下ろせば、見上げたナマエと視線がぶつかる。ナマエは慌てたように俯いた。
「と、とりあえず、五色くん離れてっ……近いよっ……」
「嫌です」
 ナマエが俯いたせいで、ナマエの横髪が彼女の顔を隠してしまった。もっと、その可愛い顔を見せてよ。
 ナマエの横髪を掬うと、先ほどよりも赤みが増した頬が露わになった。ナマエは五色に触れられた瞬間にビクッと震え、ぎゅと目を瞑った。きつく閉じ合わせられたまつ毛から涙が押し出される。
 ふいに花の香りが五色の鼻腔をくすぐった。掬った髪から香るそれはシャンプーの香りだろうか。いい香りだった。その香りに引き寄せられ、掬った髪に顔を寄せれば、香りが増し、脳髄が痺れる。五色くん!? と驚いたような声が聞こえてきたので、ふっと笑みがこぼれ、そのまま髪に口付けた。
「ごしきくんっ……!」
 普段であればこんな大胆なことはしない。
 ナマエが自分のことを好きだと知ったからこそできる芸当だった。
 五色はナマエの横髪に唇を落としたまま、上目でナマエを見つめた。
「ねぇ、ナマエさん。なんで、俺のためにクッキー焼いてくれたの? 教えて」
「え、あ、えと、その……」
 ナマエは訳がわかないというように目を回している。そんなナマエを、ナマエさん、と急かせば、ナマエは観念したのか、懸命に叫んでくれた。
「もちろん、五色くんにも食べて欲しかったからだよっ! そうだよねっ! 作りすぎたからなんて言って渡して失礼だったよねっ! ごめんねっ!」
 なんだか、期待していた回答と微妙に違う気がする。何が違うんだ? と首を捻っていると、こちらに向かってくる足音が聞こえてきたので、とりあえずナマエから離れた。五色はナマエとのこの現場を誰に見られても構わなかったのだが、先ほどナマエが教室では恥ずかしいと言っていたので、そのことを気遣ってやったのだ。
「おぉ、工とミョウジじゃねーか」
 陽気な声を出し、こちらに向かって歩いてくるのは瀬見だった。挨拶をするように持ち上げられた片手には焼きそばパンが掴まれている。購買からの帰りなのだろう。
 瀬見はナマエのそばまで来ると、立ち止まり、嬉しそうに笑った。
「ミョウジ、クッキーありがとな。さっき食わせてもらったけど、うまかった」
「そっか、こちらこそ食べてくれてありがとう」
「他のバレー部の連中も食ったみたいでみんなうまいって言ってたぞ」
「そう、よかった。でも、ごめんね、押し付けちゃって。材料全部使い切ろうとしたらたくさんできちゃって……」
「いや、もらえることは感謝でしかねぇよ」
 そんな会話が五色の目の前で繰り広げられ、五色は、へ? と言ったまま、思考が停止してしまう。そのままポカンとしていたら、こちらを向いた瀬見は五色が持っていた紙袋へ視線を落とし、再び、五色の顔へ視線を戻すと、五色にも微笑んだ。
「お前もミョウジからもらったのか。よかったな」
「はい……」
 なんだか、自分はとんでもない勘違いをしていたような気がする。
「あの、ナマエさん……ちょっと聞きたいんですけど……」
「何?」
 ナマエがこそばゆそうに笑いながら、首を傾げる。
「さっきはなんで教室では恥ずかしいと言ってたんですか……?」
 あぁ、と思い出したように漏らしたナマエは続けた。
「五色くんのクラスの子たちがみんなこっち見てたから。注目を浴びてて、この中でクッキーを渡すのはちょっと恥ずかしいなぁって思って」
 一年の教室に上級生の女子が訪ねてくることなど、ほとんどない。クラスのみんなは、明らかに上級生に見えるナマエが教室を覗きこんでおり、珍しかったのだろう。
「じゃぁ、俺がクッキーを受け取る前にじっと見つめたとき、ナマエさんが照れたようにしてたのは……」
「あぁ、それはね……五色くんがあまりにも真っ直ぐに見てくれるから、なんだか恥ずかしくなっちゃって……変な態度だったよね。ごめんね」
「いえ……」
 やはり、五色は勘違いをしていたらしい。
 きっと、ナマエは本当にクッキーを作りすぎたから、五色にそれを渡したのだろう。それも五色にだけではなく、きっと、バレー部のみんなに渡したに違いない。五色は大勢の中の一人に過ぎなかったのだ。
 それにも関わらず、勝手に早とちりをして、ナマエに何と言ったか。
『これ、俺に食べて欲しかったんでしょ。じゃあ、作りすぎたなんて言わないで、ちゃんとそう言って欲しいです』
 なんて、言っていた気がする。
 さらには。
『ねぇ、ナマエさん。なんで、俺のためにクッキー焼いてくれたの? 教えて』
 とか、言っていた。
 きっと、自信満々な顔をしてそれらの言葉を吐いていたのだろう。
 五色の首から上へと熱いものが登っていく。それは耳までをも熱くし、アホ毛の生える頭のてっぺんまで到達すると、何かが五色の中で爆発した。
「す、すみませんでしたっ! さっきのことは忘れてください!」
 一目散に走って逃げた。

「あいつ、どうしたんだ?」
「そうだね。どうしたんだろうね」
 尻尾を巻いて逃げる背中を、ナマエは瀬見と並んで見送った。
 その慌ただしい足音は遠ざかっていき、やがて、聞こえなくなった。渡り廊下はしんと静まり返る。
 本当に五色はどうしたのだろうか。
 ふと、瀬見が来る前の五色の様子を思い出す。
 彼は、呼吸音が聞こえてきそうな距離で、ナマエを大きな体で覆い、挙句、髪の毛に唇まで落とし挑発的に見上げてきた。
 どうして、五色がそんなことをするほど、作りすぎた、という言葉に引っかかっていたのかはわからなかったが、あのときの五色の表情や息遣いを思い出すと、なんだか、ナマエまでこの場から逃げ出したくなってしまう。
 これまで、五色のことは可愛い後輩としか思っていなかった。五色は、ナマエにとって、ワンコのような存在だったのだ。でも、先ほどの五色の姿はワンコというよりも、そう、狼のようだった。
「ミョウジ、大丈夫か?」
「え、何が?」
「顔真っ赤だぞ。体調悪かったのか?」
 瀬見が心配そうに覗き込んでくるので、慌てて両手を振った。
「違うの! ちょっと暑くなっちゃって!」
「そうかぁ? 今日は寒い方だと思うけど」
「そうだよね! 寒い方だよね! じゃあ早く教室戻らないと! 風邪ひいちゃうよ!」
 瀬見は、不思議そうに首を傾げていたが、ナマエがぎこちなくも歩き出せば、瀬見もそれに倣い、ナマエの隣を歩き始めた。そして、ナマエを見下ろし、ふっと笑う。
「なんか、ミョウジ楽しそうだな」
「そうかな?」
 きっと、それは、今度はちゃんと五色くんのために作ってあげよう、なんて考えていたせいだ。
 今度、渡すときは、五色くんのために作ったよって言ってみよう。五色は喜んでくれるだろうか。
 そう思うと、胸の奥がソワッとしてむずがゆかったけど、嫌な気はしなかった。
 今度は何を作ってあげようかな。
 教室へ進む足取りは弾んでいった。