※五色を振る話。
※悲恋。
※寒河江をとても捏造。

 私が二年の時のことだ。
 バレンタインの日に、部活を終えてから、五色くんを体育館裏にこっそり呼び出した。
 体育館裏は、体育館の電気が消されてしまったせいか、真っ暗で、体育館も黒い影の塊のようにしか見えなかった。日常の見慣れた景色がおどろおどろしく、どこか心もとない気持ちにさせられる。
「どうしたんですか? ナマエさん」
 隣にある自動販売機の白い光に照らされた五色くんはキョトンとしていた。バレンタインに女の子から呼び出されたら要件は一つしかないというのに。
 もしかして、五色くんは今日がバレンタインだということを知らないのだろうか。いや、そんなことはないだろう。今日一日たくさんの女の子からチョコレートをもらったはずだ。単純に私からチョコレートをもらうなんて思っていないのかもしれない。
 つまり、ただのマネージャーでしかない私は、五色くんの眼中にないということだ。後ろに持っていた紙袋を持つ手に力が入る。
 やっぱりなんでもないよって、言っちゃおうかな。
 そう思って顔を上げたけど、目が合うと五色くんがニコッと笑ってくれるから、やっぱりこの人が好きだ、と胸が苦しくなった。
 この気持ちを吐き出せば、楽になれるのだろうか。
 勇気を出して持っていた紙袋を突き出した。
「これ! チョコレート!」
「え……」
「だから、チョコレート! 五色くんに!」
「あ、ありがとうございますっ!」
 五色くんは目が覚めたような顔をして紙袋を受け取った。でも、紙袋を受け取り、その手を下ろすと、嫌そうな顔をして目を逸らした。
 ドキドキと熱い血流を送っていたのが嘘だったように胸の辺りがひやっとし、尋ねずにはいられなかった。
「もしかして、迷惑だった……?」
「え? 何がですか?」
「その、チョコレート渡したの……」
「いえ! そんなことないです!」
 元気にそう言ってくれたけど、五色くんは悲しそうに眉尻を落とした。
「もちろん、ナマエさんからいただける物なら、なんでも嬉しいです。ただ……」
「ただ?」
 五色くんは続きを言うか言うまいかを悩んでいるようだったけど、いえ、なんでもないです、と言うと、何かを諦めたように穏やかに笑った。
「義理でもナマエさんからいただけて、嬉しいです。気を使っていただきありがとうございました」
 そう言われ頭を下げられてしまうから、口からぽろりとこぼれてしまう。
「それ、義理じゃないよ」
「はい! わかってます!」
「え? わかってたの?」
「はい! わかってます! 義理じゃないんでしょ? って、え……? えぇっ!? 義理じゃないんですか!?」
「そうだよ……本命だよ……五色くんが、その……」
 顔が熱くなっていく。でもここまで来たら、口を閉ざすものは何もなかった。未だ、変な顔をしている五色くんを上目で見上げる。
「だから、その……五色くんが好きだから……それは本命……」
「う、あ……え……?」
 五色くんは顔を真っ赤にして、本当は私が言ったことの意味をわかっているくせに、首を傾げてばかりいるから、私は叫んだ。
「だから本命なんだってば! 五色くんが好きなの!」
「う、あ……はいっ!」
 このあと、顔から湯気を出した五色くんが絞り出すように、俺もナマエさんが好きでした、と言ってくれたため、私たちは付き合うこととなった。
 今は遠い日の出来事だ。


❄︎ ❄︎ ❄︎


 シャーペンを置き、ふぅ、と一息つく。黒板の上に備え付けられている時計を見ると、ちょうど七時になるところだった。そろそろ五色くんの部活も終わるころだろうか。窓に視線をやれば、白く曇ったガラスの先はすっかり暗くなっており、蜘蛛の巣のように張り巡らされた枯れ枝が黒いシルエットを浮かばせていた。
 机に広げていた、大学入試の問題集やノート、ペンケースをバッグにしまう。そして、一人しかいないのに贅沢に点けていたストーブを消し、電気も消し、教室を出た。急に冷たい空気に包まれたものだから、全身が泡立つ。抱きしめるように体をさすりながら、暗い廊下を進んでいった。
 外に出ると、吐いた白い息が視界を覆う。
 冬の気配がすぐそこまで迫ってきているのを感じた。
 そろそろコートを着てきた方がいいかもしれない。ブレザーの上にコートを着ると窮屈であまり好きじゃないんだけど。
 そんなことを考えながら、キラキラに輝く星空を見上げ、歩いていけば、体育館に到着した。
 引退するついこの前までは毎日そこに出入りしていたのに、固く閉ざされた扉は私を拒絶しているように見えた。そこに手を伸ばすことすら躊躇われた。
 五色くんたちは、今ごろ片付けをしているころだろうか。
 窓から淡く光が漏れ出る体育館からボールの音や掛け声は聞こえてこない。
 悴む手を擦り合わせていると、いきなり体育館の扉が開かれ、眩しい光が差した。
「ナマエさん! もう来てたんですか! お待たせしてすみません!」
 光の中から一番乗りで飛び出して来たのは五色くんだった。
「大丈夫だよ。さっき来たばかりだから」
「でも、寒かったでしょ。すぐ荷物持ってくるんで待っててください!」
「ゆっくりでいいよ」
 私が言い終える前に五色くんは走り出していた。恐れなどないというように闇へ向かって突き進んでいく。
 その背中を見送っていたら、あいつ相変わらずっすね、と体育館から出てきた寒河江くんに話しかけられた。
「そうだね。さっきまで散々飛んだり跳ねたりしてたはずなのに、いつも元気だよね」
「本当っすよ。俺らはヘトヘトなのに」
 寒河江くんは大袈裟に肩を落とす。
「でも、最近あいつ不調なんですよ。今日も監督に怒られてばかりで」
「え? そうだったの?」
「まぁ、五色のことだからナマエさんにはそういう話してないですよね。そのうち元に戻るんでしょうけど、今週末練習試合あるし、情けない試合したら俺らまでとばっちり食らうし。しっかりするようナマエさんからも言ってやってくださいよ」
 寒河江くんはおちゃらけたように笑う。私が何か言おうが言わなかろうが、五色くんはきっと一人で勝手に立ち直るのだろうけど、そうだね、と返しておいた。
「お願いします!」
 調子良くそう言うと、寒河江くんは満足したのか、では失礼します、と言って五色くんが向かった先へ歩いて行く。その後も後輩たちが体育館からゾロゾロ出てきて、その度に、あ、ナマエさん! と名前を呼ばれては、お疲れ様です、と挨拶をされた。お疲れ〜と手を振りながら、礼儀正しい後輩たちの行列を見送る。
 体育館が消灯され、最後に出てきた後輩が去ると、暗闇の中ポツンと一人残された。お供は、体育館の扉の上に設置された一本の蛍光灯だけ。それもチカチカと点滅しており頼りない。
 思い出したように寒さが吹き抜け、ブルリと体が震えた。
「ナマエさんっ!」
 叫ぶ声が聞こえ、手を上げて走ってきたのは五色くんだった。肩から斜めがけされたスポーツバッグが五色くんの横で忙しなく踊っている。
 五色くんは私の前まで来ると、腰を折り荒い息を繰り返した。白鳥沢学園と書かれた五色くんの背中を見下ろす。
「ゆっくりでよかったのに」
「いえ、早く会いたかったのは俺の方ですから」
 顔を上げた五色くんは切なげに笑った。
「じゃあ、帰りましょうか」
 五色くんは当然のように私の手を握りしめた。
「すごく冷たくなってる」
 呟くと、繋いでいた手を持ち上げ私の手の甲に唇を落とす。少し乾燥した唇が触れ、そこに僅かな熱を残した。
「明日から終わったら連絡するんで教室で待っててください」
 そんなの別にいいのに。そう思いながらも、これからもっと寒くなるだろうし、分かったよ、と返した。それだけのことなのに、五色くんは酷く安心したような顔をした。そして、私たちは肩を並べ、寮への道を歩き出す。
 こうして一緒に帰るのは五色くんと付き合ってからの習慣だった。五色くんと付き合ってからは、帰りの道だけでなく、行きの道も一緒に歩いた。昼休みも一緒にご飯を食べ、白布や川西には、よく飽きもせず毎日一緒にいられるなと呆れられたものだった。
 そうでもしなければ、寂しさでおかしくなってしまいそうだったのだ。多くの時間を五色くんと共に過ごしていたけど、五色くんといる時間が終わり一人になると、途端に途方もない寂しさに襲われたのだ。それは片思いをしていたときに感じていた寂しさよりも大きいように感じた。きっと、五色くんは私にとって酸素だった。それを取り込み、強い鼓動で全身に巡らせなければ、たちまち私は死んでしまうのだろう。
 五色くんも私と同じように寂しさを抱えていたようで、私たちは会えば、手を繋いだり、キスをしたり、普通は、どれほどの時間をかけて、それらをしていくのかはわからなかったけど、ちょっと急いでその階段を上り、互いを求めていたように思う。でも、そうしていくら五色くんと触れ合っても、孤独が満たされることはなかった。むしろ、触れ合えば触れ合うほど、孤独は増していくようだった。
 指を絡ませ、舌を絡ませ、これ以上ないほど繋がれているはずなのに、なぜか足りない。何が足りないのだろうか。そんな私たちが行き着く先はもう古来より決まっていたのだと思う。
「本当にいいんですか?」
「いいよ」
 強張っていた五色くんの顔が空気が抜けるように緩んだ。
 それは私が三年になり、夏に入る前のことだった。五色くんと付き合って半年がたとうとしていた。
 一つのベッドの上で、結び目を解いていくように丁寧に服を脱がしあい、ついに私たちは何にも隔たれることなく抱き合った。そうして、やっと飢えから救われたのだった。

「そういば寒河江くんから聞いたよ。調子悪いって」
 街灯の白い光に入った五色くんは苦い顔をした。
「あいつ、余計なことを……」
「寒河江くん心配してたよ」
「余計なお世話ですよ。しかもナマエさんにまで言いつけやがって」
 五色くんは不満げに唇を尖らせた。
「でも急にどうしたの? 何か気になることがあるとか?」
「いえ、そういわけではありません」
 はっきりと言い切った五色くんはただ前を向いていた。真上から街灯の光が落とされているせいか、五色くんの目元に影が落ちている。
「大丈夫ですよ。必ず立ち直ってみせます。そして、来年こそは必ず春高に行ってみせます」
 五色くんの手が確かめるように私の手をぎゅっと握った。その横顔は少し強張っているようにも見えたけど、ただ目指す先を真剣に見ているだけなのだろう。これなら、大丈夫そうだ。
「頑張ってね」
「はい」
 五色くんは前を向いたまま答えた。
 私も前を向き、静まり返った住宅街の道を進んでいく。道の端で等間隔に灯された白い光を、一つ、また一つと越えていき、越えていった数だけ私の視線は下がっていった。
 先ほどはせっかく久しぶりに会話が盛り上がったのに。最近はこうして無言でいることが多い。
 五色くんも何も話さない。
 冬の乾いたアスファルトを細い道を歩くように踏み締めながら歩いていく。
 チラッと五色くんを盗み見ると、五色くんの口元では白いモヤが出ては消えてを繰り返していた。こちらの視線に気付いたのだろうか、五色くんも私を見下ろす。目が合うと、後ろに見える三日月のように目を細めた。
 五色くんと体を重ねてからは、部活がオフの日はベッドの上で過ごすことが多くなった。
「一生大事にします」
「私も一生大事にします」
 それは、一緒に被った布団の中で鼻先を合わせながら交わされた約束だった。
 その約束にかげりをもたらせたのは私の方だった。
 そのころ、やたら気のあう男の子がいた。三年になり初めて同じクラスになった子だ。彼とは本当に気があうってだけだったけど、夏に入り、志望校を定め、気の合う彼と同じ志望校だと知ってからは、ぐっと距離が近くなった。
 学校では、毎日のように、休み時間を利用し、互いの不安や期待を語り合った。夏休みに入れば、部活がない日に、図書館で肩を並べ、勉強をした。わからないところを互いに教え合い、二学期が始まれば、昼休みに、二人ともわからないところを一緒に先生に聞きに行ったりもした。昼休みを一緒に過ごすはずだった五色くんには、用事があるからと断って。
 五色くんは悲しそうな顔をしたけど、わかりました、と微笑んでくれた。たぶん、勉強のためとわかってくれていたのだろう。私の下心には気づいていないようだったけど。
 このころには、もう、私はクラスメートの彼を好きになってしまっていた。
 そうして、五色くんと過ごす時間は少なくなっていった。一緒に過ごしていても、無言でいることが多くなった。付き合い始めたころは、体育館に向かっていたらネコを見つけた、とか、授業中寝そうになっていたら当てられた、とか、誰に話すような内容でもないことを一生懸命報告しあっていたのに、今はもう何を話したらいいのかよくわからない。私のそんな雰囲気に飲み込まれるように、五色くんの口数も少なくなっていた。
 それでも、こうして一緒に帰っているのは、毎日そうしていたからだろう。
 五色くんは固く手を繋いでくれているけど、私はその手をもう握り返せなかった。
 そろそろ、ちゃんとしなければいけないのかもしれない。
 ようやくそう思い、久しぶりにぎゅっと五色くんの手を握り、立ち止まる。目の前には、女子寮は右、男子寮は左と分かれる分かれ道があった。分かれ道のところでは、街灯が切れており、月明かりだけが青白く照らしていた。
 いつもは、ここで当然のように二人で右に曲がり、女子寮の前まで送ってもらっていた。でも、今日は、きっと、ここでお別れだ。
 私と同じように立ち止まった五色くんは不思議そうに私を見下ろした。
 ちゃんと言わなければ。そう思うと、急に心細くなった。でも、もう元に戻れる道なんてないことは分かっていた。
「五色くん、あのね――」
「聞きたいくないです!」
「え、」
「だから……聞きたくないです……」
 五色くんは私の手をきつく握ったまま項垂れた。まるで、謝っているようだった。謝らなければならないのは私の方なのに。
「聞きたくないって、なんで?」
「もう俺のこと、いらなくなったんですよね」
 いらなくなった、という言葉が胸に刺さった。
「だから別れようって言うんでしょ。そんなの、聞きたくないです……」
 五色くんがポツリと零すと、辺りはシンとした。
「なんでわかったの?」
 五色くんは顔を上げると、辛そうに笑った。月明かりに溶けてしまいそうな笑顔だった。
「わかりますよ。あなたが好きだから。告白はあなたからだったけど、俺だってずっとあなたを見てきたんです。だから、わかりますよ。あなたに他に好きな人ができたことぐらい、ずっと前から知っていました」
 知っていて、今までずっと一緒に帰ってくれていたのかと思うと、胸が張り裂けそうになった。一緒に帰るときは、いつも手を繋ぎ、笑顔を向けてくれ、そんな素振りを全く見せていなかったのに。
 でも、知っていたんだ、と思い、五色くんを見ると、五色くんが浮かべている笑顔はひどく歪に見えた。昔は顔をくしゃっとして笑ってくれていたのに、今は不自然なほど綺麗な笑顔が顔に貼り付けられている。
 五色くんはそのお面を被ったまま続けた。
「でもまだやり直せるって思ってました。だって、今まで、ナマエさん、たくさん好きって言ってくれてたじゃないですか。キスだってしたし、それ以上のことだって……俺たちちゃんと愛し合ってたでしょ? だから、大丈夫です。あのころに戻りましょうよ」
 五色くんが一歩踏み出し、私に近づく。どうしてか、五色くんが怖くなり、体が震えてしまった。
「ごめんっ……」
 五色くんと繋いでいた手を振り解き、一歩、二歩、三歩、と後ろに下がった。
 五色くんは何が起こったのかわからないというような顔をして、振り解かれた手を眺める。しばらくそのまま呆然としていたが、その手に拳を握ると、威嚇する狼のように顔に皺を寄せた。
「俺のこと好きじゃなかったのかよ!」
「……ごめん」
「謝るなよ! 謝って欲しいわけじゃっ……あぁ、クソっ……」
 五色くんは苛立たしげに髪の毛を掻きむしる。
「なんでっ……なんでだよ……」
 消え入りそうにそう言うと、肩を丸め、項垂れた。五色くんが俯いた先には、ポタポタと雫が落ちていく。
 たしかに、私は他に好きな人ができてしまったけど、決して、五色くんを嫌いになったわけではなかった。かつてはあれほど求めあったのだ。嫌いになれるわけがない。むしろ、今も好きなままだ。ただ、もう、別れ際にキスをしたり、その体に触れたりすることができなくなってしまっただけだった。
 だから、自分勝手だとわかっていても、五色くんが傷つく姿を見るのは自分のことのように苦しかった。
 肩を震わせる五色くんを抱きしめてあげたい。
 でも、今の私にそんなことをする資格はないとわかっていた。
 痛いくらいに拳を握り、ごめんね、と絞り出した。
「本当に俺たちはもうダメなんですか……?」
「そうだね……」
「……わかりました」
 そう言って顔を上げた五色くんは、サラサラの黒髪に月の光をキラキラ落としながら儚げに笑った。
「幸せになってください。少しの間でしたけど、あなたと共にいられて幸せでした」
 五色くんは私に背中を向け、ヨタヨタと男子寮へ続く道を進んでいく。私は闇に溶け込んでいくその背中に手を伸ばしかけた。でも、下ろした。そして、五色くんに背中を向けた。
 きっと、五色くんは振り返っただろう。振り返って、捨てられた子犬のように私を細めた瞳で見つめただろう。
 ありありとその姿が目に浮かんだから、唇を噛み締め、振り返らず、寮への道を進んだ。