※瀬見夢です。
※五色版と瀬見版で設定(合宿中であることや夢主が玉ねぎにやられたことなど)は同じですが、夢主の心情は異なります。夢主は五色版の夢主とは全くの別人として読んでください。
※夢主視点から始まります。

 冷たい水で顔を洗っていた。
 そろそろ食堂へ戻らないとみんな心配しているだろうか。
 タオルで顔を拭き、戻ろうとしたが、目がまだしびれているような気がした。ぎゅっと瞼を閉じ合わせてみたら、やっぱりまた涙がにじんだ。
 分担を決めている時、気安く、私が玉ねぎやるよなんて言わなきゃよかった。玉ねぎを切ってから、目が痛くて痛くて、涙が止まらなくなったのだ。でも、こうなった今さら、他のマネージャーの誰かにこの辛い役目を押し付ける気にもならない。犠牲になったのが私でよかった。なんて、少し誇らしい気持ちにすらなってくる。
 合宿は今日が初日だったが、毎年同じ四校で行われているため、マネージャーの中にはもう三年の付き合いになる子もいて、みんな仲良しなのだ。
 そのうちの一人が、私がいつまでも号泣しているのに見かねたのか、夕食も粗方できてきた頃に「もうここはいいから、目洗ってきなよ」と可笑しそうに笑い、私はお言葉に甘えて今こうして一人で顔を洗っていた。
 最後にもう一度目を洗い、帰ろう。
 そう思って蛇口をひねろうとした時
「ミョウジ……?」
 突然声をかけられ肩が跳ねた。しかし、その声はよく耳に馴染んでいたものだったので、ほっと胸を撫でおろす。
 ひょっとしたら、誰かに玉ねぎのことを聞いて心配して見に来てくれたのだろうか。
 涙を拭いて、声の主へ向けば、月明かりに照らされた瀬見くんが立っていた。
「わざわざ来てくれたんだ。ごめんね……」
 なんて言ったのも束の間。瀬見くんの綺麗な顔が一瞬歪んだかと思えば、頭の後ろへ手が伸びてきて、その手は私の頭を瀬見くんの胸に押し付ける。私は瀬見くんの胸に顔をうずめるような状態になる。転んだ時のように反射的に瀬見くんの胸に手をつき、瀬見くんから離れようとしたが、私の頭をすっぽり覆うほどの大きな手に力強く押さえつけられているため、抜け出せなかった。
 一体何が起きているのだろうか。まるで恋人同士がするようなことをしているけど私たちは決してそんな関係ではない。
 固いけど弾力のある筋肉質な胸板に、汗の匂いと交じる爽やかな制汗剤の香り。瀬見くんが私の頭の上にこつんと顎を乗せると、香りがさらに増し、頭がぐるぐる回った。


☆ ★ ☆


 みんなが席につく頃になっても、食堂にミョウジが現れなかったから、まさか何かあったんじゃないだろうかと心配になり、食堂を抜け出してきた。
 その判断が今となっては正解だったと思う。危うく好きなやつを一人で泣かせるところだった。
 洗い場で一人寂しく涙を拭っていたミョウジ。何がミョウジに涙を流させていたのか、およそ検討もつかなかったが、どんな時でも明るく振舞っていたミョウジが隠れて涙を流すなどよほどのことがあったに違いない。こちらに気づいたミョウジは慌てて涙を拭き、いつものように笑いかけてきたが、その瞬間、自分でも信じられないくらい熱い衝動がこみ上げてきて、気が付けばミョウジを胸に抱いていた。
 ここに来られてよかった。そして、ここに来たのが俺でよかった。
 こいつを守るヒーローは俺でありたい。
 ミョウジの頭に顎をのせ、さらに彼女を閉じ込める。


☆ ★ ☆


 瀬見くんの胸に押し付けられている頬から、力強い鼓動が聞こえてくる。でもその音をかき消すほど、自分の鼓動が大きく鳴っている。
「あ、え……あの……? 瀬見くん……?」
「辛かったな……」
 いつも力強いサーブを打つ瀬見くんには似つかわしくない湿っぽい言葉が降ってきた。
「あ、うん、まぁ……」
 確かに最近切った玉ねぎの中では、格別にすごかったんだけど、瀬見くんの反応はちょっと大げさな気もする。
 とりあえずこの状態から抜け出そうと思い、もう一度瀬見くんの胸を押してみたが、瀬見くんの体はピクリとも動かなかった。瀬見くんも私が抵抗していることに全く気付いていない様子で、力を緩める気配すらない。
「泣きたいときは泣けばいいんだ」
 そんなことも言われ、何かおかしい気もしたけど、瀬見くんがやたら弱って見えるせいか、それとも月明かりしか届かない幻想的な廊下のせいか。ドラマのクライマックスのような雰囲気に私もいつの間にか飲み込まれてしまったようで、気づいたら、もうたくさん泣いたよ、とか返していた。まるで悲劇のヒロインだ。
「だからもう大丈夫」
「そっか……」
「うん、ありがとう……」
 そう言うと、瀬見くんは安心したのか、瀬見くんの腕から力が抜ける。そして彼は名残惜しそうに私から離れていった。
 やっと解放された。まだうるさくしている心臓を宥めていると、瀬見くんは照れくさそうに頬をかく。
 青白い月明かりが瀬見くんのほんのり赤く染まった頬を照らしていた。
「俺、来るのちょっと遅かったか?」
「ううん、ちょうどいい感じだったよ。むしろちょっと早かったかも」
「そっか、ミョウジからしたらそうなんだな。俺としてはもっと頼って欲しいんだけど……」
「頼る……?」
「おう……」
 やっぱり玉ねぎの話をするには少し変な気がする。マネージャーが雑用を部員に、しかも主力となっている選手に頼るなんてさすがにおかしい。
 ようやく冷静になりつつあった私はある一つの結論にたどり着こうとしていた。
 もしかして、瀬見くん、何か勘違いしてる?
 きっと、瀬見くんは私が玉ねぎとは違う、別のもっと深刻な問題で泣いていたと思ってるんだ。
 最初にどうして泣いていたのか聞いてくれたらよかったのに。
 でも何も聞かずに、私が泣けるようにしてくれたのは、瀬見くんなりの優しさだったのだろう。
 ここで勘違いを正して瀬見くんに恥をかかせるのも気が引けた。
「ありがとう。瀬見くんのおかげで元気になれたよ」
「そっか、ならいいんだけどよ」
 瀬見くんは歓声を浴びたヒーローのように気恥ずかしそうにでも嬉しそうに笑う。客観的に見たら、勝手に何かを分かった気になり全然検討違いなことをした間抜けな男にしか見えないんだけど、どうしてかそんな瀬見くんが愛おしくなってきて、自分でもちょっと驚いた。
「帰ろっか。あんまり遅いとみんなに心配かけちゃうかもしれないし」
 先に足を進める。どうにも頬がにやけてしょうがなかった。さっきまで深刻な問題で泣いていた筈の私は、この顔を瀬見くんに見られるわけにはいかない。
 私が早歩きをし、その少し後ろを瀬見くんがゆったり歩く。ここで隣に並ばずにいてくれるのは、やはり瀬見くんなりに何かを理解してのことなのだろう。それも全くの勘違いだと思うんだけど。
 窓から入り込む月明かりだけを頼りに静かな廊下を進んでいく。二人分の足音が耳に心地いい。
 このままずっとこうして歩けたらいいのに。
 眩しい光を放つ食堂が見えると、少し残念に思った。
 今日は合宿の初日であり、きっと淡い何かが芽生えた日でもあった。