※ハッピーエンドではありません。
※悲恋の要素があります。
※夢主の友人が登場し、喋ります。名前はありません。
苦手な方はご注意ください。
ポストを開けると、ポストカードが一枚入っていた。それは真っ暗闇のポストの中で幻想的な緑色を放っている。どうやらオーロラの写真のようだった。
誰からだろうか。
取り出して、裏面を見てみると、私の住所や名前がアルファベットで書かれており、消印から海外から発送されたものだと分かった。
ますます誰から送られたものか気になり、差出人の名が書かれているポストカードの下の方へ視線を落とす。瞬間、記されたその名に心の大切なところを無遠慮に鷲掴みされたような気がして、ポストカードを伏せるように持っていた手を下ろした。
胸が苦しい。
部屋へと走り、引き出しの奥の方へポストカードを仕舞い込むと、ピシャリと勢いよく引き出しを閉める。
それなのに記憶の扉は開かれてしまった。
まだ思い出といって懐かしむには鮮やかすぎる記憶。
はぁと思わずため息をつく。
部屋の窓からは地平線へ傾いた夕陽が差し込み、柔らかなオレンジの光が部屋を満たしていた。
あれはちょうど大学の前期試験を終えた頃のことだった。
後期試験も控えていたけど、一度気分転換しようと久しぶりに夕くんと遊びに来ていた。
冬も真っ只中。喫茶店の窓は白く曇り、外を行き交う人たちが滲んで見えた。
窓際の席に夕くんと向かい合って座った私は、ココアが入ったカップを両手で包み込み、冷たかった指先がじんじん温まっていくのを感じながら、軽い気持ちで聞いてみたのだった。
「夕くんってさ。卒業後の進路どうするの?」
こんな直前になるまでこんな大切なことを聞いてこなかったのは、なんとなく夕くんは卒業後もバレーを続けるのだろうと思いきっていたからだ。勉強している様子もなかったから、就職して社会人選手にでもなるのかと思っていた。
夕くんは夏を思い起こすようなメロンソーダが揺れるグラスを紙パックの牛乳を持つようにワイルドに片手で持つと、グラスに刺さっていたストローをちゅうっと吸う。のどぼとけが大きく上下に動き、そんなに大きな一口を飲んでのどがしびれないのだろうか。不思議に思ったけど夕くんは少し目を細めただけだった。そしてニッと太陽のように笑うと衝撃発言を言ってのけた。
「卒業後は日本を出て旅に出ようと思ってる」
私はカップで指先を温めていたのも忘れ、夕くんの顔をまじまじと見つめた。
「え……? 何……? 日本を出て……? え? それって海外に行くってこと? 何言ってんの?」
「いや、だからよ。高校卒業したら旅に出ようと思ってる」
グラスを机に置いた夕くんはまたしても簡単にそう言ってのけた。グラスの中でカランとどこ吹く風というように涼やかに氷が揺れる。
「いやいやいや、おかしいでしょ」
「何がおかしいんだよ」
夕くんは本当に分からない様子で、実に不思議そうな顔をした。そんな顔をされたらまるで私の発言の方がおかしいみたいではないか。私はココアも手放し、まだ冷たい手に拳を握る。
「いや、百歩譲って、旅に出るっていうならまだわかるよ。でも海外って……日本なら、まだいいよ。ほら、ヒッチハイクで全国を旅するみたいな、前にテレビで見たことある。でも、海外だよ。海外。第一、夕くん日本語しかしゃべれないじゃん」
「そんなの行けば何とかなるだろ。寒いとか熱いとか、辛いとか嬉しいとか、程度の差こそあれ、そういう感覚は人類みんな同じなんだからよ」
そう言いながら、身体を抱えて寒そうに震えてみたり、腕で目を覆って天を仰ぎ見、今にも涙を噴き出しそうにしてみたり、夕くんはたしかに言葉が通じない場所に行っても、大抵のコミュニケーションは取れそうだった。思わず、そうだけど、と肯定してしまう。いや、しかし、問題はそれだけではないのだ。
夕くんは私を置いて、一人海外に行ってしまう。
それは私の喉元にとても鋭い刃物を突き付けていた。
「もしかして私たち……別れるの?」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、海外に行くんでしょ? 全然会えなくなるじゃん」
「そんなことないだろ。会おうと思えば会える」
夕くんは力強く頷いて見せる。
私は夕くんとの間に、夏と冬のような温度差を感じた。
テーブルの上では夕くんが頼んだメロンソーダが泡をしゅわしゅわ弾けさせている。まるで夏を喜ぶように水面で泡を弾けさせ、無数の小さな水滴を飛ばしている。外は真冬だというのに。指先はこんなにも冷たいというのに。
私は噛んだ唇をへの字にし、顔を歪めかけるが、その時、夕くんはまたしても笑顔をこぼし言った。
「俺もたまには日本に帰ってくるしよ。そうしたら会えるだろ。ナマエも来れる時にこっちに来たらいいじゃねぇか。その時は一緒に旅行しようぜ」
夕くんはグラスを持ち上げまたメロンソーダを吸い上げる。やはりその一口は大きいが、夕くんは少し目を細める程度だった。
どうして夕くんには通じないのか、私は不思議だった。
私たちは今かつてないほどの危機に直面している。
そのことを夕くんは全然わかってくれない。
夕くんが超前向きであることは知っている。その前向きさに今まで何度も救われてきたことも分かっている。
でも今回はその超前向きというだけでは乗り越えられないのだ。
半開きにしていた口の中が乾いていく。だけど、目の前の甘ったるいココアを飲む気にはならない。
テーブルの上で両手に拳を作りながら、カラカラに乾いた喉から声を絞り出す。
「そんな風にお互い行き来できてもたまにでしょ。年に一回あるかないかじゃん」
「いや、二回くらいは……」
「そういう問題じゃないよ!」
つい両の拳でテーブルを叩いてしまう。周りから視線を感じて少し怯んだが、声のボリュームを下げ、勢いはそのままに続けた。
「年に一回でも、二回でも少ないよ! それにそういう問題じゃないの。そんな距離にお互いがいるってことが問題なの! そんなの絶対無理だよ! 絶対別れることになる!」
言ってて目の縁が熱くなっていく。それなのに夕くんは
「そっかぁ……無理かぁ……」
と思いのほか、簡単に諦める。
「え……」
まさか夕くんがこんなに簡単に諦めるなんて思わなくて、悲しいでもなく辛いでもなくぽかんとしてしまった。
そんな私を置いて夕くんはきつく目を閉じる。かと思えば、両手を組み、うなされているような顔つきで考え込み見始める。しばらく一人で唸り、はたして何を考えているのだろうか。皆目見当もつかなかったけど、何が合図になったのか、やがて夕くんは組んでいた手を下ろし私を真っすぐに見つめた。瞬間、空気がぴりっと張り詰め、私はついに別れを告げられるのかと心臓がきゅっと縮み上がる。
「じゃあ、一緒に来るか?」
「え……?」
「いや、誘うかどうか迷ってたんだけどよ」
夕くんはテーブルの上でグラスを弄ぶ。爽やかな緑の液体がゆらゆら揺れ、無数の泡がしゅわしゅわはじけ飛ぶ。
「でも、ナマエとだったら楽しい旅になると思うんだよ」
そう言うと手を止め、改めてその大きな瞳で私を捉えた。
「なぁ、ナマエ。俺と一緒に来ねぇか?」
私は若干高三にして大好きだった人にプロポーズにも似た言葉を受けたのだった。
夕くんと付き合ったのは、二年の終わりの頃だ。
仙台市体育館で行われた春高予選の決勝戦。烏野高校の生徒の一人として、応援席に立っていた私は夕くんを好きになった。
夕くんとは同じクラスでもなんでもない。応援に来ていたのも、バレーに興味があるからとかそういう積極的な理由ではなく、張り切った教頭が全校生徒で応援に行くということで面倒くさいけど授業がなくなるならいっかという、今思えば、青春の全てを捧げているようなバレー部の彼らに対して至極失礼な理由でだった。
そんな私でも、強豪と呼ばれる白鳥沢学園との試合は手に汗を握るようなものだった。そして、誰よりも小さな体で誰よりも存在感を放っていた夕くんは私の目を惹きつけてやまなかった。
メガホンをぎゅっと握っても、ドキドキと胸の高鳴りを抑えられない。こんな観客席から眺めているだけじゃなくて、一歩を踏み出し、たくさんいる烏野高校の生徒の一人から抜け出したい。そして、彼のいる世界へ私も立ってみたい。
夕くんがコートの中で放つ光は強烈で、そんな夕くんの光を浴びていたら、私も変わり映えしない惰性的な日常の何かを変えたくなった。
人生初の告白を決意したのもきっとそのくすぶりのせいだったのかもしれない。
バレンタインの日。人気のない校舎裏。
立っているのも辛いほど冷たい風がびゅうびゅう吹いていて、人生初の大切な瞬間にどうしてこんな場所を選んでしまったのか、後悔した。だけど、夕くんは風なんてそっちのけで、まさにチョコを期待する男子を絵に描いたようにソワソワ照れくさそうに立っていた。だけど、いざ私が告白をしたら氷のようにガチッと固まった。
「え……? 大丈夫?」
夕くんの時間がしばらく止まっているようだったので、目の前で手を振ってあげた。するとハッとした夕くんは、まさに感涙というように涙をブワッと流した。
「え……何……?」
「いやっ、なんでもねぇ! それよりありがとな……! 俺を選んでくれて……! 本当にありがとな!」
そんな大げさな、とは思ったけど、そう言える雰囲気でもなく。夕くんは、よろしくな、とまるでこれから試合をするかのように熱く手を差し伸べてくる。
告白しておいてなんだけど、夕くんも私のことをよく知りもしないだろうに、本当にこの流れで付き合ってもいいのだろうか。それに、夕くんが差し伸べてくれた手に、期待していたような恋愛独特の甘酸っぱさがない。もしかして、夕くんは女子だったら誰でもよかったのだろうか。
色々と不安になってきたけど、せっかく差し伸べられた手を断る理由もない気がしてきて、恐る恐る夕くんの手を握った。すると、ぎゅっと力強く握り返された。
その時の熱を私の掌は未だ忘れられずにいる。
その日から夕くんの部活が終わるのを教室で待って一緒に帰ったり、夕くんの練習がないという日には一緒に出掛けたりした。
春は桜が綺麗な並木通り。夏は太陽をキラキラと反射させる青い海。秋は受験勉強が本格化してきて、あまり遊べなかったけど、気分転換にとアスレチックのある紅葉が豊かな公園へ連れて行ってくれた。
いつも出掛ける時は夕くん任せだったんだけど、どちらかというとインドア派の私は、待ち合わせ場所で行き先を聞いては毎回思いもしなかった場所を提案され「そんなところまで行くの?」と聞き返したものだった。そして、夕くんはその度に「おう!」と笑って私の手を引っ張っていってくれた。夕くんに手を引かれると普段は全然遠出なんてしない私の重たい足も軽くなるような気がした。
夕くんのことをあまり知らずに付き合ったけど、夕くんは付き合う前に私が思い描いていた通りの人だった。常に上を向いており、坂道だって私を引っ張って走って行けるような人。
夕くんと走っていく道はめまぐるしく景色が変わり、たまに目が回りそうになる時もあったけど、常にカラフルで、一緒にいて楽しかった。
そうして、私も夕くんと同じ世界を生きているような気になっていた。
でも違ったのだろう。海外に行くと簡単に言ってのける夕くんはきっと私とは別の世界を生きていた。
今まで私は池に映った月を見て、夕くんは空に浮かぶ月を見て、同じものを見たつもりで綺麗だねって言い合っていたのかもしれない。
テーブルを挟んで私の前に座っている夕くんは前ばかりを見ている瞳で私を真っすぐに映す。その瞳はまばたく度に光を増していくような気がした。
その光にいつも憧れていた。焦がれていた。
でも今やもうその光にたかれば焼かれる気がしてならない。
気が付いたら叫んでいた。
「一緒に行けるわけないじゃん! 私には受験があるんだよ! 大学に行くの! それで普通に就職して普通に生活するの!」
「いや、でもお前とだったら――」
「そのお前っていうのやめてよ」
嘘だった。夕くんのそれは愛情だって知っていた。普段だったら受け入れていた。でも今は知らない誰かを指しているようでとても嫌だった。
「ごめん……」と呟いた夕くんは悲しそうに瞼を落とした。視線も落とし、きっと、テーブルの上に置いていた私の拳を見ているのだろう。そこに、男の子にしては小さな、だけど私にしては大きな手がそっと乗っかる。慈しむように私の手を握ると、夕くんは再び私を見つめた。凍えた指先にあの日の熱が蘇る。
「なぁ、一緒に行けないか? ナマエとだったら楽しい旅になると思うんだよ」
夕くんの言動はいつもロマンと希望で溢れている。だけど今はそのキラキラとした言葉がただの無責任にしか感じられなかった。
「ごめん、一緒には行けない……」
夕くんの手を振りほどいた。夕くんの顔は見られず、そのまま席を立った。
その後どうやって家に帰ってきたのか分からない。下の階から母親に、夕食だと呼ばれる声がして、目を覚まし、いつの間にか眠っていたのかとベッドから体を起こした。何度も強くこすったのだろう、頬がひりひりと痛かった。
後期試験を終え、卒業式の日を迎えた。
私の進路は決まっていた。無事、前期試験に合格していたのだ。県外の大学だったため、卒業後は大学付近で一人暮らしをすることが決まっている。荷造りも始めており、洋服や勉強道具などほとんどの荷物はもう段ボールの中にしまっていた。
「よ、よう」
喫茶店で別れて以来の再会だった。
卒業式も終わり、教室へ帰ろうとしていたところに、卒業証書の筒を持った夕くんがぎこちない笑顔を浮かべて、話しかけてきた。
私の友人は今頃体育館の前で委員会の後輩たちと別れを惜しんでいる。悲しくも高校生活を何にも捧げてこなかった私は一人だった。
だからといって、夕くんと過ごす気にもなれず、すぐに目を逸らし夕くんの横を通り過ぎる。
「待てよ」
腕を握られ、振り返らざるを得なかった。すると珍しく夕くんが置いてきぼりを食らった子どものような顔をして私を見上げていた。
視線の高さがあまり変わらないせいか、夕くんが少し顎を下げると、上目になるのだ。
置いてきぼりを食らうのは私の方だというのに。
私だって夕くんに置いていかれたくない。
でも、もう、夕くんの光は眩しすぎるのだ。
私は夕くんはまっすぐに見下ろして言った。
「待たないよ」
夕くんは唇を噛んだ。
でも、待たないよ。
待ったところで、私たちの世界が重なることはないのだから。
「じゃあね」
別れの言葉を口にすれば、あっさりと腕は解放された。
こうして私の唯一の青春は終わったのだった。
教室に戻ると誰もいなかった。一人、席につき、スマホを取り出すと、写真フォルダを開き、中の写真を消していく。
ゴミ箱マークを押して、そういう機械になったつもりで、夕くんが映っている写真を消していく。
写真は苦手だった。私のスマホには風景や食事ばかり。たまに馬鹿をやっている友人。
夕くんと遊びに行った時も、そんな写真ばかりを撮っていた。山に行けば、登山道を。頂上からの景色を。そして気持ちよさそうに深呼吸をする夕くんを。
肺をめいっぱい膨らませている夕くんにスマホを向け、ピントを合わせる。すると、スマホを奪われたのだった。
「せっかくだから一緒に撮ろうぜ」
ふいにゴミ箱マークを押していた親指が止まる。気が付けば頬にぼろぼろ涙が伝っていた。
夕くんが映っている写真のどれにも私がいる。夕くんに潰れんばかりにほっぺをくっつけられ、くすぐったそうに笑っている。
山の頂上からの写真でも、後ろに青い海が広がっている写真でも、枯葉を髪に引っ掛けている写真でも。制服を着て、一つの肉まんを一緒に食べている写真でもだ。
同じ一枚の絵に収まっている私と夕くんはたしかに同じ世界にいるようだった。同じ場所に立って、同じものを見て、笑っているようだった。
どうして違う世界を生きているなんて思ったのだろうか。
もし、私たちの間に違いがあるのだとすれば、それはきっと歩いていける距離にあるのかもしれない。
きっと私は人よりもちょっとだけ狭くて、夕くんは人よりもずっと広い。
今までは高校という偶然重なっていたところにお互い立っていたから一緒にいられたのだ。そして今回、たまたまそこから離れてしまった。
私がもう一歩夕くんのもとへ歩いて行けたのなら、それとも夕くんが私のもとに留まってくれたのなら、きっとまた私たちの立っている場所は重なり、ずっと一緒にいられる。でもそう簡単に一歩なんて踏み出せない。それは今まで生きてきた人生を180度変えるような私にとっては大きすぎる一歩なのだ。今日明日で簡単に踏み出せるものではない。だからといって夕くんに留まってくれるよう強要することもできない。
でも私たちはちゃんと同じ世界を生きていたんだ。
そういえば、夕くん悲しそうな顔をしていたなぁ。
私の腕を離した時の夕くんの顔がチリっと胸を焦がした。
“今日これから出発する”
そんな短いメールが夕くんから来ていた。玄関で靴を履きながら、スマホで時刻を確認した時のことだった。
今日はこれから友人と遊びに行く約束をしていた。私の出発の日も近づいており、その前に遊ぼうよとのことだった。
何も見なかったことにしてスマホをバッグにしまう。
夕くんなんて一人でどこへでも行けばいい。
もうやけになっていた。やけにならなければ、この失恋を乗り越えられそうになかったのだ。
一瞬、夕くんが真剣な顔をして携帯を見つめている姿がよぎったけど、頭を振って外へ出た。
「あのさ、楽しくないんだけど」
街を歩きながらスマホを鞄にしまった瞬間、隣で友人がそんなことを言いだした。
「え? ごめん、何が?」
「何回スマホ見れば気が済むの?」
「あぁ、ごめんね。今、何時かなぁって思って」
答えながら、今、何時だっただろうか、と思い直す。先ほど画面を見たばかりなのに、全く思い出せなかった。するとまたバッグの中でスマホが存在感を増す。友人からの白けた視線を感じて、辛うじてバッグに手を突っ込むのをやめた。
「ねぇ、これからどこ行くんだっけ?」
友人が立ち止まり、腕を組みながら尋ねてくる。友人より一歩進んでしまった私も立ち止まり友人に振り返る。
休日だからだろうか。商店街の道は親子連れやカップルたちで賑わっており、人の流れは友人の後ろで自然と分かれ、きっと私の後ろでまた合流しているのだろう。
「あぁ、えっと……どこ行くんだったっけ?」
「カフェでしょ! パンケーキ食べに行くって言ってたじゃん!」
「あぁっ、そうだったね。楽しみだね」
本当にそう思ってんの? とでも言いたげに、友人は目を細めた。そしてぷいっと顔を逸らす。
「私は全然楽しみじゃない」
「え? なんで? 受験が終わったら一緒に行こうねってあんなに言ってたじゃん」
「あんなに言ってたのに、ナマエが全然楽しそうじゃないんだもん。だから私も楽しくない」
友人が拗ねたように唇を尖らせるからなんだか申し訳なくなる。彼女と会えるのも今日が最後なのだ。それなのに、どうして彼女と過ごすことに集中していなかったのだろう。
本当は何度もスマホを確認してしまう理由を分かっていた。やっぱり夕くんがちらつくのだ。きっと、夕くんも今頃私と同じように何度も携帯の画面を確認しているに違いない。でも、もう返事を返さないと決めたのだ。心のもやもやに蓋をして友人に笑いかける。
「ごめんね。パンケーキ屋さん行こ」
「行かない」
「えー?」
わがままを言われ駄々っ子を相手にしている母親のような気持ちになる。人ごみの中、立ち止まられているから尚更だ。
友人の後ろで彼女の背中とぶつかりそうになった女性が眉をしかめ私をちらっと見やる。ごめんなさいと小さく頭を下げ、友人へ視線を戻すが、母親のような顔をしていたのは友人の方だった。ちょっと、ドキッとしながらも、え? 何? ととぼけてみる。
「もう行ってきなよ」
「え? パンケーキ屋さんに?」
「何言ってんの」
「いや、そっちこそ」
友人は呆れたようにため息を吐いた。
「ナマエが西谷くんと別れたことは知ってるよ」
心臓が歪に音を立てる。せっかく忘れようとしていたのに、その名前を出さないで欲しい。
「知ってるも何も夕くんと別れたことはこの間私が話したことじゃん」
そうだね、と笑った友人は続ける。でもこんなことも知ってるよ、と。
「西谷くんと別れたのは西谷くんが海外に行くことが原因なんでしょ」
一つの間が空き、辛うじて返した。
「なんでそこまで知ってるの?」
「西谷くんが海外に行くことは有名だもん。それで別れたって聞いたら原因はそれしかないでしょ〜」
通行の妨げになっていながら得意げな顔をしている友人が少し腹立たしくなった。
「それで? 何が言いたいの?」
少し声を荒げたが、彼女は表情を穏やかなまま崩さなかった。
「だからもう行ってきなよ」
「だからどこに?」
聞きながらも、心の中では一度閉じた蓋が何度もがたがた震えており、今にも開こうとしているのを感じた。
もう、せっかく忘れようとしていたのに。
悪戯にその名を出されたせいで、今や走り出したくてうずうずしている。
「言わなくても分かるでしょ」
そう言うと友人は私の腕を引っ張り、私に来た道へ戻らせた。駅の方向だ。そして私の手を離すと両手で背中を痛いくらいに押す。その勢いで、私は三歩ぐらい進んでしまう。振り返れば友人が悪戯っぽく笑っていた。
「ちゃんと埋め合わせしてね。まだ引っ越しまでには日があるんでしょ」
「そうだけど……」
「いいから行きなよ」
追い払うように友人が手を振る。泣きそうになりながら、ごめんね、と言えば、いいよと返され、まためんどくさそうに手を振られた。
私にはまだ夕くんに言わなくちゃいけないことがある。
来た道を戻り駅へ走ったが、走りながらもこれからどこへ行けばいいのか分からなかった。
夕くんも夕くんだ。これから出発するなんて送っておいて、今どこにいるのだろうか。走りながらバッグからスマホを取り出す。分からないなら、本人に直接聞けばいいのだ。そう思ったのも束の間。こんな時に限って手がつるりと滑る。いや、こんな時だからか。焦っていたのだ。
宙に舞うスマホ。
慌てて手を伸ばす。
夕くんだったら野性的な反射神経でしっかりキャッチできたんだろうけど、なんせこっちはただの人。キャッチできずスマホはあえなく落下した。ここからまた奇跡が起こる。走っていたせいで急に止まれず落下したスマホを思いっきり踏んでしまったのだ。拾い上げた時には、画面には幾重もの縦線が入っており、力なく光を落としたところだった。タップしても真っ暗なまま。
「嘘でしょ……」
終わった。膝をつき、呆然とする。こうしている間にも夕くんはもう旅立ってしまうかもしれない。海外に。
そこでふと思いつく。そうだ、夕くんは海外に行くんだ。よっぽどのことがない限り飛行機に乗るだろう。夕くんのことだからよっぽどのことを思い至りカヤックで日本海を横断するなんて言い出しそうだけど。元気にオールを漕ぐ夕くんの姿がありありと思い浮かぶ。慌てて頭を振った。さすがに最初からそんな無茶はしないだろう。
馬鹿な妄想なんてしている場合ではない。この機を逃せば、夕くんに二度と会えないかもしれないのだ。壊れたスマホをバッグにしまい込み、立ち上がる。再び駅へ走り出した。
幸い仙台国際空港へはここから一本で行ける。駅で路線図を確認して切符を買った。そしてまた走った。
仙台国際空港へ来るのは初めてだ。春休みもど真ん中。それも休日。空港に来たはいいが人で溢れ返っていて、つい立ち止まってしまった。口で荒々しく息を繰り返し、春先にも関わらずこめかみを汗が伝っていく。
一人で初めての場所へ踏み入るには勇気がいる。特に人がたくさんいるところは。ここはお前の居場所ではないと、そこを歩く人たちや見慣れぬ建物に言われているような気がするのだ。でも一歩を踏み出さなくては、夕くんには会えない。
夕くんと手を繋いでいた頃はどこへ行こうとも不安はなく、わくわくしていられた。それらの日々を思えば、夕くんとの海外を巡る旅も楽しいものになるのかもしれない。でも、今持っているものを全て投げうってまで海外に旅立つ勇気は残念ながら私にはない。普通に進学して普通に就職して普通に生きていく。それが今まで何にも情熱を注がず平凡に生きてきた私の決断だ。誇れるものではないが、恥じることでもないだろう。
でも行きたいところへは行けるようになりたい。きゅっと拳を握って群衆へ足を踏み入れた。
きっとこうして一歩を踏み出せたのは夕くんのおかげだ。夕くんが今まで私の手を引っ張って色々なところに連れて行ってくれたから。そうして未知の場所もそれほど怖くないということを教えてくれたから。
そんな夕くんに言わなければならないことがある。だから私はまた走る。
とにかく国際線と思い、それを指し示す矢印に従って進んでいく。一階の到着口を抜け、二階の飲食店が連なるフロアも抜け、きょろきょろしながら気が付けばもう出国ゲートまで来ていた。
どうしよう。道すがら夕くんを見つけられなかった。夕くんはもう出発してしまったのだろうか。バッグからスマホを取り出すが蜘蛛の巣のようにヒビが入ったそれは、どこを押してもうんともすんとも言ってくれない。
ゲートへ並んでいる人々の中を探してみるがそこにも夕くんは見当たらない。私が来れるのはここまでだ。ゲートの先へはどんなに勇気があっても、チケットが無ければ進めない。
ゲートのその先へ。背伸びをして、人々の隙間へ目を凝らす。
もう夕くんはその先へ行ってしまったのだろうか。
いつまでも知らせをくれない携帯をポケットにしまい一人で旅立ってしまったのだろうか。
そう思った瞬間だった。ゲートの先で手足をはやした大きな緑色のリュックが歩いているのを見つける。
心音がどんどんと高鳴っていく。
一目でそれが彼だと分かった。
「ゆうくん!」
叫べば、人々の視線が集まった。だけど気にせずただ立ち止まった緑色のリュックだけを見ていた。
緑色のリュックが振り返る。まるでスローモーションのようにゆっくりと振り返る。そして振り返ると、何にも負けないくらいに逆立てた髪の毛に、奇抜に琥珀を主張する前髪。
やっぱり夕くんだった。夕くんは大きな瞳のすべてがあらわになるほど目を見開いて私を見ている。そして、何か呟いたのだろう。彼の唇がわずかに動く。聞こえなかったけど、私の名を零したのだと分かった。
「私行かないからね!」
叫べば、ゲートの先で夕くんはキョトンとした。
「夕くんのもとに絶対行かない! こうして今夕くんのもとに来たのも今日が最後なんだから!」
こんなところに来てまで何を言ってんだか。自分でもそう思ったけど、これはもう意地のようなものだった。夕くんと共に歩む道を捨て、綺麗に舗装された普通の道を進んでいくと決めた意気地なしの意地。
夕くんは歯を食いしばり瞳いっぱいに涙を浮かべた。私もそんな顔をしているのだろう。
公衆の面前で恥ずかしいことこの上ない。だけどたった一つ、ここまで来て伝えたかったことをやっと叫んだ。
「今までありがとう!」
夕くんの時間だけが人の行き交う空港の中で止まる。そして、一瞬の後に夕くんは顔をクシャッとした。
「おう!」
私に負けないくらい大きな声で叫ぶと、夕くんはまた手足の生えたリュックに戻り、手を振るように片手をあげて歩いて行った。私はその大きなリュックが人ごみに紛れ、見えなくなっても、しばらくそこに佇んでいた。
定時を過ぎ、今日の仕事も一段落したので会社を出る。朝も歩いてきた道を寄り道せずに歩き、電車に揺られ、帰りにいつも寄っているスーパーに寄り、また家へ向かってよそ見をすることもなく帰る。よそ見をしたって、その景色は昨日となんら変わらないのだろう。きっと明日も変わらない。
夕くんがいなくなってから私を取り巻く景色は一気に色褪せた。まるで紙が時を隔てて茶色く変色していくように。
少し寂しかったけど、色褪せた景色は目に優しく、これはこれでいいよねと苦笑する私もいた。
毎日同じ時間に起き、同じ道を通って、似たような仕事をし、帰る時間だけは日によるが基本的には終電までには帰り、いつもと同じ時間に布団に入る。
昨日をなぞるような日々。それでも一つの仕事を終わらせた時には充足を感じ、新たな仕事に取り掛かる時には新鮮味を感じる。休日がくれば、何をしようかとワクワクし、結局何もできずガッカリする。普通の世界にも身の丈に合った起伏があるのだ。
一人暮らしのマンションの前につくと、集合ポストのある入口の蛍光灯は切れかかっていた。不気味にチカチカしている。
早く大家さん電気変えてくれないかな。もうこの状態が二、三週間くらい続いている。しかし、そう思えば、切れかけてから意外と長く保っているものだ。
ダイヤルを回してポストの中を覗く。
真っ暗闇のポストの中。ハガキサイズの紙が一枚、眩しいほどの鮮やかな青を放っていた。ポストカードだ。取り出してみると、右下に小さくアルファベットでVeniceと書いてある。
「べ……べないす?」
首を傾げるが、ポストカードに描かれているコバルトブルーの水路に、その水路の両脇に立ち並ぶヨーロッパらしい石づくりの長方形の建物。窓や門はアーチを描いており、あぁ! とひらめく。
「ベネチア!」
私のポストには、こうして二、三ヶ月に一度、色が届けられる。くるりとひっくり返さなくても差出人は分かった。
「へぇ、今、夕くんイタリアにいるんだ」
昔は夕くんから定期的に届けられるそれをちゃんと見ることができなかった。自分で別れを決意したとはいえ、ポストカードを見ると私を置いていった夕くんというものをまざまざと思い知らされ、目を背けるようにポストカードを引き出しの奥に仕舞い込んだものだった。
今もこうして向かい合うと夕くんとの楽しかった記憶がひっかかれまだ痛むが、時の力とは不思議なもので、その痛みも最近は愛おしく思い始めつつある。
彼が見たのだろう景色を今一度つぶさに見ていく。水路に浮かぶ渡し舟や自由に飛ぶカモメ。そしてなんといっても目を細めてしまうほどの眩しいブルー。
ポストカードの空の部分には、殴り書きされた文字が並んでいた。
“元気にしてるか? 今日はこれからカジキ釣りだぜ”
「カジキって何よ」
これをポストに投函したその足でカジキ釣りに走っていく楽しそうな背中がありありと浮かぶ。
ふふっと笑いながら、エレベータに乗り、部屋へ向かう。
扉を開けると、誰もいない暗いワンルーム。電気を点灯し、私は真っ先に壁に下げたボードへ向かう。そこに画鋲でベネチアの情緒を縫い止めた。
一人しか住んでいないのに、私が入っただけで窮屈になる狭い部屋。だからあまり家具は置かないようにしている。そのせいで味気のない部屋になってしまった。でも一際存在感を放っているのが棚ほどの大きさもないこのボード。そこには夕くんが送ってくれた全てのポストカードが縫い止められており、世界の景色が色鮮やかに溢れている。