なんでこんなことになってしまったのだろう。
砂嵐に覆われた、はっきりしない思考の中でぼんやりと思う。こんなつもりじゃなかった。こんなはずじゃなかった。どこで間違えたのだろうか。なにを間違えたのだろうか。
後ろから伸びてきた手は優しく頬を撫でていく。それなのに与えられる物はまるで暴力だ。
「可愛いです、ナマエさん」
耳元で悪魔が囁いた。
彼と出会ったのは喫茶店だった。その日、ナマエは仕事の休憩中にコーヒーを買いに来ていたのだ。カウンター越しに注文したコーヒーを受け取り、振り返って職場に戻ろうとした瞬間だった。彼とぶつかり、熱湯のようなコーヒーがお腹にかかった。
「あつっ……」
慌てて、張り付いたお腹のシャツを引っ張った。
「ご、ごめんなさいっ……! 大丈夫ですか!?」
お腹のシャツを摘みながら顔をあげると、随分と高いところに、病人のように青くなった顔があった。彼は、ナマエの茶色くなったシャツに触れようか触れまいかと手を伸ばしては引っ込めてという無駄な動きをしている。
近くに立たれると、壁のようだ、と思うほどに体格のいいその人は体つきを見るに成人男性なのだろう。しかし、平日の昼間だというのにジャージを着ていた。さらには、いいところのぼんぼんを思わせるようなおかっぱ頭という、成人男性に似つかわしくない愛らしい容姿をしていた。そのせいか、彼に対する印象は子どもを前にして抱くようなものばかりが浮かんだ。けれども、力強く吊り上がった瞳は男性のそれで、狼狽しているにも関わらず、強い意志を感じさせた。
ナマエがこうして冷静に彼を観察できていたのは、お腹にかかったコーヒーがすっかり冷めきり余裕ができていたからだ。ナマエは、屈んでいるにも関わらず自分よりも目線の高い彼を見上げながら首を傾げた。彼の顔に見覚えがあったからだ。初対面だと思ったが、本当はどこかで会ったことがあるのだろうか。いや、ないはずだ。なかなか日常生活では見ない身長と整った顔立ちを持っている彼だ。知り合いであれば、すぐに彼の名を思い出すことができただろう。きっと初対面で間違いないのだ。ということは、と思いいたり、彼の名前を思い出す前に、ラッキーと思ってしまったのはナマエの悪い癖である。大人になってからは、もうそういうことをしていなかったが、一度覚えた悪い遊びというものはなかなか忘れられないものだ。
「ち、治療費は俺がっ! 慰謝料もっ! 服も弁償しますっ!」
釣り糸を垂らす前に相手から食いついてきてくれた。きっと今日はツイているのだ。お腹にコーヒーをぶちまけた日であるのに、そう思ってしまう。
軍人のように直立して声を張り上げた彼に向かってナマエは口角をあげた。
「大丈夫ですよ」
「でもっ……!」
「じゃあ、クリーニング代は請求してもいいですか?」
「勿論ですっ!」
「じゃあ連絡先、教えてください」
片手に持っていたスマートフォンを相手に向ける。慌てた様子でジャージのポケットからスマートフォンを出した彼と連絡先を交換して、ますますナマエの胸は高鳴った。
五色工。
スマートフォンに表示された名前はちゃんと聞き及んでいた。やっぱり、有名人だ。先日見たスポーツ中継でアナウンサーが彼の名前を何度も連呼していた。お金になってくれるといいんだけど。
「ではまた連絡しますね」
「はい! 本当にすみませんでした!」
茶色くなったお腹に向かって直角にお辞儀をする頭を見下ろすと、愛おしさに溢れてしまった。取らぬ狸の皮算用とはいうが彼は狸ではなく子犬だ。ごめんね、と心の中で発した声は、コーヒーの中で形を崩す角砂糖のように甘く胸に溶けていった。もしかしたら、ナマエはサディストの素質があるのかもしれない。
悪い遊びを覚えたのは大学生のときだった。友人が急に誘ってきた合コンでのことだった。どうやら当日になって一人来れなくなったらしく、代理でナマエが呼ばれたのだ。
合コンに参加する、友人以外の女性陣三人は初めて顔を合わす子たちだった。年は近いらしいが、大学生なのか社会人なのか、よくわからなかった。なぜなら、彼女らが交わしている会話の内容は普段、ナマエが大学の友人たちと話すような内容と同じなのだが、子綺麗にしている彼女らが身に着けている服やバッグが大学生の持つような代物ではなかったからだ。相当に羽振りのいい暮らしをしているのだろう。そして、よろしくね、ナマエちゃん、と笑ってくれた彼女たちの笑顔はとても美しく、憧れを抱いてしまうほどだった。
合コンで対面の席に並んだ顔は、初対面であったが見たことのある顔だった。テレビをあまり見る方ではなかったが、それでも、知っている程の知名度を持つ芸人たちだったのだ。愉快な言葉でたくさん笑わせてもらえる席は楽しかった。しかし、女性陣皆で言った化粧室では、自分以外の皆は、疲れた顔をしていた。
「全然、お金になる話聞けないね」
「合コンだからね。仲良くなっていくと、チャンスは出てくるよ」
「コツコツとだよねー。でも今、なにか話してくれてたりして」
彼女らの会話の意味が全くわからずに首を傾げていると、合コンに誘ってくれた友人が人差し指を口に当てて、悪戯っ子の笑みを浮かべながら言った。
「席に置いてきた鞄にね。ICレコーダー入れてあるの」
「え、なんでそんなもの?」
「知り合いに持っていくと、お金もらえるんだ」
「お金!?」
そんな世界があるのか、と仰天した。会話の内容によってお金はもらえたり、もらえなかったりとするらしい。もらえる金額も都度違うのだとか。もらえるときは大学生のアルバイト代にしては充分すぎるほどの金額をもらえるらしい。相手のお金で食事ができて、話した内容によっては追加報酬も得られる。今日の合コンはそういうアルバイトだったのだ。
「ナマエちゃんもセックスしたら、写真撮っておくといいよ。後で化けるかもしれないし。あの子は一回凄いの当ててるんだよ」
セックスなんて言葉を軽く口にした友人は奥でメイクを直していた子を指さす。なんでも飛ぶ鳥を落とす勢いで伸びていた俳優を落としたのだとか。そういえば、二、三年前に、その俳優のスキャンダルが出たなぁ、とぼんやり思い出していると、友人はニッと笑って言った。
「もし、この合コンでお金が入ったら皆で山分けだからね」
ナマエと彼女らの間で固い同盟が結ばれた瞬間だった。
結局その合コンでは、報酬を得ることはできなかったが、その後同じ友人に呼ばれたお酒の席で臨時収入を得られた。その席では知らぬ顔が並んでいたが、ベンチャー企業の社長がいたらしく、彼から彼の会社に関する良い話が聞けたのだとか。芸能関係のスキャンダルだけがお金になるわけではないらしい。
友人たちとの悪い付き合いは続いた。お金が欲しい、ということもあったが、ゲームをするときのハラハラとした興奮をリアルに味わうことができる感覚が好きだった。会話を重ねて相手の信頼を得る。自分を気に入ってもらえれば、個人的に会い、情報を引き出す。更に気に入ってもらえれば、体を重ね、大金に化けるかもしれない絵を得る。洋画に登場する華麗な女スパイになった気分だった。
ナマエの重ねた行為の全てがお金になった訳ではなかった。むしろ、リスクの割に得られる報酬としては少ない方で、費やした時間を普通のアルバイトに当てていたらお金はもっと貯まっていただろう。それでも、過去の小さな成功体験が脳内に放出する物質には逆らえず、大学生の間は悪い遊びに没頭していた。
大人になってからは仕事も忙しく、アルバイトのツテであった友人とも疎遠となり、悪い遊びからはキッパリと足を洗っていた。
しかし、目の前に、獲物が現れたのだ。狩猟の興奮が一気に蘇ってしまったのである。
五色と別れた後、喫茶店から職場の帰りに、スーツ屋に寄った。そこで新しいシャツを購入し、汚れたシャツは処分してもらった。グレーのタイトスカートにもコーヒーの染みができていたので、職場に戻ってからトイレでハンドソープを使って染み抜きをすると、染みは綺麗に落ちた。職場に戻ったが、シャツが喫茶店に行く前と後で変わったことに職場の誰も気づくことはなかった。いつも通り定時まで仕事に慢心し、帰宅した。
夜、大きなクッションに沈みながら五色工の名をインターネットで調べた。彼は、近頃、知名度を上げている選手らしく、彼を扱う記事は、最近の日付のものが多い。検索して表示された記事を上から順に読んでいく。記事では、彼の高校時代の苦い経験から日本代表選手としての華々しい活躍まで載っていた。彼に対して抱いたイメージは愚直。掲載されている写真も真っ直ぐに前を見据えているものばかり。たまに見かけるクシャっとした笑みを浮かべる写真は少年のようだ、と思った。世間の印象もナマエと同じらしく、イケメンスポーツ選手ランキングのページに載っていた彼に対するコメントは、無邪気な笑顔が可愛い、とか、弟にしたい、とかいった物が目立つ。女性関係のイメージは皆無。特に今までスキャンダルが出たということもなさそうだ。喫茶店で会ったときに見た、彼の慌てふためいた様子を思い出しても、彼は純粋無垢な少年がそのまま大人になった、というような人物なのだろう。面白そう。こういうタイプを相手にするのは初めてだった。食べちゃいたい。ついでに写真でも撮れればいいかな、と思わず舌舐めずりをしてしまった。世間とのイメージとかけ離れた写真であれば一円以上の価値は付くだろう。次の記事を読もうと親指でリンクをタップしたとき、スマートフォンが振動してびくりと震えてしまう。画面の上に表示された通知には五色工の文字。その下には今日は本当にすみませんでした、というメッセージが見えた。びっくりした心臓を沈めながら、通知をタップすると、メッセージの続きには、大丈夫でしたか? と続いていた。なんて、チョロい。餌を撒く前に相手から来てくれた。もし、ナマエから、大丈夫ではなかった、と言われたら五色はどうするつもりなのだろうか。そういうやり方はしないけどね、と親指二本を使って素早くメッセージを打ち込んでいった。
“大丈夫でしたよ。シャツとスカートをクリーニングに出したら、染みは全部綺麗に落ちると言われました”
メッセージを送信すると、返信はすぐに返ってきた。
“よかったです。でもコーヒーがかかったお腹の方は大丈夫でしたか? そっちの方が心配です”
可愛い。たしかに弟にしたいタイプだ、と思いながら文字を打っていく。
“赤くなった程度なので大丈夫です”
もちろん嘘だ。ナマエのお腹は真っ白である。
“跡が残らないか心配です”
“大丈夫ですよ”
“なにかあればなんでも言ってください! 俺にできることであればなんでもします。もちろん今日のクリーニング代は俺に持たせてください”
やっぱりチョロい。いや、これは失礼だ。彼は白いのだ。ゲームとしての面白みは欠けるが、白を弄ぶのは楽しい。
お言葉に甘えてなんでもしてもらおう、とメッセージを作っていく。
“クリーニング代は大した金額ではなかったので、大丈夫ですよ。代わりにご飯でも奢ってください”
メッセージと一緒にキャラクターがハートマークを飛ばして嬉しそうにしているスタンプも一緒に送っておいた。いやらしくないものを選んだつもりだ。
“クリーニング代はちゃんと払います! 俺なんかでよければ是非食事にも!”
君がいいんだよ。そう思いながら、食事に行く日程を調整した。
平日に働くOL だったナマエは、食事をした次の日のことを考えると、食事の日は金曜日か土曜日が良かった。食事をしたあとはセックスまで持ち込まなければならないのだ。次の日はゆっくり休みたかった。
二週間後であれば、五色は金曜日の夜、空いているとのこと。少し日が空いてしまうが、仕方がない。その間、五色と毎日のようにメッセージを重ねた。おかげで、五色の趣味や好きな食べ物だけでなく、寝る時間、起きる時間まで把握できるほどまで親しくなった。
そうして迎えた約束の金曜日。五色に連れていかれた場所はカジュアルレストラン。照明の明るい席で向かい合って食事をした。五色と直接話すのは、喫茶店以来だ。メッセージを交わしているときの五色は、明るくハキハキと話すイメージだった。顔を合わせたときもそのイメージは変わらなかったのだが、五色は褒められるとすぐに顔を赤くし、目に見えて焦るのだ。それでも、素敵ですよ、と一言添えれば、ありがとうございます、と小首を傾げて笑うのだった。そんなわかりやすい五色を手のひらで転がすのは容易かった。食事を終えて、レストランを出た後、もっと一緒にいたいです、と上目遣いでお願いすれば、赤面した五色は、では、そこのバーに行きましょう、とガチガチになった手で青く光る甲板を指差した。バーのカウンターで並んで座り、お酒を飲み交わしながら、五色のプライベートやチームメートのこと、友人関係の話を掘り下げていく。質問をすれば、五色は誇らしげになんでも教えてくれた。人の良さそうな五色の話す内容に、お金になる情報を期待していたわけではなかったので、会話をしている間は五色に気持ちよくなってもらうことだけに努めた。しかし、五色の話す姿が母親に今日会ったことを報告する子どものようだったので、この人セックスなんてするのかな、と少し不安になってしまった。
最初に頼んだオレンジのカクテルがあと一口となった頃、五色は心配そうな顔で尋ねてきた。
「そろそろ終電、大丈夫ですか?」
ナマエは隣に座る五色の肩にもたれかかった。五色の体がビクッと震えるのを感じる。いけるだろうか。まだ、早いだろうか。いや、いける。
ナマエには十分な手応えがあった。
「帰りたくないです」
ぽつりとこぼして、見上げれば、切なげに細められた瞳と目があった。ナマエの頬は大きな手にそっと包まれる。
「悪い人ですね。いいですよ」
五色は照れると思っていたのだが、落ち着いた低い声でそう言われてしまい、ドキッとしてしまった。