番外編


 時を数年ほど遡る。場所は白鳥沢学園。
 ロードワークに向かおうと体育館を出た五色は振り返る。先程、すれ違った女子生徒は初めて見る女子だった。後ろ姿となってしまった彼女は、桜の花びらが混じる風に髪を靡かせながら隣を歩く女子生徒に羽のように柔らかな笑顔を向けている。
 五色はどうして自分が彼女を追いかけ振り返ってしまったのか自分でも分からなかった。すれ違う直前に曇りない瞳と目が合ってしまったからだろうか。それとも、すぐに目を伏せられた代わりに頷くように会釈をしてもらえたからだろうか。もしくは、すれ違う瞬間に手の甲と甲がぶつかってしまったからだろうか。
 一瞬だけ彼女とぶつかったところがまだ、熱を持っている。
 きっと。何色にも染まっていないあの人は白いキャンバスだった。
 これから絵の具を垂らしていくのだろう。どんな絵が描かれるのだろうか。
 暫く時が止まったかのように離れていく背中をぼんやりと眺めていた五色だったが、何見てんのー? と先輩に声をかけられ我に帰った。
「別に何も見てませんよ」
「ふーん、工はあーいう子が好きなんだ」
「だから何も見てませんって!」
 まるで噛み合わない会話をする先輩とは知り合って間もないにも関わらず心の中を見透かされてしまう。これ以上、彼と一緒にいたら、要らぬことまで詮索されそうなので早くロードワークに出ようと思った瞬間だった。始まりの季節らしく肌寒さを感じさせる強い風が吹き抜け、耳を風の音が覆う。それでも、天童の声は耳の先にある脳までしっかりと響いた。
「あの子はダメだよ。うちの部員のカノジョらしーから」
 そうか。追いかけてはいけない人だったのか。
 目の前を通り過ぎていった無数の花びらを追って見上げた先は、目を細めてしまうほど青かった。

 彼女が誰のカノジョなのかは、すぐには分からなかった。五色が初めて彼女を見た日。制服を着た彼女は体育館へと向かっていたから、てっきりバレー部の練習を見にくるものだと思っていたのだが、その日、彼女は体育館に現れなかったのだ。彼女の視線の先を探ることができない日々が一ヶ月以上続くと、もしかしたら、自分は天童に揶揄われただけなのかもしれない、とすら思うようになった。彼女は本当は誰のカノジョでもないのだという希望的観測に縋りたかったのだ。
 しかし、その夢はゴールデンウィークの合宿中に粉々に崩れ去った。
 入部してからずっと現レギュラーメンバーの練習に参加していた五色は、自分のライバルはレギュラー陣の中だけに存在すると思っていたのだが、どうやらそうではないらしいことが、部内での紅白戦で明らかになった。普段は別の体育館で練習をしている補欠部員含め全てのバレー部員で行われる紅白戦。二階で声援を送るギャラリーの中に彼女の姿があったのだ。彼女の視線の先には五色と同じポジションの三年生。五色がいつも練習している体育館の隣にある体育館で鍛錬を積む選手だ。五色は補欠部員である彼の名前は知っていたが、彼のプレースタイルも知らなければ、得意なプレーも知らなかった。五色の対戦相手のチームに割り当てられた彼であったが、彼のバレーをする姿をネット越しで見ても、何一つ目立つプレーは見当たらなかった。本当に三年間白鳥沢でバレーやってきたの? なんて失礼なことを思うとすぐに、あいつはあの人の彼氏に相応しくない、という結論に至った。
 五色の方が優れている点は沢山あるのだ。五色の方が長身だし、カッコいいし、バレーは格段に上手い。きっとこの紅白戦で来たるインハイのベンチ入りメンバーが決まるのであろう。今日の出来を見るに彼は最後のインハイでもベンチ入りは不可能に思われる。それに引き換え五色は時期エースとまで言われる期待の新人だ。ベンチ入りは間違いない。五色が彼に劣る要素は何一つなかった。
 それにも関わらず、紅白戦では、五色が決めても彼女の視線を得ることはできず、さほど上手くも強くもない彼ばかりが彼女を独り占めしていた。たまたま点を取れただけで、彼女に向かって手をあげている彼の姿を見ると、たまらなく腹立たしくなったので、無理をしてスパイクを後衛に下がった彼に向かって打ってやったのだが、結局ブロックに捕まり、今何でそこを狙った、と監督にドヤされた。世の中理不尽なことばかり。しかし、そんなことでため息をつかないのが、五色工だ。

 ゴールデンウィークが終わると、五色は見事インハイのベンチ入りメンバーに選ばれた。当然の結果だ。そして、彼女の彼氏はベンチ入りならず。これも当然の結果だろう。
 下手くそではないが白鳥沢では上手くもなく強くもない彼は補欠が決まったこの日で部活を引退するだろう、と思っていた。しかし、五色の予想を裏切って彼はプレイヤーとして練習に参加しているらしい。春高を目指すのだとか。彼は彼なりにバレーと懸命に向き合っていたのだろう。彼に対して失礼なことを考えてしまった紅白戦での自分を恥じた。
 そんな五色は梅雨に入るまで。彼はそうそうに練習をサボるようになったらしい。ダサいやつ。五色は心の中で呟いた。

 梅雨入りして暫く雨の日が続いたが、その日は久しぶりに雲の割れ目から眩しい光が差し込んでいた。ロードワークに向かおうと体育館を出た五色は振り返る。たった今すれ違った彼女は、じっとりとした空気は重たいのに、軽やかに髪を靡かせていた。
「今日も練習来てませんよ!」
 淡いブルーのシャツを着た背中に向かって声を張り上げると、足を止めた彼女は不思議そうな様子で振り返った。
「あなたの彼氏、今日も練習来てませんよ」
 彼女は誰もいない周りをキョロキョロと見渡した後、私のこと? と尋ねるかのように自分自身を指さした。五色は何度も頷く。
「そっか、ありがとう」
 悲しげに笑う彼女は、彼のカノジョだというのに、彼が練習に参加していないということを知らないのだろうか。知らずに、何度、彼を求めて体育館へ来たのだろう。何度、そんな寂しそうな顔をしたのだろう。五色だったら大切な人にそんな顔をさせたりはしないのに。
 彼女は彼といて幸せなのだろうか。
 体育館に背中を向けた彼女は足を進め、再び五色とすれ違う。校舎へと戻るのだろう。五色は、触れるか触れないかの距離で横を通り過ぎていった腕を掴んだ。
「え、何?」
「俺を見に来てください!」
「えっと……」
 笑顔に困惑の色を滲ませる彼女に慌てて掴んでいた華奢な腕を離した。
「いきなりすみません! 俺は五色工です! 時期エースです!」
 直立不動で叫ぶと、ぷっと吹き出された。
「五色くんはすごいんだね」
 彼女が俺の名前を呼んでくれた!
「じゃあ、俺がバレーをしているところを見に来てください!」
 彼女は考えるように首を傾げた後、いいよ、と笑った。きっと、もうすぐ見られる朝にだけ咲くあの青い花を思わせるような。優しくて、幼気で、無垢な笑顔。この笑顔が隣にあればなんだってできるような気がした。
 彼女の名前はミョウジナマエさんというそうだ。

 ナマエが五色を見に来てくれたのは、その日一日だけだった。もしかしたら、彼女は練習をサボっている彼を求めて、体育館へ来ていたのかもしれない。五色と彼が練習する体育館は別だったため確認はできなかった。
 両手でバレーボールを持った五色は二階を見上げたが勿論ナマエの姿はない。
 ナマエさんは今、ちゃんと笑えているだろうか。
 五色に向けてくれた彼女の二つの笑顔が頭を過ぎる。あなたの彼氏、今日も練習来てませんよ、と教えてあげた時に見せてくれた笑顔と、俺がバレーをしているところを見に来てください、とお願いした時に見せてくれた笑顔。
 開けっ放しにされている体育館の扉へと視線をやると、川のように水が流れる地面を激しく叩きつける雨が緑のネット越しに見えた。ナマエの視線を奪ったあの日から、外はずっと雨なのだ。たまには外に走りに行きたいなぁ。ナマエさんとすれ違うことができるかもしれないし。

 梅雨明け宣言がなされるのも間も無くのことだろう。どんよりとした雲は健在だったが、泣くことはやめたようだった。
 久しぶりにロードワークに出ようと五色は体育館を出る。ナマエとすれ違うだろうか。梅雨入り前と同じタイミングで体育館を出た筈なのに、ナマエとすれ違うことはなかった。もう、彼女は体育館に来ていないのだろうか。
 牛島の背中を追いかけてロードワークから戻ってきた五色は校舎の横を抜けて体育館へと向かっていた。
「待って!」
 悲痛な叫び声が聞こえてしまい、足が止まる。声が聞こえてきたのは、目の前にある校舎の角を曲がった先。
 五色が呼び止められたわけでもないのにどうして、五色は足を止めてしまったのか。それは聞こえてきた声がナマエのものだったからだ。
 今度はドスのきいた声で、なんだよ、と聞こえてくる。きっとナマエの彼氏のものだろう。
 盗み聞きしては悪いだろう、と思ったが校舎で体を隠して、角の先を覗く。やはり、声の主はナマエとその彼氏のもので合っていた。向かい合っている二人の横顔が見えた。なんの話をしてんだ、と思いじっと目を凝らすと、どきりと心臓が跳ねて校舎の影へと頭を引っ込めた。
「他の人を好きでもいいよ。私のことも好きでいてくれるなら」
 震えているのに明るい声が聞こえてくる。五色はシャツの胸のあたりをきつく握りしめた。激しく胸を打つ心臓の音が握った拳を通してダイレクトに伝わってくる。頭を引っ込める前に見た、涙を沢山目に溜めたナマエの笑顔が頭に焼き付いて、離れなかった。
「だから、別れないでよ」
「そういうの重いんだよ」
 頼りないナマエの声を無下に扱うあの男を今すぐ殴ってやろうか。それとも俺が守ってやる、とナマエを抱きしめてやろうか。
 その両方ともできなかった五色は、手のひらに爪を食い込ませ、歯を食いしばりながらその場から逃げた。走っていると、勝手にこぼれていく涙は目尻から玉となって後ろの方へ伝っていき離れていった。

 どうして、あの時、逃げてしまったのだろうか。これからは堂々とナマエにアピールをすればいい。きっと彼らは別れたのだろうから。
 次の日。鼻息荒く決意を固めた五色は移動教室へ向かっていた時、偶然廊下でナマエとすれ違った。ナマエの目は赤く腫れていた。それでも隣を歩く女子生徒に向かって笑いかけていた。彼女の白かった筈のキャンバスには、ドブのような汚い色をした絵の具がキャンバスの中央でベッタリと斜めの線を引いていた。
 五色は一緒に歩いていた友人に先に行くよう促し、小さな背中に向かって叫ぶ。
「ナマエさん! 俺を見に来てください!」
 足を止め、不思議そうな顔で振り返ったナマエは五色を真っ直ぐに見た。
「いいよ」
 影を宿す美しい笑顔に五色はドキッとしてしまう。一人の女性が女子からオンナに変わる瞬間を垣間見たような気がした。

 五色が声をかけた日から毎日ナマエは五色の練習をする姿を見に来てくれた。五色も部活が終われば毎日のようにナマエを家へと送ってやった。二人で歩いた帰り道ではどんな話をしてもナマエは笑ってくれた。今練習しているプレーの話でも、授業中寝てしまった話でも、寮で先輩に揶揄われた話でも。だけど、初めて言葉を交わした時のような、花が綻ぶような笑顔は二度と見ることができなかった。
 それでも、自分は孤独なナマエを守れている、と思っていた。まるで階段をころげおちるように、どんどんと彼女のキャンバスに絵の具が重ねられていってても。
 ナマエが重ねた色には汚い色も有れば綺麗な色もあった。色を重ねるたびにナマエの肌艶は増し、血色は良くなっていくように思えた。まるで札束を投げるように美しさをばら撒くナマエ。
 二学期が始まる頃になれば、ナマエの悪い噂は学年の違う五色の耳にまで入ってきた。

 もっと早く出会えていたなら、そのキャンバスに綺麗な花を咲かせてあげられたのに。
 今からでもきっと遅くない。綺麗な色で出鱈目に落とされた色を全て塗り替えてあげる。
 五色にならそれができると思っていた。

 ナマエの家に向かって、幾度となく、二人で通った夜の公園。足を止めた五色は離れて行きそうになる手を取る。五色と同じように足を止めて振り返ったナマエは妖艶な笑みを浮かべて見上げてきた。いつの間に彼女はこんな笑みを作るようになったのだろうか。ざわつく胸を唇を噛むことで押さえて、頼りない両手を五色の大きな両手で包み込んでやった。
「ナマエさんが俺だけを見てくれるなら、俺はナマエさんのものになりますよ」
 見開かれた瞳を街灯が照らす。
 俺を求めて。欲して。必ずあなたを守ってみせますから。
「なにふざけてるの? 冗談でしょ」
 軽くそう言って笑うこの人にとって、五色はきっと。無色透明でしか無かったのだ。

 苦い思い出に蓋をしてしまえば、前を向けた。やるべきことは沢山あったし、世界に女性はナマエ一人ではないのだ。バレー、勉学、ナマエではない恋人。全てが上手くいっていたわけではないが全てに集中することができた。
 ナマエとの恋に酔っていた季節は終わったのだった。


* * *


 運命――それはとっても素敵な響きがする。

 酷い雨が降る日のこと。雨に打ち付けられる傘の布が、折れてしまうのではないかというほど放射状に伸びた骨を軋ませていた。傘を片手で持っていた五色は目の前の光景に足を止めてしまう。
 ナマエを見かけるのは何年振りだろうか。
 濡れた髪を顔に張り付かせたナマエは、長いスカートを地べたに張り付かせ、まるで空に向かって祈るように顔をあげていた。びしょびしょになった服は体にピタリとくっつき、胸や腰の丸みを露わにしている。五分丈の袖から覗く白い肌は地に向かってダラリと降ろされていた。
 あなたは、大人になっても相変わらずそうやって自分を傷つけるような生き方をしているんですね。
 灰被り姫のようにみずほらしい格好をしたナマエに、五色はいつかやった時のようにシャツの胸のあたりを鷲掴みにした。あの時――ナマエが一番救いを求めていたのであろうあの時はナマエから逃げた。きっとそれが正解だったのだ。
 今。甘い毒を吐くナマエに声をかけてしまえばもう二度と戻って来れなくなる。そう分かっていたのに、大人になってしまうと、危機管理能力が鈍ってしまうらしい。五色は持っていた傘をナマエに預けてしまった。見上げてきた黒い瞳はまるで夜の海のようで。人を惑わせる。赤い唇が、五色の名を紡いだ瞬間、五色はきっと、また恋に堕ちた。

 五色の知らない間に、色を重ねて、重ねて。五色が再び見た頃には真っ黒になってしまっていたあなたのキャンバス。
 破り捨ててあげたいなぁ。

「もう、俺だけを見てなんて言いません」
 なんて言ったけど、腹の奥底では思っている。

 あなたを愛す人はやっぱり、俺一人だけでいいんです。