
宮侑の場合 其の三
※捏造ばっかり※
ナマエは知っている。
「ナマエちゃん! 起きて! はよ、起きて! 遅刻や! 今日も俺ら遅刻やで!」
「えっ! 嘘っ!!」
遅刻と言う単語に反応し、どきりとなった心臓に一旦は慌ててみたものの、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。まだナマエの目覚ましは鳴っていないのだ。
頭を抱える侑は遅刻ではない。ナマエは知っている。
とはいえ、のんびりはしていられないので、布団を飛び出た。
「うわぁぁっ! あかん! あかん! また叱られる!」
どんなに急いでいても口は動くらしい侑がスウェットを脱ぎ捨てているのを横目にナマエは早足でキッチンへと向かう。
朝食を作るのだ。
冷蔵庫から鯖と卵を二つ取り出して、火にかけたフライパンに鯖を乗せる。魚の焼ける匂いに包まれながら、卵二つをボールに割って、調味料を加えてかき混ぜ、卵焼き器で、作った卵液を丸めていたところで洗面所から声が響いた。
「ナマエちゃーん、ワックスないよー!」
「新しいの買って洗面台の下に入れといたよー」
「だからそこにないねーん!」
そんなはずはない。
卵焼きを優先するか、侑を優先するか。一瞬迷ったが、コンロの火を止め、洗面所へと向かった。
ナマエが洗面所に向かうと、洗面所のありとあらゆる棚や引き出しが開けっぱなしの状態でおかれていた。洗面台の上の棚に顔を突っ込んでいた侑が弱々しく、ナマエちゃーん、ないよー、と言って縋るようにナマエを見る。
ナマエが洗面台の下の棚を覗くと、一番手前には圧倒的な存在感を放つ黄色のワックスが鎮座していた。侑が普段使っているワックスだ。思わず笑ってしまったナマエは意図も簡単に見つけたワックスを侑に手渡す。
「はい」
「ごめんなぁ……ナマエちゃん……俺の目、飾りやから……」
「いいよ、それより急がないと!」
遅刻では無いが、グズグスしていると、本当に遅刻になってしまう。侑の丸める背中をポンと叩けば、侑は、そうやった! と言って背筋をシャキンと伸ばした。
侑が支度を終える頃には、ダイニングテーブルには、湯気の立つ朝食が並んだ。簡単に作れるものばかりだけど。
白米。お漬物。焼き魚。卵焼き。味噌汁。昨日の晩ごはんで残ったほうれん草のお浸しには鰹節を乗せて、端っこにはスマイルカットにしたオレンジ。
胃をくすぐる香りが部屋の中を充満する。
「うわー、ええ匂いやぁー」
洗面所から出てくるなり顔を明るくした侑であったが、すぐにシュンと首を垂れた。
「ナマエちゃん、朝飯つくってくれたんは嬉しいんやけど……」
侑は遅刻だと思っているのだ。食べられないと思っている朝食から目を背け、ごめんなぁ、と悔しそうに歯を食いしばる。
「もう、三十分遅刻してるんだし、一時間遅刻しても変わらないよ」
そんなわけはない。本当に遅刻をしているならば、即刻家を出るべきだろう。しかし、侑は遅刻ではないのだ。十分朝食をとる時間はあるので、ナマエは無理のある理屈だったが、朝食をとるよう提案をしてみたのだった。
そんな人でなしな提案を、それもそうやな、とほっこりとした笑顔で受け入れてしまうのが、侑である。
朝食を頬張った侑が歯磨きをしている間、ナマエが食器を洗っていると、歯磨きを終えたのであろう侑が慌てた様子でナマエに駆け寄ってきた。
「ナマエちゃん! ちゅー! ちゅーして!」
唯一の朝のルーティーン。
手を洗剤であわあわにしていたナマエはまだ歯磨きをしていない。少し抵抗があったが、手を洗い、侑に向き直ると、中学生のような、唇を押し付けるだけのキスをされた。それだけで侑は満足したのか。ニッと口角をあげて、荷物を持って玄関へと走った。
侑を追いかけて玄関に向かうと、ボストンバッグを肩にかけた侑は扉に手をかけながら、ほな、いってくるわぁ、と言って片手を振る。ナマエが、いってらっしゃい、と手を振り返せば、また侑に唇を押し付けられた。ナマエが驚いている間に、悪戯っ子の笑みを浮かべた侑は、ナマエちゃんもはよ行かんと! と捨て台詞を残し、今度こそ部屋を出て行く。
バタンと大きな音を立てて扉が閉まると共にナマエはふぅっと息をついた。今日も遅刻は免れたようだ。
ナマエは静かになったキッチンへと戻り、洗い物の続きに取り掛かる。これが終われば支度をしてナマエも仕事に向かわなければならない。
「なんで、侑くんは遅刻じゃないって気づかないんだろ……」
水の流れる音だけがする一人っきりの部屋でこぼされた疑問。
スタッフもチームメートも皆が集まる時間と同時刻に来た侑に演技をしているのだろうか。なかなか手の込んだ話だ。
宮家の朝はいつも、遅刻や! と大騒ぎする侑の声で始まるのだが、本来のタイムリミットはその数分後にあり、その時刻になるとナマエの目覚ましが鳴るようになっている。
では、どうしてナマエの目覚ましで一日が始まらないのか。
侑が独身の頃、毎回遅刻してくる侑に頭を悩ましたチームは、侑にだけ、集合時間を一時間早く知らせるようにしたらしいのだ。その作戦が見事にハマり、いつも知らせた時間より一時間遅れてくる侑は毎回遅刻しているつもりであるが、実際は皆が集合する時間にきっかりと間に合っているらしい。すっかり侑の遅刻問題を解決したチームはずっと、侑にだけ一時間前の時刻を知らせる作戦を継続している。そして、侑が結婚してからは、ナマエにだけ、侑の正しい集合時間をひっそりとメールで教えてくれているのだ。
そういうわけで、侑が起きなければならないと思っている時刻の一時間後、つまりはナマエの目覚ましがなる少し前くらいに、毎朝、やってもうたと言って目を覚ます侑の声が宮家の始まりになるのである。
ナマエも一緒に暮らし始めてすぐの頃は、本来起きる時間の前から三十分にも渡って何度も鳴る侑のスヌーズには悩まされたが、慣れてしまえば、気にせず眠っていられるようになった。
侑は遅刻ではないのである。
侑以外は皆、知っている。