夕飯時のおにぎり宮。カウンター席では侑の丸まった背中から深いため息がこぼされた。
 本日何度目だろうか。誰も数えていないだろうが、この男にこぼされたため息の数は片手で数えられる数をゆうに超えているだろう。店内でこんなにも何度も何度も陰鬱な息を吐かれると商売上がったりだ。
 テーブル席に座る他の客とカウンター越しに目があった治は、すいませんね、と笑いかける。客は常連であるためか、迷惑というよりは落ち込んでます感丸出しの侑を心配して目配せしてきたようで、朗らかな笑みを返してくれた。
 治はカウンター席で背中を丸めている侑に目を落とす。自分と同じ顔が真っ赤な顔して、グスグス、グスグス、鼻を鳴らしていた。
「お前がおったらうちの店が辛気臭くなるんやけど」
「うっさいわ。しゃーないやろ」
 そう言いながら侑が片手で持った徳利を傾けると、お猪口にぽちゃんと雫が落ちた。
「サムー、のうなったでー」
「うちは飲み屋とちゃうねんけど……」
 そうは言いつつも、侑が振る徳利を回収し、後ろの棚から新たな徳利を出す。日本酒を注いで、湯を溜めた鍋に入れ、タイマーをセットした。侑相手であるから、一瞬は電子レンジで温めたらいいか、と思ったのだが、片割れとはいえ腐っても客だ。めんどくさいという感情よりも、美味いもんを最高に美味い状態で出したいという、店主としてのプライドが勝ってしまったのだ。
「俺のなにがあかんかったんやー」
 侑が嘆いた。この発言も何度目であろうか。治までため息がこぼれてしまう。
「全部やろ」
「はぁ? お前はあの子のなにを知っとるんや」
「あの子のことはよー知らんけど、お前をうざがっとったんだけは知っとるわ」
「うざがってへんわ! やっぱ、なんも知らんやん!」
 治の後ろでタイマーがなったので、鍋の中から徳利を出す。熱々の徳利にも関わらず気にせず徳利を掴むことができるようになったのはきっと、普段から熱い米を握っているからだろう。濡れた徳利を布巾で拭いて、ちゃんと金払えよ、と言いながら侑の前に置いてやった。徳利を掴んだ侑はあちっ、と声を上げて一度手を離し、カウンターに顔を突っ伏した。徳利が冷えるまで待つつもりなのだろう。
「でもまた好きになってくれるかもしらん……」
「無理やろ」
「無理かどうかはわからんやろ!」
 両手に拳を作ってカウンターを叩いた侑は顔をあげた。怪訝そうに細められた目は血走っている。
 なぜ、こうも片割れは前向きなのだろうか。
「そもそも付き合うてもろたんもお前がしつこく迫っとったからやろ。お試し期間をやってもろただけでも良かったやん」
「お試し期間とちゃうわ! 全身全霊で愛し合っとったわ!」
「そーか、そーか、そら良かったなぁ」
「良かったけど……こんな辛い思いするんやったら愛すんやなかったわ……」
 まるで自分に酔っているかのような臭い台詞を吐いた侑は再び顔を伏せる。大きな瞳からは涙がこぼれ落ち、鼻を通ってカウンターへと落ちた。
 汚いなぁ、片付けすんの嫌やなぁ、と治は心の中で毒づく。
「俺のなにがあかんかったんやー……」
 そう言ったきり侑が黙ると店内がしんと静まり返った。
「あれ宮侑とちゃう?」
 奥の席から女性の声が聞こえる。カウンターに伏せていた侑の耳がピクリと動いた。侑の顔がニヤけたのはきっと、有名人は辛いなぁ、とかなんとか思っているからだろう。侑は声が聞こえてきた方に耳を傾けた。
「めっちゃ泣いとるやん。ウケる」
「ウケへんわ! ボゲェ!」
 顔を上げた侑があろうことか声が聞こえてきた方に向かって叫ぶので、治は侑の前に立てかけていたメニューを手に取り、金髪の頭に向かって振り落とした。小気味いい音が店内に響く。
「ボケはお前や、お客さんに絡むな」
 侑はフラフラとした様子で再びカウンターに沈んだ。治は侑が怒鳴ったテーブル席へと顔を向ける。二人の女性客が目を丸めていた。
「すんませんね、うちのボケが」
 女性客二人は慌てた様子でペコペコ頭を下げてくるので、治は苦笑を禁じえなかった。
 客にまで絡まれると、いよいよ商売の邪魔だ。そろそろ目の前の酔っ払いをなんとかしたい。侑に声をかけようとしたとき、店の扉が開かれた。
「いらっしゃい、空いてる席へどうぞー」
 扉を開けて入ってきた女性客はこちらを見て一度小さく頭を下げて、店内へと入ってきた。カウンターでヘドロのように溶けている侑の姿を見てギョッとした様子だったが、柔らかな笑みを浮かべて、店の奥へと進み、二人がけのテーブル席に座った。正面にある椅子に鞄を置くと、机に立てかけていたメニューを開く。女性が慣れた様子で一連の動作を済ませたので、常連客だろうか、と思ったが女性の顔に見覚えはなかった。狭い店なので、二、三回来てくれた客の顔は覚えるようにしているのだが。
 女性がメニューを眺めている姿を眺めていると、またカウンターから例の台詞が聞こえてくる。
「俺のなにがあかんかったんやー」
「だから全部や言うとるやろ」
「そんなことあらへん! 俺にベタ惚れやったもん!」
「お前の頭はほんまめでたいな」
 知ったように色々と言ってきた治だったが、実の所、侑が付き合っていた女性のことは名前しか知らない。侑がおにぎり宮に連れてきたときに、彼女とは言葉を交わした程度だ。しかし、その短な時間でさえも彼女が侑のことを迷惑そうにしていたことは見て取れたし、侑がトイレに席を立っているときに侑との馴れ初めを聞いたのだが、控えめに言っても侑たちは両思いの末に付き合ったというわけではなさそうだった。
 それに、侑は彼女と別れて正解だったと思う。侑が席を外している間、形上は侑の彼女だというのに、彼女は治を口説いてきたのだ。片割れの女を見る目の無さには同情する。きっと、追われるより追いかけたいという欲望と追いかけている自分が好きだという自惚れがこういう悲劇を招くのだろう。こいつのようにはならんとこ、と心の底から思うのである。
「俺のなにがあかんかったんやー」
 もう耳にタコだ。えらいごついタコができている筈だ。
「そろそろ家帰れや。営業妨害やねん」
「はー? 冷たいな! 片割れが失恋で苦しんどるんやぞ!」
 片割れだから帰って欲しいのだ。治が侑に負けず劣らずのため息を吐いたとき、鳥の鳴くような声がかかった。
「あの、侑くん……だよね?」
「はぁ……」
 さっき入ってきた女性客だった。胸の前で不安そうに両手を組みながら侑の横に立っていた。
 侑の知り合いだったのか、と思いながら侑を見るが、お前の知り合いか? と言いたげな顔がこちらを向いていた。いや、知らん、と思いながら首を振ると、俺も知らん、と言いたげに侑は首を振る。
「なんや、お前。ストーカーか?」
「すとー、え? ストーカー? 違いますっ!」
 客に向かってなんて口きいてんや! と焦ったが女性は気にする素振りをするどころか、自分に非があるとでも言うような顔をする。
「突然すみませんでしたっ……私、ミョウジナマエと申します!」
 頭を下げて自己紹介をするナマエと名乗った女性は礼節をわきまえた人なのだろう。それに対して、頬杖をついてじっとりとナマエを睨む片割れの態度は酷い。
「で、なに?」
「失恋したって、本当ですか?」
「からかっとるんか?」
「いえ、そんなつもりは!」
 前言撤回だ。礼節をわきまえた女性は初対面である人間の繊細なプライベートに踏み入るなんてことはしないだろう。侑の顔は不機嫌そうに歪んでいく。
「俺が失恋したっていうのが本当やったらなんなん?」
「私と付き合ってください!」
 治は、張り上げられた声に、痛くなった頭を押さえた。他の客から注目を浴びたので、目があった順にペコペコと頭を下げていく。客の目を一番気にして欲しい当の本人達は一触即発しそうな勢いで見つめあっていた。
 ほんま、こいつら勘弁してくれ。
「そういうんはいらんねん」
「じゃあお友達から!」
「近づいてくる女には興味ないねん」
「そんなこと言ってたら私はいつまで経ってもチャンスを貰えないじゃないですか! 私のことを知ってもらえる機会だけでもください」
「めんどくさいな……」
 そう言って頭をかいた侑がニヤリと笑ったので、治は嫌な予感がした。片割れに対して抱く、こういう感は外れたことがない。今日も無事、この連戦記録を積み重ねてしまうのだろう。
 顔を上げた侑は意地悪く目を細めてナマエをじっと見つめた。
「そんなに言うんやったらその体だけ貸してーや」
「おま、お客さんに手――」
「いいですよ」
 ナマエが綺麗に笑うので、治はますます痛くなる頭を押さえて天を仰ぐのであった。