
泡沫に消える
ふと目を覚ますと、隣に愛おしい人の顔があった。その人の瞼は固く閉ざされており、彼からは穏やかな寝息が聞こえてくる。
昨夜は行為を終えると、そのまま眠ってしまったようだった。記憶は曖昧だったが、キスを繰り返されながら、意識を手放していったことは覚えている。その時は、この上ない幸福感に包まれていた気がするのだけど、今はもう、その余韻は残っておらず、大切な何かを失ってしまったような虚しさだけが残っていた。燃え上がりそうなくらい熱された体も今は冷えきり、動くのも億劫なくらい怠い。
ベッドの棚に置かれていたデジタル時計を見上げる。時刻は午前の五時になろうとしているところだった。
五色くんより先に起きることができてよかったと思う。五色くんと顔を合わせてしまったら、さよならを言うどころか、また無様に泣きじゃくってしまいそうだったから。
未だ静かに眠っている五色くんへ視線を戻す。
何も知らない子どものような顔があった。
あぁ。この人と、一緒に年をとりたかった。
こうして、朝起きたら一番に視界に入る人は五色くんで、おはようと交わし、夜になったら、また、おやすみと交わして、共にベッドに入る。そんな日々は幸せなのだろう。
きっと休みの日が被らない私たちが共に過ごせる時間は朝食と夕食の時くらいになる。一緒に暮らし始めた頃はそれが寂しくて共に過ごせる時間は沢山おしゃべりをするのだろう。でも、日常なんて昨日も今日も対して変わらないのだから、そのうち、朝食の時も夕食の時もお互いテレビを見ながらご飯を食べるようになるのかもしれない。それは、少し寂しいな。ねぇ、たまにはこっちを向いてよ。そんなことを思って五色くんを見る日が来るのかもしれない。でも、そうして五色くんの方を向いて、テレビを見ながら笑っている五色くんの横顔を見ると、こうして二人で過ごすこの時間もやっぱり幸せだな、と微笑んでしまうのだろうか。
そして、いつかは隣にいることが当たり前になっていき、何気ない日常を繰り返していくのだけど、きっと、二人の生活は楽しいことばかりではないのだろう。たまには些細なことから実家に帰ることを考えるほどの大喧嘩をして、もう離婚するしかない、なんて思うこともあるのかもしれない。でも、五色くんのことだから、結局ちゃんと仲直りをして笑い合のだと思う。
なんて、妄想が行き過ぎだろうか。呆れるほど豊かな想像力に自分でも笑ってしまった。でも、こうして五色くんとの未来を簡単に描けるのは豊かすぎる想像力のおかげだけではないと思う。もし、五色くんが私を選んでくれていたら、と考えることは、何年も五色くんを思い続けた私にとって、とても容易なことだった。
でも、そんな私が五色くんと結ばれたとしても、五色くんと過ごす毎日の殆どはやっぱりいつか忘れてしまうような日々の繰り返しになるのだと思う。そうして、顔に皺が増えていき、それは笑い皺の方が多い人生となったことだろう。
背中が丸くなってもこの人の隣を歩きたかった。
涙が溢れて、五色くんの顔が滲んでいく。ゴシゴシ擦って、いい加減、体を起こした。ずっとここにいたかったけど、いつまでもこうしていられない。五色くんが起きてしまう。それに、もうすぐ日が昇るだろう。朝が来る前に、ここを出なければいけない気がした。
ベッドを出て、落ちていた服を着ていく。破れたストッキングに苦笑して、少し迷ったけど、それを履いて帰ることにした。こんなものをここに捨てて帰るのは気が引けたのだ。跡を濁さず去りたかった。幸い、日が登る前の早い時間だから、破れたストッキングを履いていても、誰と会うこともないだろう。着替えが終わると、五色くんのジャージも拾ってあげて、畳んでベッドの端に置いてあげた。
もう一度、眠っている五色くんの顔を見つめる。
昨夜、散々キスをしてもらったけど、その唇に、もう一度、触れてもいいだろうか。
本当は、最後にちゃんとキスをしてもらいたかった。でも、起こすわけにはいかないし、そもそもキスをしてもらえる立場にないのだ。
薄い唇に、自分の唇を押し当てるだけに留める。ちゅっと控えめな音がなり、離そうとすれば、惜しむように少しだけ引っ張られ、離れた。
五色くんのサラサラの髪の毛を撫でる。
勝手にキスなんかしてごめんね。
大切な人を裏切らせてごめんね。
きっと、沢山苦しめたよね。本当にごめんね。
五色くんとは、もう、二度と会わない。
だから安心して。
鼻の奥がツンとしてきて、また視界に厚い膜が張る。すぐにそれは、つぅ、と頬を伝った。手で拭って、五色くんから離れる。
さよなら、五色くん。
その言葉だけを残して、ひっそりと部屋を出た。
思い出だけを胸に抱いて、進むしかない前だけを向いて。
ナマエが出ていった後、五色は目を開いた。唇には触れられた感触が残っている。ナマエが眠っていた隣はまだ温かい。
仰向けになると、知らない部屋の天井はやけに高く見えた。
次第に目頭が熱くなっていき、まつ毛が震え始める。瞬くと、目尻から涙がこぼれた。腕で目を覆った。気がつけば嗚咽をこぼしていた。
永遠を約束した妻のことを愛していたし、今も愛している。だけど、ずっと忘れられない人がいた。高校時代を共に過ごしたその人とは昨夜まで何もなかったけど、きっと、何もなかったからこそ、忘れられずにいたのだ。
ギリギリ奥歯を噛み締めても、情けないうめき声が漏れる。涙を落とす度に、水彩絵の具が滲むように、昔憧れたその人の笑顔が色褪せていった。
やがて、シミひとつ残すことなく消え去り、夢から覚める。
早く帰ってあげなければ。
カーテンの隙間から白い光の帯が伸びており、焦燥感に駆られた。
いつも外泊する時は、眠る前に妻とビデオ通話をするのに、昨夜は何も連絡をしてあげていなかった。妻が一人っきりの部屋で鳴らないスマホを握りしめている姿を想像すると胸が潰れてしまいそうだった。
ベッドに置かれていたジャージに袖を通す。冷たいそれに体がひんやりとして、ぶるっと震えた。
着替えを終えると、扉に手をかけ、夢の残滓だけが残るその場所を振り返る。
「さよなら、ナマエさん」
その人への思いも思い出も全てを置いて、部屋を出た。
傷だけを胸に残して、帰るべき場所へ繋がる前だけを向いて。