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 卒業し、長崎に引っ越すと、すぐに就職活動を始めた。従業員が数十人しかいない小さな会社だったけど、ありがたいことになんとか雇ってもらえた。
 一緒に暮らし始めた工とは入籍したが、急遽決まった結婚だったため、挙式は挙げていない。お金を貯めてからということとなり、一年後に挙げる約束だ。ひとまず、夏のボーナスで結婚指輪だけ買った。そして、二人の名前が刻印された指輪を受け取りに行ったその帰りに公園に立ち寄り、街頭の白い光を星屑のように輝かせる噴水の前で、ひっそりと二人だけで指輪の交換をした。やり方はよく分からなかったけど、ぎこちなく互いの薬指に指輪を通してあげ、鼻先を合わせて笑った。
 永遠を誓った指輪が薬指に通されてからは、朝会社に向かっている時や仕事をしている時、帰宅して夕食を作っている時など、ふとした瞬間にその輝くシルバーを眺めては頬を緩めている。その光はどんな宝石の輝きよりも美しく見えた。
 それはある金曜日の朝のことだ。玄関でスニーカーを履く工の隣には大きなスーツケースがあった。翌日に試合があり、会場へ前乗りするとのことだった。工より少し遅れて仕事に出るナマエは、玄関まで見送りに来ていた。工はスニーカーを履くと、こちらに振り返り屈んで顔を近づけてくる。少し背伸びをすれば、軽く触れるキスが迎えてくれた。
「じゃあ、行ってくる」
「うん、気をつけてね。いってらっしゃい」
 胸を張って家を出る夫の背中を見送った。
 そして、仕事へ行き、いつも通り業務をこなし、仕事から帰れば、一人で食事をした。二人で暮らすには窮屈な1LDKの部屋だったが、工がいなくなれば途端に広くなってしまう。
 早く帰ってきて欲しいなぁ。
 秋からシーズンが始まり工は週末が来る度に家を空けていたが、なかなか一人の夜に慣れなかった。食事の片付けをし、風呂に入る。十時になると、リビングテーブルに座り、何をするでもなく、両手で持ったスマートフォンと向かい合った。待ち合わせたようにそれが振動すると、寝る前だけつけているオレンジの間接照明が少し暖かくなった気がした。急いで、画面の通話ボタンを押す。小さな画面に工が現れ、今朝まで顔を合わせていたはずなのに、懐かしい気持ちになった。
「そっちはどう? 大丈夫? ちゃんと晩御飯食べた?」
 つい早口に母親みたいなことを言ってしまう。工は不貞腐れた顔をし、ぶっきらぼうに言った。
「ちゃんと食べたよ。子ども扱いするなよ」
「してないよ。心配なだけ」
「あっそ。ナマエは? ちゃんと食べた?」
「食べたよ。工くんだって聞いてるじゃん」
「聞いただけだろ」
 毎回、画面越しにこういう会話をしている。挨拶のように特に意味のない会話だ。でも、少し話をしただけで、頬は綻んだ。
 その後、晩御飯は何を食べたの? とか、今回のホテルはどう? とか、そんな会話をしていき、工の負担にならないような頃合いに、じゃあまた明日、と明日同じ時間に通話することを約束して、赤いボタンを押した。スマートフォンの画面が暗くなると、また部屋がシンとしたけど、いつも工と過ごしている部屋に戻ったようだった。今日はもうこのまま寝てしまおう。ポカポカした気持ちでベッドに入った。
 翌日の土曜日は仕事が休みで、部屋の掃除をしたり、買い物をしたり、羽を伸ばすというほど普段窮屈な思いをしているわけではないけど、工がいる休日よりのんびり過ごした。そして、夜十時になるとまたスマートフォンを両手で持ち、それが震えるのを待った。
 チクタク、チクタク、時計の音がやけに響いて聞こえる。工からの着信を待ち続け、一時間ほどが経過していた。最初は、忙しいのかな、と思い、特に深く考えることもなく本を読んで過ごしていたが、時計の針が二つとも天井を向くと、流石に不安になってくる。
 何かトラブルだろうか。でも何かあれば工は必ず連絡をしてくれる筈だ。通話が無理でもメッセージを送ってくれるだろう。本人が連絡をできない事態であれば、なおさら妻であるナマエのもとに別ルートで連絡が来ている筈だ。何も連絡が来ないということは、工がそうしているからなのだ。
 机の上に置いていた左手の薬指でシルバーが鈍く光る。
 ふと思い出したのは、学生時代にたった一度だけ見たことのある女性だった。
 あれはちょっとした気まぐれだった。妙な形ではあったが、ようやく思いが叶ったことに、浮かれていたせいもあるのかもしれない。帰宅しようとしていたところで、夜空に向かって煌々と灯りを放っている体育館が視界の隅に入り、普段であればそんな工に迷惑がかかるようなことはしないのだが、その日は足が向いてしまったのだった。
 好きな人が何よりも好きなことに取り組んでいる姿を見てみたい。そう思い、こっそり体育館を覗いたのだが、工より先に目に飛び込んできた人物がいた。その人が放つ空気のようなものに目が引かれたのかもしれない。
 背筋を凛と伸ばし澄んだ瞳で前を向いていたその人は、誰も手の届かない場所で美しく咲く花のようだった。
 この人が工の恋焦がれた人なのだろう。すぐに分かった。こちらに気づく様子もなく、彼女を見て柔らかく微笑んだ工の顔が今でも忘れられない。
 彼女には逆立ちしたって叶わないと思った。そして、工は彼女をずっと心の奥底に住まわせて生きていくのだろうと悟った。入口にかかる緑のネットがナマエと彼らを分厚い壁のように隔てていた。
 きっと工の隣にいる限りこうして嫌というほど彼女の存在を知らしめ続けられるのだろう。
 その人を好きでいてもいいといった自分の言葉が今更肩に重くのしかかり、暫くそこから動けなかった。
 今ならまだ引き返せるかもしれない。そんな考えまでよぎり動揺した。しかし、バレーに打ち込んでいる工を見ていたらすぐに思い直した。やはり工が好きだという気持ちは何にも変えがたかったのだ。
 そして、工もこちらに気づいてくれると、なんだかほっとしてしまい、安心して彼らに背中を向け帰路についたのだった。
 しかし工はもう帰ってこないかもしれない。工が妻より優先するものなど考えずとも明らかだった。
 とうとうこの日が来てしまった。
 でもそれはいつか来ると分かっていた日がちょうど今来ただけだった。
 涙が一筋静かに頬を伝った。スマートフォンをリビングテーブルに置いたまま、工のいない冷たいベッドで寂しい体を抱きしめて眠った。
 その翌日の夜。玄関から部屋の鍵が回される音がした。
「なんでっ……」
 鳴る筈のない音に思わずそう呟き、走って玄関へ向かった。すると玄関では、工が靴も脱がずに暗い顔をして立っていた。
 あの女性と関係を持ったのだとすぐに分かった。心の準備はできていたが、心が奥から傷んでいく。でも、どうしてか、とうとうその人を抱いてしまった駄目な夫も愛おしかった。
 もう、しょうがないんだから。
 泣きたい気持ちで、随分と頼りなくなってしまった体を抱き寄せた。
「帰ってきてくれてありがとう」
「なんで礼を言うんだよ」
「なんでだろうね」
 工は帰ってきてくれた。きっと、もうその人と会わないと決意したからだ。
 工は不倫をするような人ではない。きっと、その人のことが本当に好きで、一晩かけてその人を愛し、もう会わないと決別したから帰ってきたのだろう。
 そんな風にどうしようもないくらい真っすぐにしか走れない夫が昔からずっと変わらず何よりも愛おしかった。
 工はナマエの背中の服を握りしめると、体を震わせる。
「ごめん、ナマエ……」
「なんで謝るの?」
「ごめん、ナマエ……本当にごめん……」
 仕方がないから、いいよって言ってあげた。
「許すなよ」
「でも何に対して謝ってるか分からないから」
「ごめん……」
「いいよ」
 工は謝らずにはいられないのだろう。でも、何で謝っているのかを聞いても絶対に答えてくれないのだろう。答えれば、工も少しは楽になれるだろうに、そんなナマエを傷つけるようなことはしないのだろう。ただ一人で傷を抱え、ひっそり生きていくのだろう。そんな寂しい人生を選んだ人のそばに寄り添い生きていきたかった。
 ナマエを愚かだと笑う人もいるだろう。たった一度っきりとはいえ工は別の女性と体の関係を持ったのだ。ナマエと結婚しておきながら、別の女性を思っていたという今までとは明らかに異なる大きな裏切りだ。
 でも、いいのだ。大好きな工のそばにいられるのなら。それにこれから工はナマエだけを瞳に映し生きていくのだろう。これ以上、工に望むことは何もなかった。
 それは誰も口出しすることのできない、ナマエたちだけで完成された閉ざされた世界でのことだ。
 工はナマエの背中が反れてしまう程、きつく抱きしめた。
「ナマエ、愛してる」
「私もだよ」
 ナマエはそこに存在するたった一つの幸せをぎゅっと抱きしめた。