狐、その尾を絡める


 黒板を叩くチョークの音が不規則なリズムで鼓膜を揺らす。白い日差しが差し込む朝の教室。角名はシャープペンシルを持っていた手を置き、ぼんやりと斜め前に座るナマエを眺めた。彼女の表情は後ろから窺い知ることはできないが、前を向く頬は滑らかで、艶のある髪には光の曲線が差している。背筋は凛と伸びており、清潔でいて清楚にして清純という言葉が良く似合う彼女だが、鋭い瞳にはひどく官能的に映っていた。さながら禁断の果実のようで、触れてはならない理由も知らずただ食ってみたいと思う。初めからそうだったわけではない。ある日突然そうなったのだ。角名は口に緩やかな孤を描いた。

 埃っぽいその部屋は少し懐かしい匂いがする。日直の角名とナマエは授業で使う、丸めると二メートルほどにもなる大きな世界地図を資料室に取りに来ていた。先に資料室に入ったナマエは部屋を見渡す。教室の半分にも満たないその場所は、完全に倉庫として機能しており、机や椅子の類はない。壁に沿って本棚が並べられており、空いたスペースにはいくつも段ボールが積まれていた。その段ボールに立てかけてあった地図にナマエは「あったあった」と言って手を伸ばす。
「俺が持つよ」
 角名が後ろから手を伸ばした。
「一緒に待とうよ」
「一緒に持つほどじゃないから」
 角名がうっすら笑う。ナマエは一度口をへの字に曲げたが「ありがとう」と笑みを返した。
 長い世界地図を挟んで二人並んで教室へ帰る。来た時と同じで会話はない。世間話すらするほどの間柄では無いのだ。だけど角名は知っている。
「ミョウジさん、侑のこと好きでしょ」
「え……と、何のこと?」
 その言葉を紡いだふっくらとした唇を角名は眺める。
「こないだ試合来てたでしょ。侑のこと見過ぎ」
 休日にも関わらずナマエは制服を着ていた。彼女らしいといえば彼女らしい。しかしその面持ちは角名の知っているそれとは随分と違った。瞳を潤わせて、侑の動きに合わせて揺れ動く。祈る様に両手を胸の前で組みながら。その唇から吐かれる息にはきっと角名を惑わすような何かが入っていた。それ以来、角名の瞳は気づけば彼女を追っている。
「協力してあげるよ」
「いや、別に好きってわけじゃ……」
「高校生活なんてあっという間なんだから行動に起こさないと」
「まぁそうなんだけど」
「大丈夫。ミョウジさんは可愛いから」
「えぇっ? そんなことないよ」
 ナマエは弾かれた様に顔を上げ照れた様子で両手を何度も振ってみせた。そして寂しげに笑う。
「私なんて、きっと見向きもされないよ」
 それはもう侑に好意があると言った様なものだった。
 あともう一押しだと角名は確信する。
「大丈夫。俺が協力するから」
「だからそんなんじゃ……」
 ナマエは納得がいかないとでも言いたげに口を閉ざした。そして、首を傾げ尋ねる。
「なんで、そんな風に言ってくれるの?」
「それは……」
 さっさと告って振られればいい。
 そう思ったからだが、角名は心の囁きを隠す様に笑った。
「ミョウジさんも侑も俺の大事な友達だから」
「そっ、か……ありがとう」
 ナマエは頬を桃色に染めて柔らかに微笑む。角名は彼女を見下ろして、早く、早く欲しいと思った。

「俺のクラスに侑が好きって子がいるんだけど」
「え!? ほんまに!?」
 その日の部活の休憩中、壁に背中を預け水分補給する侑に前置きもなくいきなり本題を切り出した。侑は目をキラキラと輝かせながら食い入るように角名を見る。
「こないだ試合見にきてた子なんだけど、後ろの方で見てて制服を着ていて……」
 と、彼女の外観を伝える。侑は「おぉー」と言って拳を手のひらに置いた。
「知っとるわ! 普段からよう目が合うねん。俺もあの子かわええなーって思っとった」
 それは角名にとって誤算だった。ただこの程度で諦めがつくのなら最初から求めてなどいない。
「うあー、嬉しいなぁ。今度声かけてみよかな」
「でもその子あまりいい噂聞かないんだよね」
 息をするように吐いたそれは嘘だ偽りだ虚言だ。勿論彼女に対して後ろめたさはあった。侑の気持ちを知ってしまった今となっては侑に対してもだ。ただ、あの瞳を、唇を。その体を手に入れられるのならこれくらいの罰など罰のうちに入らなかった。
 しかしそれだけでは終わらない。
「そんなん噂やろ? 本当のことはわからんやん」
 侑の笑顔はその髪のように眩しい。目を細めた角名が残り取り得る選択肢はただ一つ。いや、むしろ初めからそれしかなかったのかもしれない。
 角名は自嘲を浮かべ決意した。

 侑と言葉を交わした翌日の放課後。角名は、侑の件で話があると言ってナマエと共に再び資料室に来ていた。茜が差し塵が煌めくその場所は、入り口は一つしかなく、廊下に面した窓もない、おまけに二階であるため外からも見えないという秘密の話をするには打って付けの場所だった。
「侑、彼女いるんだって」
 用意した嘘は難なく口から零れる。
「そう、なんだ……」
 なんの配慮もなく発せられた言葉にナマエは一度瞳を揺らした後、力なく微笑んだ。
「そうだよね。侑くんかっこいいもん」
 角名は息を呑む。
 ――あぁ、欲しい。
 彼女の持つその清廉は角名にとって魔性でしかなかった。
 その白さを穢せばどんな顔をするのか。穢して辱めればなんて言うのだろうか。見たい、知りたい。そして全て自分のものにしたい。そう思わずにはいられなかった。
「侑に彼女がいること内緒にしてくれる?」
 嘘がバレないよう、角名は必要な手続きを淡々と踏んでいく。
 ナマエが不思議そうに首を傾げるので、追加の説明を加えた。
「侑って女の子にモテるでしょ? 公になると彼女がいじめられちゃうかもしれないから内緒にしてるんだって」
「そっか……分かった」
 ナマエは視線を地面に落とし「大切にされているんだね」と呟く。笑みを浮かべているのに細められた瞳は切なげで、その先にはきっとまだ顔をクシャクシャにして笑うあの男がいる。いっそ泣いてくれれば話は早かったのに、そうしてくれないから角名は酷く彼女が欲しいと思う。
「侑への気持ち、どうやったら忘れられるか知ってる?」
「私別に忘れたく――」
「新しい恋をするんだよ」
 角名の強い口調にナマエはびくりと体を揺らす。
「忘れずにずっと好きでいてどうするの? 侑には彼女いるんだよ」
「そうだけど」
「辛い気持ちのままいるなんて嫌でしょ」
 ナマエは頷く様に柔らかそうな唇を噛む。
「だから、俺が埋めてあげる」
 その声色はぞっとするほど優しいものだった。
「そ、んな……いいよ」
 首を振りながら発せられたその言葉が拒絶を意味することは角名も分かっていた。分かっていて、文字に起こせばどうとでも取れる「いいよ」を都合のいいように解釈し直す。そもそも選択肢を与えた覚えはないのだから。
「それは肯定と受け取っていいの?」
「ちがっ――」
 言葉が途切れたのはその唇を塞がれたせい。角名はナマエの頬に手を当て唇を押し付けた。
「や、めっ……」
 ナマエが角名の体を押して後ずさる。
「大丈夫。大切にするから」
 角名はナマエの腕を掴んで再び引き寄せる。そして、今度は両手でナマエの顔を包み込み上を向かせて唇を落とした。ナマエは角名の胸を押すが、押すばかりで角名の体を引き離すことは叶わない。
 角名はずっとずっと食べてしまいたかった唇を口に含む。
「やめ……ん、すな、く……」
 ナマエが角名の唇を、あるいは口に入ってくる舌を噛めば角名を引き離すことは叶ったかもしれない。だけどナマエがそういう人を傷つけるような行為が出来ないことを角名は知っている。ナマエの口は開いたまま。漏れるのは吐息混じりの抗う声だけ。ナマエの涙が角名の指に絡みついた。
 ようやく手に入れた。と、角名はうっとり瞳を閉じる。
 こんなことをしてもう侑には近づけないよね。これで俺のもの。

 こうして角名は禁じられた果実に手を伸ばした。