挿話 狐の決意



 時を少し遡る。それは、ナマエが噂を耳に入る三日前の出来事。

 悪夢か正夢か。断片だけを繋げた物語性のかけらもない、そんな夢を、角名は見ていた。
 眼前でその人が両手を顔に当てて泣いている。どうしてかその光景が胸を焼き、引き裂いていく。泣かないで、泣かないでと手を伸ばした。そして気づく。指先が触れた先はガラスだと。ガラスが自分と彼女とを隔てていた。それは触れた先からひび割れていき、歪な線がまるで傷のように彼女の体を刻んでいく。ガラスに映る己の体もまた鏡合わせのように裂けていった。

 目覚ましが、ジリリとけたたましく鳴り響く。角名はそれを勢いよく叩いた。しかし瞼は落ちたまま。再び布団に潜りこのままもう一眠りとまどろみへ落ちる。しかし丁度気持ちよくなってきたところで再びそれは激しく起床を促した。嫌だ。起きたくない。まだここにいたい。更に布団に潜るとその音は意思を汲んだかの様に鳴り止んだ。なんだ……まだ眠ってていいのか。朦朧とする意識の中で呟く。刹那、冷たい空気が急速に意識を引き上げた。
「はよ起きーや!」
 重い瞼を開くと、寮の相部屋の友人が布団を引っ剥がしていた。
「……酷くない?」
「それはこっちの台詞や! 毎朝、毎朝、人の目覚ましで起こされるこっちの身にもなれ!」
 大層御立腹の様子だが、彼の言う通りこのやり取りは毎朝のことである。目覚ましが鳴ったにも関わらず一向に起きようとせず挙句スヌーズ機能で再びそれを鳴らす角名の代わりに、彼は起きる必要もないのに身を起こし、目覚ましを止め、こうして起こしてくれているのだ。それを彼が毎朝のルーティーンの様にやっているかと思うと相当にいいやつである。
「ごめん、ごめん」
 角名はようやく体を起こした。そういえば何か嫌な夢を見ていた気がするが、全く思い出せない。ならば無理に思い出す必要もないだろう。友人に礼を言って引きずる様に共用トイレへと向かい、顔を洗った。鏡に映る自分は昨日となんら変わらない。跳ねた髪に水をつけワックスで整える。それでも主張する髪は無視して再び部屋に戻り身支度を済また。こうして角名の一日は始まる。

「角名ー!!」
 扉が開かれる音と共にその怒声が響いたのは、朝練前のロッカールームでのこと。未だ寝ぼけ眼で荷物をロッカーに入れていた角名は思わず両肩を上げた。なんや、なんやと他の部員達が騒がしくなる。明らかに面倒ごとの匂いがした声色に、角名は聞こえないふりでもしたい気分であったが、声の主にそれが通用しないことは重々承知している。この場に北さんがいてくれたらなぁと心の中でボヤきながら諦めた気持ちで声の先へ視線を送った。開けた扉を片手で押さえながら顔を真っ赤にして立つ侑と目が合う。侑は目が合うや否や真っ直ぐこちらに向かって歩みを進めた。いかにも怒ってますと言いたげに荒々しく手を振りガニ股で近づいてくる。角名は思わずため息を吐いた。
「何?」
 角名が前に立った侑に向かって言うと、侑は鼻息荒く口を開く。
「お前あの子になんかゆうたな?」
「あの子?」
 突然の代名詞に首を傾げる。すぐにピンとこないのは何も寝ぼけた頭のせいだけではない。
「だからあの子やあの子!」
「だからあの子ってだれ?」
 同じ単語を繰り返す侑に半ば苛立ちを覚えながら返す。侑は苛立っているのはこっちやとでも言いたげに声を荒げた。
「制服の乙女や!」
「は?」
 今日日聞かないその言い回しに呆れながら侑を見た。すると侑は僅かに頬を赤らめ視線を逸らしながらぼそりと呟く。
「俺のことが好きやっちゅう……」
 ようやく「あぁ」と合点がいく。侑の言うあの子とはナマエのことだった。
 それにしても制服の乙女って。ネーミングセンス、と思ったが口にはしなかった。
 考えが巡ると頭も冴えてくる。侑はなんと言ったか。そうだ、”あの子になんかゆうたな?”だ。ナマエに何かを言ったかと聞かれればそれはイエスだ。盛大に言ったし、それ以上のこともした。しかしなぜそれを侑が知っているのだろうか。ナマエが自ら口にしたとは思えない。そう言うことができないと知っていたからそう言う手段を取ったのだ。だから何故侑がそんな発想に辿り着きこんなに怒りをぶつけてくるのか。角名には皆目検討がつかなかった。
 侑は怒りおさまらぬ様子で続ける。
「俺最近なんやあの子に避けられとんねん。というか昨日、声かけたら逃げられてん! お前絶対なんか言うたやろ!」
 再び「あぁ」と合点がいく。それはあり得る。十分にしてあり得る。しかし角名は”何か言ったか”と言う問いに正直に答えるわけにはいかなかった。答えたら今まで重ねてきたことが水の泡だ。
「言ってないよ」
 しかし侑は引かなかった。
「いーや、ゆうた! 絶対ゆうた! 避けられる様になったんはあの子が俺のこと好きやってお前が教えてくれたすぐ後からやもん! それに俺は知っとんやからな! お前ら仲良しやろ!」
「仲良し?」
 角名は首を傾げる。自分たちの関係を”仲良し”と形容できるはずがない。もしそうであったのならと角名も考えたことはあった。最初から彼女が自分を見てくれていたのならと。そうでなくても、目の前の友人が彼女を意識していなかったのならと。しかしそこまで考えて、角名は思考を止めたのだった。考えるだけ無駄だからだ。もう戻れない。やり直せない。ならば今はこの道を守ることだけを考えるべきだ。
 侑は角名の顔に僅かに影が落ちたことには目もくれず続けた。
「こないだ一緒に帰っとったやん」
「一緒に?」
「放課後、廊下一緒に歩いとったやん」
「あぁ」
 資料室へ向かう途中を見られたのだと悟る。確かにあの瞬間だけを見れば”仲良し”に見えないこともない。けれどその”仲良し”のままでは望んでいたものは得られなかった。これでいい、これで良かったんだと角名は自分に言い聞かせる。そして、「どうしてくれんねん! 俺の春が始まるはずやったんに」と頭を抱える侑に微笑んだ。
「それなんだけどさ。あの子が侑のこと好きっていうの、俺の勘違いだった」
「は?」
「ついでに言うと、もう俺のものになったから。手、出さないでね」
 友人を裏切り、彼女を傷つけ、それでも欲しかったもの。絶対に手放さない。手放すなんて出来るはずがない。
 わかっている。それが愛というには程遠い代物だということを。手に入れたつもりで二度と手に入らないものになってしまったということを。彼女の中で形成されつつあるものは仮初だ。愚かだと、虚しいと考えなかったわけではない。ただ、失うよりもずっとずっとましだったというだけの話だ。
 だから、角名は心に誓う。大切に、大切にしようと。
 侑は目を剥き、「はぁ!?」と言って意味がわからないとでも言いたげに両手の平を上にあげた。そして、「はぁー? はぁあー? はぁあーーー?」と言葉を重ね、角名に顔を近づけてくる。
「そんなんあるぅ? ありますぅ?」
 侑にこれ以上にないくらいにガンを飛ばされた。角名は「流石にうざいんだけど……」とめんどくさそうに侑の顔を払う。すると侑は何を思ったのか踵を返し再びドカドカと歩きその勢いでロッカールームの扉を開けた。そして、外に出たかと思うと憂さを晴らすかの様に声を張り上げる。
「皆さーん! 聞いてくださーい! 角名くんに、彼女がでけたみたいやでー!」
 角名はため息混じりに侑の背中を眺めたが、まぁいいかとロッカーに向き直った。

 箱庭はもうすぐ完成だ。


* * *


 侑の声は朝の澄んだ空に高々と響いた。
「名前は知らんねんけどー、同じクラスでー、こないだ一緒にー」
「侑」
 凛とした声が侑を遮る。侑はぴたりと動きを止めたかと思うと、まるで壊れたおもちゃの様にぎこちなく首を声の方へと向けた。
「き、北さんっ……!」
 その男は無表情で侑を見上げていた。
「何をそんな騒いどんねん」
 お前の声体育館まで響いてたで、と付け加えられた北の言葉は単調で。ただ尋ねているだけのようだった。侑は足の爪先から頭の天辺までブルリと身を震わせる。
「な、なんも……ありません」
「ならええねん。皆の迷惑になるからな、きーつけや」
 北は笑いもせず、だからといって怒りもせずそう言って体育館の方へ去っていった。北の背中を眺めながら侑は再びブルリと体を震わせる。その後ろをシューズを手に持った角名が通り。
「ばーか」
「うっさいわ! 元はといえばお前のせいやろ!」

 そして、巡り巡って二日後。ナマエが噂を耳に入れる一日前。
「陸上部のやつが言うにはな、角名くんとナマエちゃんが一緒に帰るとこ見たやつがおったんやて。ほんでそいつが角名くんに確かめたら付きおうとるって。角名くんゆうたんやて」
 最後に「知らんけど」と付け足されたそれをナマエの友人が聞き、目に輝きを散りばめさせた。