引き出しの中の菖蒲のかんざしを取り出してみる。結露した窓の外には重たい灰色の空が広がっている。さすがに時季外れだ。かんざしを引き出しの中にしまい、普段使いしている玉かんざしで髪をまとめた。
二十四日、昼間は清三郎くんも定食屋のバイトに入り普段通りに過ごした。昼の営業が終わると清三郎くんはすぐにハンバーグのタネ作りを始め、夜の営業には焼くだけの状態にしていった。慌ただしく去っていく姿を見送り、私はようやく人心地が付いた。
適当なお店で食事をして、お開き。土方さんとしていることと同じなのに、どうしてこんなにも落ち着かないのだろう。おじさんたちは私のことを気遣って夜を休みにしてくれたのだろうけれど、今更になって仕事に入らせてもらえればよかったと後悔していた。
店の暖簾を下げていると、ふらりと沖田さんがやってきた。「あり、終わりかィ」と足を止めるので、「終わりです」と答える。夜のことを考えると余裕がなかった。
しかし、沖田さんは関係無しに店の戸を開ける。
「愛想ねえなぁ。なんか食わせてくれ」
「おじさんたち、今は引っ込んでるので何もありませんよ」
「残り物でいいんでさァ。それか、この際アンタが作ったのでもいいや」
それが人にものを頼む態度だろうか。沖田さんは定位置となっているカウンター席に座った。照明を絞った店内は薄暗い。
冷蔵庫を開けると、清三郎くんが置いていったハンバーグがあった。多めに作ってあるし、一つだけ焼くことにした。
「沖田さんは今日も仕事なんですね」
「土方も仕事だぜ」
「……土方さんのことは訊いてません」
「遠回しに訊かれてんのかと思った」
熱したフライパンに油をひき、ハンバーグを乗せる。じゅうじゅうと音が鳴る。どのくらい焼けばいいのか迷ってしまう。フライ返しで裏面を確かめては戻していると、沖田さんは訊ねる。
「期待すんのやめたのか」
「もともと期待するようなことなんてないです」
「……アンタ、知らないんですかィ」
「ほっ」
掛け声と共にハンバーグを引っくり返す。昼間の清三郎くんの動きを思い出す。たしか、ここで水を入れて蓋をしていた。計量カップに水を入れる。
「知らないって、何がですか?」
「土方さんがアンタと隊服で会わない理由も、この店に寄り付かないわけも」
蛇口を締めて沖田さんを見る。
確かに、土方さんは私と会うときにはいつも着流し姿だ。この店にも立ち寄ったことがない。来る用事がなければ来ないだろうし、服装だって休みなら着替えてきて当然だろう。意味や理由なんて考えたことがなかった。
「アンタが妙な奴だの、マスコミに目付けられたりしないようにしてるんでさァ」
「……なんでですか」
声が詰まった。沖田さんは「水」と一言挟んでから言葉を続けた。私は慌ててフライパンに水を差して蓋をした。
「俺たちの隊服は目立つからな。警察が堂々と民間人とメシ食ってりゃ目に付く。まして、アンタは親父の件で顔が知れてる。てめーが近付かねえことで余計な波風立たせねえようにしてるんでさァ、あのヤローは」
「でも、沖田さんは来てるじゃないですか。土方さんだってそれは知ってるんでしょう」
「俺ァ勝手にメシ食いにきてるだけでィ。土方とすりゃあ、好都合だろうけどな」
言葉の意味がわからず眉を寄せる。フライパンの蓋に油が跳ねている。
「警察が出入りしてるメシ屋にやましいことのある連中は来ねえだろ。俺はプライベートでアンタと会うことはねえし、つつかれてもただの常連で済む」
アンタは全部知ってるんだと思ってたぜ、と沖田さんは私の手元を覗き込んだ。
「オイ、焦げてんじゃねえのか」
「あっ、すみません」
蓋を外すと、ハンバーグは表も裏も真っ黒になっていた。
日の落ちた公園は異空間のようになっていた。噴水は照明に照らされ、金色に輝いている。脇には急遽設置したことがありありとわかる安っぽいクリスマスツリー。眩い明かりを撒き散らすその周りには、身を寄せ合う男女が数組いる。
はじめは噴水の前に立っていたけれど、人が増えると徐々に居心地が悪くなって私はベンチへ移動した。腰掛けて、すぐに携帯電話で時間を確認する。十九時十五分。連絡はない。
あと十分待ってみよう。そう思いながら、明滅する光を眺めていた。しかし、気付けば右にも左にもカップルが座っていて、ますます肩身は狭くなった。私はベンチを離れ、公園を出た。電話をかけてみるが、留守電に繋がった。
清三郎くんのバイト先の引越し業者は知っている。私が実家からアパートへ移るときにも頼んだ業者だからだ。携帯電話で事務所の場所を調べ、歩を進める。
仕事が長引いているのならメールの一つでもくれればいいのに。苛立ちから、歩調は次第に速くなっていく。
土方さんなら、待ち合わせよりも絶対に早く来る。何かあれば連絡をくれる。彼と土方さんは違う。ちゃんとわかっている。なのに、影が重なって不快な音を立てる。耳障りで仕方ない。沖田さんの話なんて、聞かなければよかった。
プレハブ小屋のような小さな建物が目前に迫る。駐車スペースにはトラックが何台も停まっていた。途中ですれ違うかもしれないと思っていたが、結局事務所まで来てしまった。しかし、来たところで清三郎くんがまだ戻ってなければ意味がない。大体の引越し業者の営業時間は二十時までのようだから、もう仕事は終わっているとは思うけれど。
とりあえず電話してみようと携帯を開く。すると、トラックの隙間から笑い声が聞こえてきた。笑い声が止むと、清三郎くんの声がする。
「やべ、彼女待たせてんですよぉ」
「え、おまえ彼女できたの?」
「マジか! どんなの?」
「かわいい? 美人?」
「おっぱいデカい?」
「写真ねーのかよ」
清三郎くんの一言に矢継ぎ早に質問が投げかけられる。どうやら四、五人の男が集まっているらしい。女っ気のない会話が繰り広げられている。私は立ち竦み、どんなタイミングで出ていけばいいのか、それとも一旦戻ったほうがいいのか考えあぐねていた。
わっと声が上がる。トラック越しにも盛り上がっているのがわかった。
「これ、なんだっけ、銀行の捕まったオッサンの娘じゃん」
体が強張った。一人が「何それ?」と不思議そうな声を出している。
「おまえニュース見てねえの?夏にあったじゃん、デカい銀行のお偉いさんが横領かなんかして、すげえ騒ぎになったろ」
「いやでもフツーに美人じゃね」
「美人だけど性格悪そうっぽくね?」
「俺こういう女嫌いだわー」
彼らはあまり世情に明るくないようだった。私の容姿について喧々囂々と意見を交わしている。
その中を、一際通る声がすり抜ける。
「おまえ、犯罪者の娘と付き合ってんの?」
犯罪者の娘――。
それは私を表す最適な言葉だった。
「ナマエさんのこと、なんにも知らないからそうやって言うんすよ」
清三郎くんは呆れたような声色だった。表情や声にそのまま感情を乗せてしゃべるような彼だ。きっと、本当に呆れているのだろう。
「ナマエさんはクソ真面目だし、努力家で、先輩方が思ってるような人じゃないんですよ。育ちもいいんだろうけど、全然そんな感じしないっすよ」
「へーっ。そうなん?」
「そうっすよ。そりゃあ、俺も最初は興味本位で近付いたんすけどね」
「興味本位ってなんだよ。結局おまえ、物珍しくて付き合ってんじゃねーか」
「いや、だって気になるでしょ、そばに有名人の娘がいたら」
雪も降ってないのに、空気だけはやけに冷たい。しかし、急いで歩いてきた私の体の中には熱が籠っていた。
じくじくと、ありもしない傷が蛆虫に食われているような、背中を蛇が這うような、どうしようもない気持ち悪さが全身を覆っていく。
そりゃあ、そばにいたら気になるだろう。どんな生い立ちで、どんな気持ちで、あの不幸をどうやって乗り越えているのか。世間に晒され、居場所もなく、毎日バカみたいに働いている。表情や声にそのまま感情を乗せてしゃべるような彼だ。きっと、本当にバカみたいだと思っているのだろう。寂しい女だと心底感じているのだろう。
喉の奥から笑いが漏れる。音にはならなかった。
「おまえ、サイテーだな!」
哄笑が飛ぶ。清三郎くんは慌てて周囲を制する。
「でも! でも今はガチで好きなんすよ! だって、あの人豚肉だけのハンバーグが好きなんすよ! そんなの聞いたら苦労してんだなって思うじゃないっすか!」
手に持っていた携帯電話が音を立てる。画面部分とボタン部分の繋ぎ目が折れそうに歪んでいた。
踵を返す。足音を立てないようになんて気遣うのも馬鹿馬鹿しい。
アスファルトを蹴るように歩いていると、後方から名前を呼ばれる。無視していたが、清三郎くんが前に回り込んできたので仕方なしに足を止めた。
「ナマエさん、なんで……」
目線の高さが同じことを、こんなにも鬱陶しいと思うこともないだろう。私は冷ややかに目の前のチワワを見た。本当にチワワのように目が潤んでいる。なんでそっちが泣きそうになっているんだ。
いろいろと言いたいことはあったが、腹の中へ押し込める。言うべきだけことを厳選した。
「今日はもう無しにしよう」
「今日はって……もう次なんて、ないんじゃないですか?」
「ないよ」
「さっきの話、聞いてたんですか?」
言い終える前に避けて歩き始める。清三郎くんが追ってくる。質問ばかり、やめてほしい。
「最初はただの興味でした、ほんとすいません。でも今は違うんすよ、俺、本当に好きなんです。ナマエさんのこと、好きなんです。本当です」
「本当にごめん」
突き放すようにはっきりと言った。そちらが本当に好きだと言うのなら、私だって本当に勘弁してほしい。足を止めて振り返ると、清三郎くんは泣く寸前のような顔をしていた。
募った苛立ちが凪いでいく。代わりに押し寄せてくるのは、やるせない気持ちだった。
肩の力が抜けて、握っていた携帯電話も手から落ちそうになる。通り過ぎる人々は、クリスマスイブに口喧嘩らしきものをする私たちへ好奇の目を向けていく。私は俯いて、再度ごめんと謝った。清三郎くんの握った拳が見える。浅ましいのは、私も彼も同じだ。
もう清三郎くんは私を追ってこなかった。空は星すら見せずに真っ暗闇だが、街の明かりが絶えないので暗さはあまり感じない。
家に帰ればいいのに、足は自然と公園へ向いていた。公園の人影は先程よりも疎らになっていた。噴水やツリーは相変わらず光っているが、見る人が少ないと明かりは寂しげに見えた。
ベンチを見遣ると、一人の男が座っていた。目を疑ったが、土方さんだった。煙草を咥えてイルミネーションを見ている。吸い寄せられるように近付いていくと、土方さんは不審者を見るようにこちらを凝視した。近付いてくるのが私だとわかったあとも、怪訝な表情は変えない。
「おまえ、こんな時間までバイトか」
「土方さんこそ、お仕事ですか」
「見りゃわかるだろ」
土方さんは隊服を着ていた。沖田さんの言葉を思い出したものの、まあいいやと開き直った。隣のベンチが空いていたので、そこへ座った。好きでもない煙草の匂いを嗅いで、落ち着くようになってしまった。好きと嫌いは対極にあるはずなのに、併存するものでもある。
髪をまとめていたかんざしを外し、近場のゴミ箱に放り投げた。土方さんは目を点にしている。
「……なんですか? ちゃんと燃えないゴミに入れました」
「そういうことじゃねえだろ……」
落ちた髪が肩を流れる。肺に溜まった息を吐いた。
「私は贅沢なんでしょうか」
冷える指先を握り込む。土方さんの顔は光に照らされて陰影を濃くしている。
「なんの話だ」
「……私のことを好きだって」
「あ?」
「言ってくれたのに」
唇を噛み、瞬きを繰り返す。目に映った真剣で泣きそうな表情が消えない。清三郎くんの言葉に嘘はない。はじめは興味本位で、そのうちに、本当に好きになってくれたのだろう。彼と一緒にいれば、きっと今日のように腹が立つこともあるに違いない。でも、歩幅を合わせる必要もないし、目線を合わせる必要もない。人目を気にして着替える必要もない。白昼堂々、並んでご飯を食べることもできる。
「きっかけは何であれ、好きでいてくれていることに変わりはないのに、好奇心や同情で近付かれたことが許せないんです。土方さんは選べって言ったけど、人を選ぶ権利なんて、私にはないんです。だって私は……」
声が段々とか細くなっていく。乾燥のせいか、歩き疲れたせいなのか。風で顔にかかる髪が邪魔で耳にかける。咳払いをして、苦笑した。
「贅沢ですよね、何様なんだっていうか」
「ほんとだな」
土方さんがするりと滑り込んできた。隣を見遣ると、新しい煙草に火をつけているところだった。私の精彩を欠いた話をしっかりと汲んでくれているようだった。
「気に入らねえもんを許すこたねえだろ。神様にでもなったつもりか」
「……」
「気に入らねえもんは気に入らねえ。嫌なもんは嫌だで片付けろ。誰も責めやしねえよ」
一直線に伸びて消える白煙。土方さんは膝に肘を置いた。
「血の繋がりだの家族だので括るのは好かねえが、おまえはあの狸親父の一件で顔が割れてる。ド田舎にでも雲隠れすれば指差されることもないだろうが、ここにいる限りはどこで誹られるかわからねえ。てめーの親父は顧客の金を着服してたんだ。当然だろう。それでも、茨の道だとわかってて、それでもおまえはここを選んだんだろう。だったら、いま折れちゃだめなんじゃねえのか」
わかるか、と土方さんは私へ目を向けた。鋭く、まっすぐな目。煙のように消えない、逃れられない眼差しだ。
「ここで折れたら、一生見下され、庇護され続けなきゃならねえ。そんなのは俺だったら死んでも御免だね」
短い息が漏れる。土方さんらしいと思った。土方さんだったら、そんな人生を歩むくらいなら腹を切るくらいのことはしそうだ。プライドが高くて、ストイックで、自分を曲げない強さを持っている。
土方さんは私の顔を見たあと、目を伏せて立ち上がった。噴水の金色の光が、黒い隊服を輝かせている。煙草を指で挟み、それに、と続ける。
「そいつだけが男じゃねえだろう。この世に男が何人いると思ってる」
「……三十五億」
「てめー真面目に聞け」
「いや、今のは土方さんがフッたんでしょ」
「ネタが古いんだよ」
冷たい風が目に染みる。鼻水を啜っていると、土方さんは「ちょっと待ってろ」と公園を離れてしまった。取り残された私は、言われた通りにその場で待っていた。鼻先に冷たいものが触れたかと思うと、大粒の雪が降り始めていた。疎らにいるカップルが、雪だね、雪だよ、とはしゃいでいる。
土方さんは数分で戻ってきた。白い箱を手に持っている。無言でその箱を渡され、中を開けるとそこには苺のホールケーキがあった。
「どうしたんですか、これ」
「そこで売ってた」
そこって、と繰り返す。この辺りにお菓子屋はない。けれど、クリスマスだし、外で手売りしているところもあるだろう。しかし、それにしてもどうしてわざわざ――。疑問が浮かんだものの、すぐに土方さんの頭の中を推察した。
「土方さん、私に食べ物さえ与えておけばいいと思ってます?」
「違ったか」
私は堪えきれずに笑い出してしまう。こんな安直なやり方を、どうして嬉しいと思うのだろう。
土方さんは笑う私を見下ろし、やがて居心地が悪そうにぶっきらぼうに言った。
「食え」
「こんなに食べられません」
「いつもこのくらい食うだろ」
「甘いものは胸焼けします」
「じゃあ俺も半分食ってやる」
土方さんが懐からマヨネーズを取り出す。私は慌てて箱を抱えた。が、土方さんも箱を掴む。
「えっ、ちょっと待ってください、今ですか? ていうか、半分にしてからそれかけてくださいよ!」
「ああん? 前から思ってたが、おまえマヨを蔑視しすぎじゃねえのか? マヨネーズは万物に合うように作られてんだよ!」
「あーっやめてくださいケーキがっ!」
わあわあと騒ぐ私たちをカップルが怪訝そうに見ている。死守したケーキは甘くて柔らかくて、舌に乗せると脆く溶けて消えていった。半分にしても、ケーキは胃にずしりと重たかった。
その後、清三郎くんは一週間ほどで定食屋のバイトを辞めてしまった。引越し業者のバイトに専念することにしたそうだ。チワワのような大きな眼差しは、もう私に輝きを向けなくなっていた。
「後輩、バイト辞めたのかィ」
沖田さんは野菜炒めを頬張った。焦げたハンバーグを食べて以来、沖田さんはきちんと営業時間内に来るようになった。
「男と女なんて相容れないのが当然なのよ」
間におばちゃんが入る。大方、店の常連さんに私たちの様子を聞いていたのだろう。クリスマスの晩に会っていたことなんかは知らないだろうが、男女の機微について大味に語ってくれた。出会ってすぐにうまくいくなんてことは、まず奇跡みたいなものらしい。
「それにね、ナマエちゃんにはもっといい男がいるわよ。清三郎くんも、いつかお似合いの女の子が現れる。二人とも、これからたくさんの人と出会えるんだから」
「若さって青春だな〜いいなあオイ!」
おばちゃんはキャベツを切り刻みながら、おじさんはフライパンを振るいながら言った。彼を傷付けたことを少なからず気に病んでいた私を、二人は明るく前向きな言葉で救ってくれた。この人たちのおかげで、私はここにいることができる。感謝してもしきれない。
興味なさげに話を聞いていた沖田さんは、「で?」と私を一瞥する。
「アンタはまだ土方さんと不毛な関係を続けるんで?」
「不毛でも、まあいいんですよ」
ゆっくりと笑うと、沖田さんは「あっそ」と相槌を打って箸を動かした。この人もまた、何を考えているのかよくわからない。
進むことも退がることもない。けれど、この関係を憂う必要などない。たまには肩を落としたり、泣きたくなるようなこともあるけれど、多くを望まなければ、きっと幸せは知らず知らずのうちに生まれてくる。
店の小窓に、見慣れた黒い隊服と、煙草を燻らせる横顔が見えた。立ち止まることも目を向けることもなく、通り過ぎていく。微笑する私を、沖田さんが「何ひとりで笑ってんでィ」と訝しげに見ていた。
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