日替わり、ニラ玉、日替わり、日替わり、唐揚げ、生姜焼き、ニラ玉、日替わり…以下続く。
サラリーマンが集う平日昼時の定食屋はいつも戦争だ。厨房でフライパンを振るうおやじさんの額に巻いたねじり鉢巻が開店時よりねじれているように見える。ホールでせっせと料理を運び、次々にレジへ会計にやってくるお客さんの応対をする私もまた、忙しなさに目を回していた。しかし忙しい時ほど妙に頭が冴えていて、ミスの一つもしないものだ。
「ナマエちゃんごっそさん。またなー」
「ありがとーございましたー」
十四時を回ろうかという時間になり、最後のお客が店を出て行った。速やかに暖簾を下ろし、店内へしまう。息を着く間もなく、エプロンを外す。
土方さんとの二度目のデート。待ち合わせは十五時。前回と同じ公園で会う約束になっている。着替えてダッシュで向かえば、十四時三十分頃には着くはずだ。しかし土方さんは以前三十分前には既に待ち合わせ場所に来ていたから、せめてあと二十分で到着するようにしたい。
「おばちゃん、スイマセン今日早上がりでお願いします!」
厨房で洗い物をしていたおばちゃんがカウンター越しに顔を出す。皿を洗う手は止めないまま、愉快そうに笑みを浮かべている。
「聞いてるよーナマエちゃん。彼氏とデートだってね?」
「かっ彼氏じゃありません!誰がそんなっ」
ホラを吹いたのだと言うより前に、おばちゃんの後ろで手を立てて申し訳なさそうに苦笑するおじさんが見えた。非難する相手が目の前にいたことに、思わず口を閉ざす。
この夫婦は仕事中こそおじさんが主導権を握っているが、日常生活ではめっぽうおばちゃんのほうが強い。大方、私が珍しく早上がりしたいらしいと聞いたので、勝手に彼氏とデートだと早合点したのだろう。常日頃からいい人はいないのかいと聞いてくるおばちゃんらしいと言えばらしいのだが。
洗い終えた皿を規則正しい配列で並べ、おばちゃんは相変わらずニコニコとしていた。
「今度その彼氏、連れて来てちょうだいよ」
「え、えー……」
「減るもんじゃないでしょ!」
減る。私の精神の容量が、確実に減る。
身嗜みを整えることもそぞろに、公園へ向かった。案の定、土方さんは前と同じ噴水の前で待っていた。ただ前回と違うのは、煙草を吸っていたことだった。私は土方さんが煙草を吸っているところを見たことがなかった。
名前を呼ぶと、目が合った。
「土方さん、」
「おう、ってなんだおまえ。走ってきたのか」
土方さんは、息を切らしている私を目を丸くして見る。
「だって、待たせてしまってると思ったので」
そもそも、あなたがこんなに早く来なければ私が急いで来る必要もない、と文句が脳内を過る。土方さんは煙草を携帯灰皿に入れ、事も無げに言った。
「男なんて待たせるくらいが丁度いいんだよ」
上がっていた息が止まった。色男がそんな台詞を吐くと、こんなに破壊力があるのか。
走ってきたせいの熱さとはまた違う熱さが顔に集中する。何も言わない私を土方さんは覗き込み、「ちょっと休むか?」と訊ねる。思わず私は一歩退き、大丈夫ですとかぶりを振る。
「ならいいが……」
土方さんはあっさりと引き下がる。そして公園の外に車を停めてあると言い、駐車場へ向けて歩き始めた。後ろを歩くな隣を歩けと以前注意されたので、私も並ぶ。気遣ってくれているのか、この前よりも少しゆっくりと歩いている気がした。頬を撫でる穏やかな風が、熱を持った肌に心地良かった。
目的地である水族館に着くと、入り口で受付のお姉さんにイルカショーやってますよと教えてもらった。(入館料は土方さんにまた奢られてしまった)しかし会場に着いたときには既にショーは終盤で、飛び跳ねるイルカを見て、最後にイルカとトレーナーの若い男性に手を振って終わってしまった。水族館なんて小さな頃に母親と来て以来だった私は、短時間でもそれなりに楽しめた。爽やかなトレーナーの男性の笑顔につられて手を振っていると、ふと隣の土方さんがこちらを見ていることに気が付き、首を傾げた。
「どうしました?」
「いや、なんでも」
歯切れの悪い返事にまた首を傾げた。
その後は、館内をあてもなく回った。幻想的な青い光に照らされ、水槽の中を優雅に泳ぐ魚たちは、人間のことなどまるで意に介していない。
「あ、土方さん、マグロですよ。美味しそうですねえ」
「泳いでる魚見て美味そうと思ったことはねーよ」
「わーサバですよ。そう言えば今日の日替わり定食、サバ味噌だったんです」
「おまえ食いもんにしか見えねえのか」
目に映るものに興味を奪われては、ちょろちょろと動き回る私に土方さんは律儀に付いてくる。映画館ではスクリーンしか見るものがなかったので落ち着かず土方さんのことばかり気になっていたが、ここではそんな事もない。元々生き物は好きだし、水族館が久しぶりなので、見るもの全てが真新しく見える。
サバ味噌美味しそうだったなぁと思い出していると、ふと、おばちゃんが口にした「彼氏」という言葉が浮かぶ。土方さんは見合い相手であって、彼氏ではない。そうなる事もきっとない。
父は私と土方さんをあわよくば結婚させて、何かしらのパイプを作ろうとしている。土方さんだって、それはわかっているはずだ。お互いに利益がなければこんな見合いなんてさせないだろう。しかしやはり疑問なのは、私よりもずっと良家の生まれで、利益を得られるお嬢様はごまんといるはずなのに、土方さんがわざわざ私に会っている理由だ。父に聞いた話によると、土方さんは今まで縁談を持ち込まれてもほとんど受けたことがないらしい。それが大手の銀行員とは言え、一介の会社員の娘と見合いをして何になると言うのだろう。一度だけ会って破談にする手ももちろんある。こうして何度も会う必要がどこにあるというのか。土方さんが私に好意を持っているようには全く見えない。
「おい」
「え、はい」
声をかけられ、慌てて返事をする。なんでしょう、と訊くと、眉根を寄せた土方さんに「急に黙るな」と言われた。つい思考を巡らせすぎて黙りこくってしまっていたらしい。
「さっきまで散々はしゃいでた奴が静かになると落ち着かねえだろ」
心配してくれていたらしい。というか、私そんなにはしゃいでいたのか。少し恥ずかしい。
土方さんの思惑は全くわからないけれど、きっとこの人は優しい人なのだ。態度や言葉はぶっきらぼうだけれど、端々にそれを感じる。
「スイマセン、ちょっと考え事をしてしまいました」
「また無理して笑ってたんじゃねえだろうな」
「え?いや、そんなことないです、すごく楽しいですよ!水族館なんてずっと昔にきただけなので」
「家族でか?」
「家族と言っても母と2人でですけど……」
どちらからともなく水槽の前を離れ、2階へ続くエスカレーターに乗る。上部を包むトンネル状の水槽には、名前もわからない何種類もの魚が縦横無尽に泳いでいた。陽の光が水を通して輝き、魚影が私と土方さんに斑模様を作る。
「母親って言っても、今一緒に暮らしてるのは父の再婚相手なんです。私は前妻の娘で、水族館に来たのは実の母親とで。まあ、その実の母親と出かけたのもそのくらいしか記憶がないんですけどね……。あ、父からウチのその辺の話って聞いてますか?」
「……離婚したとは聞いてなかったが」
「あ、離婚っていうか、母は私が寺子屋に通っているときに病気で亡くなったんです」
今更感傷に浸るような話でもないので、私は乾いた温度で話した。エスカレーターを降りる。土方さんは無表情だった。
「なかなか自由な母親みたいだったんで、まあ因果応報っていうか、私もそうならないようにしなきゃなーなんて思うんですよね」
あはは、と笑う。作り笑いをやめろと言われていたことを思い出し、手で口元を覆う。母が亡くなってから今まで、周囲の人間からは散々同情の言葉をかけられ、ときには遊び人だった母親に対する侮蔑を私へ当て付けられる事もあった。それらから身を守るための、物心ついた頃の私なりの自衛だったのだ。
2人揃ってエスカレーターを降りると、すぐにイワシの魚群が泳ぐ水槽がある。一糸乱れぬ群れを成し、イワシは泳いでいる。太陽が近付いたせいか、反射する鱗の光が眩しくすら見える。
「つまんねえな」
土方さんは水槽の前で足を止め、イワシに向かって低くこぼすように呟いた。しかし、其の眼差しはすぐに私へ向けられる。
「俺ァおまえの母親がどんな人間だったかなんて、興味ねぇよ」
目を逸らせないまま、私は立ち尽くす。
「おまえは母親と同じ生き方してんのか?」
「……いえ」
「おまえは、おまえでしかねぇんだよ」
土方さんからは、同情など微塵も感じられない。光るイワシの鱗が眩しい。それは太陽光と合わさって、土方さんの目を細めさせた。
「……フライ、食いてぇな」
じわりと目の奥が熱を持つ。冷めたはずの頬までも、熱を取り戻していくようだった。どうして泣きたくなるのか、さっぱりわからない。
「……私はなめろうが食べたいです」
「渋いなオイ」
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