蝉の鳴き声が辺りを包む。夕暮れ時、私は定食屋のバイトからの帰路についていた。足が棒のようになっていて思うように進まない。いつも昼間は地獄のように忙しいが、今日は普段の倍の客入りだった。こういう日がなんの前触れもなく来る。立ちっぱなし、動き回りっぱなし、更にずっと声を張り上げていたせいで喉も若干痛い。今日は早く帰って休もう。そう決意しているときに限って予定が狂う。
 懐から着信音が響く。携帯電話の画面を見ると、土方十四郎の名前があった。数秒間、画面を凝視したまま硬直した。しかしその間も早く出ろと急かすように着信音が鳴り続ける。私は意を決して通話ボタンを押した。

「もしもし」
「おう、やっと出たか」
「お待たせしてスイマセン……」
「いや、電話に出ただけで及第点くれてやる」
「激甘採点ですね……」

 私には以前、携帯電話の電源が落ちてしまい、土方さんからの電話に出られなかった前科がある。さすがに申し訳なかったので、以来充電は常に満タンにするよう心がけている。しかしそれからは一度も土方さんからの連絡はなく、私の心がけは杞憂に終わろうとしていた。というより、土方さんから連絡が来ることも久しぶりだった。元々多忙なようだし、今までは無理にでも時間を作ってくれていたのかもしれない。
 電話の向こうで息を吐く音がする。煙草を吸っているようだ。

「これから時間あるか?」
「え、あー」
「あんのかないのかどっちだ」
「ありすます」

 半ば反射で返事をする。焦りで噛んでしまったのに、電話口では素通りされた。

「じゃあ飲みに行くぞ」
「は」
「酒飲めんだろ?」
「……ハイ」

 土方さんと初めて会った日から、一つの季節が終わった。あの豪勢な食事と真新しい畳の匂い、気慣れない高価な着物で始まったお見合いも、今や大衆居酒屋で安いつまみでお酒を酌み交わす程度にまで進歩した。進歩とは言えないかもしれないが、少なくとも退歩ではない。
 
「そういや、おまえが飲んでるのは初めて見るな」

 冷酒を仰ぐ私を土方さんは一瞥した。もうその端正な顔は見慣れたと言いたいところだが、未だにその目に見られると緊張する。本人に自覚がないから質が悪い。しかし生まれつきこの顔で生まれてきたのだから、今更頓着するようなことでもないのかもしれない。

「普段はあんまり飲まないですね……たまに息抜きに三合缶買って家で飲むくらいです」
「ビールのがいいか?」
「いえ、お酒も好きなんで」

 煤けた壁に貼られたメニューを見遣る土方さんを制する。カウンターの向こうでは、ねじり鉢巻の店主が焼き鳥をひっくり返している。まだ日の沈みきらない時間で店内に人影は疎らだったが、換気扇の音のおかげで静けさはない。ごうごうと古い換気扇が羽を回している。
 土方さんが触れてこないので少し躊躇われたものの、私は先日の件を謝る。

「あの、この前はすみませんでした。電話……」
「……ああ、別に」
「家にまで来てもらったみたいで。妹に聞きました」

 百々子には、あのイケメンがお見合い相手なのかとしつこく問い質された。しかし、あんな男前が見合い相手の訳がないと言って強引にごまかした。落とし物をしてそれを警察へ問い合わせていたのだと適当にも程がある嘘を言ったら、百々子はふーんと唇を尖らせて渋々引き下がってくれた。落とし物の預かりが真選組の仕事なわけがないし、そんなことで家まで来るわけはないのだけれど。
 しかし土方さんと百々子が会うことになるとは思いもよらなかった。それに土方さんは家に来たことなどなかったはずなのに、なぜ私の家を知っていたのか。諸々と気になることはあったけれど、触れないことにした。

「おまえの妹、まだ小せぇんだな。十歳くらいか?」

 カウンター越しに店主の腕が伸びてくる。無愛想に無言で置かれた皿には、焼き鳥が並んでいる。土方さんは携帯しているらしいマヨネーズを躊躇なく焼き鳥へぶっかける。いや、タレと相性はいいだろうけども最初はそのまま食べたほうがいいんじゃないだろうか。店主を一瞥してみたが、幸い客には興味がないようでこちらに背中を向けていた。

「もうすぐ十歳になります。あ、なんか変なこと言いませんでした?」
「変なこと?」
「いや、なにも言わなかったんなら全然いいんですけど」
「……おねーちゃんの彼氏ですかって言われたな」

 串が喉に刺さりそうになった。

「あのアホッ……」

 串を持った手が震える。怒られることをわかっていて、あのとき私に言わなかったな。

「違うっつっといたけど」
「そうですね違いますもんね」
「しかし、すぐに玄関開けるのはどうかと思うぞ。家に一人だったんだろ?」
「あーそれは私からも母からも注意されてるんですけど、なんていうか警戒心ゼロで。人懐っこい犬みたいなんですよね。お客さんに全力で尻尾振って寄ってっちゃうみたいな」
「ひでぇ言い草だな」

 ふ、と土方さんが口元に手を置いて笑う。僅かに細められた目がいつになく穏やかだ。お酒の力かもしれないけれど、そんな些細なことに喜んでしまっている自分がいる。
 土方さんの存在が大きくなっていることは自覚している。惹かれていると言っていい。ただ、これが恋なのかと訊かれるとそうではない。この人の言動に胸が揺さぶられるのは、単に土方さんの見た目が良いということだったり、異性との交際経験のない私の経験値の低さからくるようなものだと思う。恋と銘打つにはまだ形にならない。きっと形になる前に、この逢瀬も終わるときが来る。

「妹のことになると饒舌だな」
「え?そうですか?」
「誰かのことそんなに喋ってんのも初めて見る」
「それじゃ私が人に興味ないみたいじゃないですか」

 土方さんの猪口が空いている。徳利に手を伸ばそうとしたけれど、先に土方さんがそれを取ってしまった。手酌をして、私の直にもお酒を注ぐものだから恐縮してしまう。
 いつもはビールばかりなので、お酒を飲むペースがいまいち掴めない。少し頭がふわふわとしてきているが、思考回路は正常に繋がっている。ただ、土方さんの言う通り普段よりも口がよく回るようになっていた。日が沈むに連れて店内に活気が賑わい始め、背中に感じる熱気や愉快な話し声にも押されている。

「私にとっては妹が一番なんです。血も繋がってないけど、てゆーか百々子はそんなこと知らないんですけど」

 気が付けば空の徳利が増えている。土方さんの頬も少し赤い。なんか可愛いなあ、と年上、しかも成人男性に抱くような感想ではないけれど、そう感じざるを得ない。しかし口に出すほど酔っ払ってはいない。

「あの子には、苦労も面倒もかけたくないから……」

 木製の机の上に腕を置いて頭を乗せる。土方さんは頬杖をついている。妹の話が出たから流れに任せて喋っていたけれど、土方さんにとってはどうでもいいことだっただろう。でも、私と土方さんに共通の話題なんてない。今までどんな話をして時間を過ごしていたのか、アルコールのせいかよく思い出せない。
 ワッ、と後ろで一際大きな歓声が上がる。頭を持ち上げて振り返ると、サラリーマングループの一人が奇妙な踊りを披露していた。盆踊りにもなっていないが、周囲の人は顔を赤らめて楽しげに手を叩いている。

「かんざし、つけてねえのか」

 揃ってはズレていく手拍子に耳を傾けていたせいで、土方さんの声を聞き逃した。

「なんか言いました?」
「……」
「土方さん?」
「なんでもねえ」
「なんか言ったじゃないですか」
「なんも言ってねえ」
「気になるじゃないですか」
「気にすんな。もう帰るぞ」

 結局土方さんがなにを言ったのかは聞けなかった。蒸し暑い夜道を人混みに紛れて歩く。隣の土方さんとの距離が縮まっては少し離れてを繰り返す。時折吹く風は生温く、背中に滲む汗をちっとも乾かしてはくれなかった。
 自宅の門前に、一台のタクシーが停車していた。タクシーから降りてきた人影がライトに照らされている私と土方さんを見留める。シルエットだけでわかる。あれは父だ。

「やあ、土方くんじゃないか」

 顔を綻ばせる父とは反対に、自分の顔が固まるのがわかる。思考回路は正常だが、表情筋はうまく言うことを聞いてくれなくなっていた。しかし父の視界には私など入っていないようで、大仰に手を広げて歩み寄ってくると、土方さんと握手を交わした。土方さんはさすがと言うべきか、軽く笑みを見せていた。

「ご無沙汰しています」
「どこか行っていたのかい?」
「ええ、今日は飲みに行っていました。すみません、お嬢さんを夜まで付き合わせてしまって」

 土方さんの口から出たお嬢さんという響きに違和感を覚える。絶対に普段は言っていないだろうとわかるが、淀みなく出てきている。やはりそれなりに場数を踏んでいるのだろうか。
 父は「とんでもない、仲良くやっているようで何よりだ」と頷いた。狸親父め、と内心毒づく。

「そうだ。今度三人で食事に行こうか。良い店があるんだ」
「えっ?」

 素っ頓狂な声を上げた私を他所に、父の提案に土方さんはそうですねなどと答えている。意気投合している二人に嫌だなどと言える雰囲気ではない。
 そもそも、端から私に拒否権など与えられていなかったのだ。





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