立ち並ぶ屋台から香るソースの匂いや甘い匂いに、いちいちお腹が反応する。目移りするほど食べ物が多く、つい財布の紐が緩みそうになる。
「おねーちゃん、金魚飼いたい」
「生き物はだめでーす」
百々子が唇を尖らせる。江戸の一角で毎年開かれている夏祭りに私は百々子と来ていた。ここ何年もアルバイトを詰め込んでいたので祭りに来るのは久しぶりだった。子ども用の浴衣をお母さんに着せてもらい、お小遣いの入った巾着袋を首から提げた百々子は意気揚々としている。私は普段着の着物だったけれど、賑やかな雰囲気と食べ物の匂いに惹きつけられて、内心舞い上がっていた。
しかし、祭りの開かれている神社周辺に見える黒い隊服がいちいち目に付いて気になっていた。あれは真選組だ。人の集まるところではトラブルが起こりやすい。警備でもしているのだろうか。しかし土方さんらしい姿はない。
「おねーちゃんお面!お面買いたい!」
ちょこまかと動き回る百々子の姿を見失わないように後を追う。習い事や塾で普段遊ぶ時間のない百々子は、ここぞとばかりに目に付くもの全てに飛びついていく。いつぞやに土方さんと水族館に行った日のことを思い出す。私もあんな感じだっただろうか。しかし子どもなら無邪気で済まされるが、大人ではただの落ち着きのない人になってしまう。あのときの羞恥が蘇ってくる。
百々子はピンクのウサギのキャラクターのお面、私は特撮ヒーローのお面を買った。日常では絶対に買わないし身に付けないものだが、こういう非日常だからこそ楽しめるものだ。百々子と二人なら気兼ねも必要ない。二人でお面を頭に斜めに付ける。
「お揃いが良かったのにー」
「二十歳過ぎてその可愛いの付ける自信ないわ」
「おねーちゃんはかわいいよ!」
「はいはいありがとね」
夜が更けるにつれて、人出が増えてくる。客引きの威勢の良い声や行き交う人々の熱気に揉まれて気温は上昇しているように感じる。小さな百々子を見失わないように手を繋いで歩く。気温のせいか百々子の手は熱い。熱が篭っているのだろうか。途中でメロンのかき氷を買って二人で分けた。ストローを切って作ったスプーンではなかなか掬いにくく、二人で食べてもかき氷はなかなか減らなかった。ほとんど水に近付いた残りを私は喉へ流し込んだ。舌を出して「緑になってる?」と聞いてくる百々子に私も舌を出して頷く。
甘いものを食べたあとはしょっぱいものが食べたくなる。私はずっと狙っていた屋台へ目を向けた。
「ねえ、もも、おねーちゃんたこ焼き食べたいんだけど」
「えーしょうがないなぁ」
「いやお金出すの私だからね」
屈託のない笑みを向けてくる百々子につられてしまう。家に居着かなかったせいで、これまで百々子と二人で過ごす時間はほとんどなかった。幼い頃からほとんどかまってくれた試しのない姉のことなど姉と思われなくても仕方がない。しかし、百々子はいつでも私の後を無邪気に追ってきた。そんな姿に救われているのは多分私のほうだった。自由奔放だった母、無関心な父、そして新たに出来上がった家族の形に馴染めない私に、百々子は寄り添ってくれている。
神社の隅に設置された竹のベンチに腰掛けてたこ焼きを食べる。もうじき花火が上がるらしく、人並みが一定方向に流れている。神社から丘の上へ繋がる石階段を上がると見晴らしのいい丘の上に出るので、そこが絶景スポットなのだろう。たこ焼きを食べ終え、早く花火を見たいと急く百々子を宥めてトイレへ行くことにする。ベンチに百々子を置いていくのは少々不安だったので、公衆トイレの前で待たせることにした。
しかし、トイレから出ると百々子の姿がなかった。辺りを見回しても知らない顔が連なっているばかり。背中に冷や汗がどっと流れる。
「百々子ー?ももー」
トイレの周りをぐるりと回る。鬱蒼と茂った雑草が着物を擦る。名前をいくら呼んでも返事はなく、私の声は人の流れに飲み込まれてしまい全く響かない。階段を上がっていく人達とは反対に神社を出て屋台のほうへ戻っても姿がない。先程たこ焼きを買った屋台のおじさんの元へ駆け寄る。
「すいません!このくらいの女の子見ませんでしたか⁉」
背丈をジェスチャーで表し訊ねる。鉄板に付いた生地をこそげ落としていたおじさんは、私の必死の形相に気圧されながらかぶりを振る。
「え?いやぁ、見てないけど」
「さっき私と一緒にいた子なんですけどっ」
激しい爆発音が轟くと共に、地面が揺れる。おじさんが「うおっ!」と体を縮こまらせ、鉄板の上のキリが転がって地面に落ちる。私も反射的に身を縮めたが、すぐに音の出所である神社の上を見上げる。丘の上から白煙が上がっていた。叫び声が聞こえてくる。
「な、なんだァ⁉」
おじさんが身を乗り出して丘を見上げる。周囲の屋台の店番も次々に店から出てくる。しかし誰も状況を理解できずに立ち尽くすしかなかった。階段を上がっていた一団が揉み合いながら駆け下りてくる。私は口を開けたままその一団へ向けて走り出す。背後でおじさんが私を引き止めようとする声が聞こえた。
向かってくる肩にぶつかりながら階段を駆け上がる。高さはないくせに段数が多く、人混みにも紛れてなかなか前に進まない。焦りと苛立ちで歯を食いしばる。まとめていた髪が崩れ、首筋に張り付いてくる。頭のお面が邪魔くさく、紐を首に掛ける。取り払いたいのは山々だが、百々子の顔が浮かぶとそれもできなかった。
人混みを抜け、階段の中腹に出る。白煙は既に見えないが、焦げ臭い匂いがする。先程の爆発は何かの火薬だったのかもしれない。
膝に手を付いて切れる息を整える。顎から滴る汗を手首で拭い、上ってきた階段を振り返る。抜けてきた人混みが下方に見える。パニック状態の人々を真選組が誘導していた。目を凝らしても百々子はどこにもいない。私がトイレに入っていたのはせいぜい三分くらいだ。たったの数分で百々子がそう遠くまで行くとは考えられない。そもそも、待つということのできない幼児でもない。考えられるのは、この喧騒に乗じて人攫いに遭ったということだ。この爆発と何か関係があるのだろうか。
噎せそうになり、唾を無理やり飲み込む。階段の先を見上げると、いくつかの動く影が見えた。怒声と金属音が微かに聞こえる。張り付く髪を避け、再度足を踏み出そうとしたとき、階段から剣を握った真選組の隊士が下りてきた。周囲が薄暗くよく見えないが、土方さんではない。つるんとした癖のない淡い色の髪に、中性的な顔立ち。お堅い隊服に身を包んでいるが、まだ若い青年であることが窺える。彼は人がいるとは思っていなかったのか、私と目が合うと数段上で足を止めた。
「あんた何してんでィ。逃げろっつーのが聞こえなかったのか」
「え、いや、」
言い淀んでいると、彼は顔を顰め、舌打ちをした。そして剣を構え階段を飛び降り、私の背後へ着地した。振り向くと、顔に飛沫が飛んできた。思わず目を瞑ったが、鼻腔を掠めるのは紛れもなく血の匂いだった。恐る恐る目を開けると、足元には二人の男が血を流して倒れていた。真後ろに立った青年が剣を振り払うと地面へ血が跳ねた。
目の前で起こった事象に頭が追いつかない。どろどろと腹から血を垂れ流している男に呆けていると、手首を掴まれ、脇の茂みへ引っ張られた。青年に手を引かれるがままに木の陰にしゃがみ込むと、口元を手で覆われる。「ん⁉」と驚きを声と共に目で訴えると、青年は声音を落として囁く。
「静かにしろィ」
足音がいくつも重なる。びちゃりと草履が水音を弾く。数人の男の声が聞こえてくる。
「くそ、ほとんどやられちまったか」
「とっくに姫さんは逃げたらしいぞ」
「しかし真選組の戦力を削ぐことができれば」
心臓がドクドクと鳴っている。男たちがその場を離れていくのを見計らい、青年はやっと私の口から手を離した。満足に空気を吸い込むことができなかった肺が、性急に酸素を求める。
「っはあ、」
「近藤さんが付いてりゃ姫は無事だな」
「……なにが起こってるんですか?」
青年は私を一瞥する。答えてはくれないかと思ったが、数拍置いて青年は口を開いた。
「奴らはXXXビルの事件で取り逃がした攘夷浪士共だ。当初の見立てでは小人数のグループだったが、存外規模のデカい組織だったらしい。まさかこんなに早く体制を立て直してくるとは思ってなかったが……」
へたり込んだままの私の腕を引き上げ、青年は山道を指差す。
「アンタはここから逃げろ。ここから下ればすぐに屋台のほうへ出られまさァ」
「……っ妹が見つからないんです!探してるんですけどどこにもいなくて!」
「妹?」
「お金なんか持ってないし、一人で帰れるわけがないのに……何か巻き込まれてるかも、」
「ちょっと落ち着け。下であんたのこと待ってるって可能性はねーのかィ。もしかしたらとっくにウチの隊士が保護してるってこともある」
宥められても全く気が休まらない。姿を見るまではなにも安心できない。しかし言われたように、もしかしたら真選組でなくても誰かが迷子だと思って一緒にいるかもしれない。希望的観測に過ぎないが、可能性はなくも無い。
「いやぁっ!」
甲高い厭悪の声がする。耳馴染みのあるその声に、思考よりも先に体が反応した。片手に剣を持った恰幅の良い男が、百々子の首根っこを掴んで階段を上がってくる姿が見えた。引き摺られる百々子は段差に躓き、男の手を離れ石段の上に正面から転んでいった。さっきまでろくに力の入っていなかった足が、まるで弩にでも弾かれたように飛び出した。視界の隅で青年が手を伸ばす様が見えたが、その手は私に届かなかった。
雑に固められたアスファルトの上にうつ伏せになっている百々子の肩を抱く。額に擦り傷を作った百々子は私の顔を見ると、呆けた顔を徐々に歪ませ、涙を目に溜め、口元を震わせた。言葉にならない声を漏らす百々子を抱きしめる。目頭がぐっと熱くなる。汗の匂いが私のものか百々子のものかわからない。
「なんだぁこのアマ?」
頭上から男の声が降ってくる。顔を上げると、周囲を浪士たちに囲まれていた。皆一様に目をぎらつかせ、手には剣がある。私が飛び出した後の茂みから、首に刃を突きつけられた青年が浪士に押さえられながら出てきた。背中で手を拘束されてるらしく、身動きの取れない状態になっているようだった。数センチでも刃を引けば首をかき切られるような状況下だ。しかし、彼の表情は涼しげだった。私のほうはと言うと、百々子の無事が確認できたことに一度は安堵したものの、この状況に再び冷や汗が流れ始めていた。
百々子の手が私の着物を強く掴む。震えそうになる掌で、百々子の肩を引き寄せる。小さく「おねえちゃん」と呼ばれる。恐怖に押し潰されそうになろうとも、私には護るものがある。先程青年が斬り倒した男の剣が手元に転がっていた。それを握りしめ、刃を立てて浪士たちを睨みつける。
「……殺したきゃ私だけを殺しな。この子に手ェ出したら、おまえら全員ぶっ殺す」
初めて持った剣は、想像よりもずっと重かった。
正面に立っていた浪士が額に青筋を浮かべる。
「いい度胸だなぁ姉ちゃん。しかし、手が震えてるぜぇ‼」
浪士が剣を振り上げる。百々子の肩を抱いていた手を離し、両手で剣を構える。剣術なんか習ったことのない私の構えが防御になるはずがない。防ぎ切ることができなければ、私が盾になる。瞬時に脳内で自分の動きをシミュレーションする。しかし、剣が交わることはなかった。真横から槍のように飛んできた剣が、浪士の振りかぶった腕を貫通したからだ。浪士は「え」と間抜けな声を溢し、噴き出す血と剣に貫かれた自身の腕を見て、絶叫した。その場に膝から崩れ落ち、目を剥いている。
「おせーんでィ、土方コノヤロー」
青年は呟き、身を翻し背後の浪士の顎を蹴り上げた。呆気に取られていた浪士は容易く倒れ込んだ。そして地面に落ちた剣を拾い上げ、次々に浪士たちを斬り付けていく。私の目ではとても追いつけないほどの速さだった。そこら中に飛び散る血飛沫に、私は咄嗟に百々子の頭を胸に押さえつける。百々子はもはや声も出ないのか、震えるばかりでなにも発することがなかった。
「あああああっ‼」
次々に薙ぎ倒されていく仲間たちの姿に自棄を起こした浪士の一人が、がなりながら私と百々子へ向かってくる。手放しそうになっていた剣を再度握ろうとしたとき、目の前に真っ黒いものが現れた。その黒い背中は、私の知っている背中だった。
足元に浪士が倒れる。こちらを振り向いた土方さんの手に、血の滴る剣がある。目が合って、しかしかける言葉が見つからず、私はただ口を開けたまま唖然とする。口内がカラカラに乾いていた。
←
top
ALICE+