サイレンのけたたましい音が響いている。人の声と食べ物の匂いで賑わっていた祭り会場は一変、血生臭い戦場と化し、真選組によって攘夷浪士は全員討ち取られた。XXXビルでの事件はようやく解決へ向かおうとしている。人払いの行われた会場で、私と百々子は身を寄せ合って突っ立っていた。百々子はずっと私の足に絡みついている。着物に顔を埋め、一言も喋ろうとしない。
百々子の頭を撫でながら、連行されていく生き残りの浪士たちを眺めていた。視線を少し離れたところにいる土方さんのほうへ移す。土方さんは淡色の髪をした青年と並んで立っている。サイレンの音がうるさくて二人の会話は聞こえないが、土方さんがこちらを一瞥した。視線がぶつかったものの、すぐに逸らされる。
人の血が止めどなく流れるところを初めて見た。人が死んでいくところを見るのも、もちろん初めてだった。凄惨な現場を見た後だというのに、不思議と心が凪いでいる。おそらく脳の処理が追いついていないのだろう。
「百々子!ナマエ!」
会場の外に停まったタクシーから、一人の女性が降りて駆け寄ってくる。その声に反応した百々子が、「お母さん!」と走り出す。足にくっついていた温もりが途端に消え、私は抱き留められる百々子の姿を見つめた。サイレンに負けじと大きな声で百々子が泣き出す。たっぷりと水を蓄えた水風船が割れたようだった。心配をかけまいと涙を流すことを我慢させてしまっていたことに、私は今更気が付いた。
お母さんが百々子の背をさすりながら、私を見遣る。心底安堵している表情だった。しかし私は百々子のように駆け寄ることはできず、曖昧に笑みを作って無事であることを暗に告げる。ここで歩み寄ることができたなら、もっと良い娘でいられただろうか。こんな打算的なことを考えている時点で、良い娘とは言えないのだけれど。お母さんは縋り付く百々子の頭を包み込み、何か言いたげに眉尻を下げた。
その後ろから、人混みをかき分け突き進んでくる男がいる。父だった。大股で真っ直ぐにこちらへ歩んでくる。その表情ははっきりとは見えないが、纏う空気は穏やかではない。他人の目がある場では決して見せない、ささくれだったものだった。
父は百々子を抱いているお母さんの肩を軽く押し除け、無言で私の前に立った。そして手を振りかぶると、渾身の力で私の頬を張った。地面に転げる私を見下ろし、わなわなと唇を震わせながら怒号を飛ばす。
「おまえがついていながら、なぜこんなことになる⁉」
ぶたれた頬に徐々に熱が帯びてくる。口内から鉄の味がする。痺れる頬に触れてみるが、感触がない。見上げた父の顔からは怒りと憎しみが溢れている。見たことのある表情だった。しかしそれは、私に向けられていたものではない。ずっと昔のことだ。死んだ母に向けられていたその目が、今は私に向けられている。
「なぜおまえがついていて、こんな事になる!」
拳で頭を殴られる。上半身がよろけて、固い地面に手を擦り付ける。掌の皮膚が破れたことがわかる。
妹のお守りもできないだの、のろのろしているからこんなことに巻き込まれるだのと一頻り私を怒鳴った後、肩で息をしながら父は侮蔑の笑みを浮かべる。
「……おまえはやはり、あの女の娘だな。頭が悪くて、ろくなことをしない。傲慢で自分勝手、己のことしか眼中にない」
「……」
頬は痺れるし頭は鈍く痛む。砂の付いた掌からは血が滲みはじめていた。じわりと流れる血を見ていると、血溜まりに沈む浪士の姿が浮かぶ。こんな些細な傷では死なない。私は口の中に溜まった血を父の草履目掛けて吐き出した。赤い塊は爪先に僅かに染みを作った。眉間に皺を寄せる父を睨め上げる。
「その台詞、そっくりそのまま返しますよ、お父さん」
「……っ貴様」
父が怒り一色に染まった拳を振り上げる。その拳を背後から掴んだのは、土方さんだった。いつもと変わらない声色で、土方さんは「もういいでしょう」と父を嗜める。しかし、怒りの矛先は土方さんにまで向けられる。
「土方くん、警察たる君が一般人を守らず何をしていた?捕まった浪士は以前の事件の逃亡犯だったらしいじゃないか。所詮、肩書きだけの間抜けな田舎猿どもの集団だったということか」
とてつもない侮辱に私が身を起こして反発しようとすると、土方さんが制するように先に口を切る。
「百々子さんに怪我をさせてしまったことはお詫びします。」
勢いを削がれた私は言葉を沈める。振り上げたままになっていた父の腕が軋む。それに伴い、父の表情が怒りから苦悶へ変わる。土方さんの手に力が込められているようだった。彼は不気味に口角を上げ、しかし眼光鋭く父を見下ろした。
「……だがこれ以上コイツに手をあげるなら、傷害罪で今すぐにあんたをしょっぴいてやる」
その気迫に圧されて父は怯み、土方さんの手を無理やり振り払った。掴まれていた腕を摩りながら忌々しげに私を睨み、そして土方さんへ吐き捨てる。
「見合いは終いだ。金輪際、私に近付くな」
こちらへ向かってきたときと同様に、父は大股で去っていく。百々子の潤んだ瞳と、眉尻を下げたままのお母さんが私を見ていた。しかし、父は二人を引き連れ、タクシーに乗り込んでいった。あの人の家族に私は含まれていない。そんなことはずっと前から知っている。家族を危険に晒してしまった私を怒るのは当然のことだった。
差し伸べられた手を見上げる。土方さんが「立てるか」と訊ねる。手を伸ばそうとして、血が出ていることを思い出して引っ込める。
「どうした」
「……擦りむいて、汚いですから」
言い切る前に、手を掴まれて引き上げられる。掌が擦れて痛みが走るが、顔を歪める隙もない。ふらつく足をなんとか支え、軸を立て直す。夜風が煙草と血の匂いをなびかせる。
「オイ、総悟!車一台使うぞ」
「なんですかィ土方さん。女連れ込んでカーセック」
「言わせねぇよ⁉」
我が家?と土方さんのツッコミにとある芸人さんの顔が浮かぶ。土方さんは私を一瞥し、「送るだけだからな」と念押しをした。そんなことはわかってます、と言いたかったが、うまく口が回らなかった。
運転席の土方さんを見遣る。全開の窓から吹き込む風に黒い髪が揺れている。相変わらず横顔が端正すぎる。ただ、咥えた煙草から漂う紫煙が、風向きによって私の顔面へ向かってくるのはいただけない。どのくらい副流煙を吸い込めば肺が真っ黒になるのだろう。
夜の深まる江戸の町は、昼間とは少し違う顔色を見せる。ホストにホステス、水商売をする人々が輝いている。パトカーはネオン街を抜け、閑静な住宅街へ入っていく。徐行運転をする土方さんがおもむろに口を開く。
「俺は、おまえのことを勘違いしていた」
「……はい?」
急に何を言い出すのかと首を捻る。お面の紐が擦れて痒くなってきたので、首から外して手に持った。傷のある手に巻いた黒いハンカチは土方さんのものだ。
「親父の利権のために利用されていると知りながら、逆らうこともせずただ言いなりになっている、酔生夢死な人生を享受しているような女だと思っていた」
「……現にその通りじゃないですか」
「そんな奴が、妹のために剣持った野郎相手に啖呵切ったりしねえよ」
指で弄んでいたお面の紐が切れる。ゆっくりと流れる景色は見慣れたものになっていく。やがて自宅まで百メートルほどのところで車は停車した。エンジンを切ると、辺りは静けさに包まれる。明かりのついている家は疎らで、人気もない。
「おまえの親父は今でこそ次期頭取になる男だ。しかし以前はそれほど優秀な奴ではなかった。出世コースに乗り遅れたおまえの親父は、てめーをどうこうするよりまず同期を蹴落とすことに尽力した。汚いこともした。しかしそれもうまくいかねえと家で母親に当たり散らすようになった。母親は嫌気がさして外に男を作った。そのうち母親は病で伏せ、おまえを残して死んでいった。やがて親父は再婚し、新しい家族ができた。利口な妻に目に入れても痛くないほど可愛い娘だ。その輪の中に自分がいないとしても、おまえは新しくできた家族を壊さないために、父親の言いつけは全て守ると決めた。自分が言うことを聞いているうちは義理の母親にも妹にも皺寄せがいくことはない。表面上だけでも、俺とうまくやっていこうと思っていたわけだ。どうせ俺が先に断ると考えてな」
土方さんの口から語られる全てが胸に落ちてくる。長い指先が、車内の灰皿へ吸い殻を落とす。
「……すみませんでした」
かろうじて出た言葉は情けない謝罪だった。
「なぜ謝る?」
「……助けてくれたのに、土方さんを利用しました」
「それなら俺も同罪だ。おまえのことも、おまえの周囲のこともあれこれ調べ回ってたんだからな」
俯いた私の目には、膝の上で丸くなる私の手を映している。斬られそうになったときに現れた土方さんの背中を見たとき、心の底から安堵していた。生きる世界どころか次元が違うはずなのに、この人は時々容易くそれを飛び越えてくる。遠くに感じていたはずなのに、いきなり目の前に現れるのだ。
ふー、と土方さんが煙を吐き出す。風は止み、煙は窓の外へ流れていった。
「おまえは戦ってた。護るべきものを護るために。俺は、そういうやつは嫌いじゃねえ」
頬を伝う涙が生温い。何度目を擦っても止まることがない。鼻水まで出てくる始末だ。土方さんは「それに」と続け、私を見てなにかを逡巡し、煙草を二度、三度吸い、エンジンをかけ直した。呻るような音を上げ、車が走り出す。
「俺は、おまえが護ってるもんを壊すことになる」
←
top
ALICE+