とても深い穴が開いていた。恐る恐る穴を覗き込むと、そこはもぬけの殻だった。首を捻る私に背後から声がかかる。
「落ちやすぜ」
振り返ると、そこに立っていたのは沖田さんだった。冬だというのにベスト姿でシャツは腕捲りしている。手にはスコップが握られており、頬には土汚れが付いていた。私はすぐに事態を把握した。屯所に突如出来上がった穴は彼の手によって作られたものだった。これはある特定の人物を罠に嵌めるためのものなのだ。
「土方さん、落ちないと思いますよ」
「これからうまくカモフラージュするんでさァ」
そう言うと、沖田さんは穴の上にビニールシートを広げ、土をせっせと被せていく。用意周到だ。そのやる気は仕事に向けることができないのだろうか。しかし、その明後日の方向へ向く意欲を今更捻じ曲げることもせず、私は上空を飛ぶ異国の船を見上げた。舞い上がる落ち葉が風に乗って飛ばされていく。
桜の咲く頃に江戸へ出てきて、早いもので寒風の吹く季節になった。年を取るたびに一年が過ぎていくのが早くなっていくけれど、今年はまさにあっという間だった。内外問わず変化が目紛しい数ヶ月だった。
「普段のヤローなら」と沖田さんがスコップで土を拾いながら言った。
「こんなもんすぐに気が付くだろうけど、今の土方さんならゴキブリホイホイにかかるゴキブリと一緒でさァ」
「ゴキブリ?」
「ゴキ方」
「絶対怒りますよ」
穴の下から怒声を飛ばす土方さんの姿は想像に容易い。苦笑している私を沖田さんは一瞥した。
「ナマエさんのことでまだ自分を責めてるんでィ、あのヤローは」
真紅の瞳はすぐに逸れ、沖田さんはスコップで土を拾う。私は少し間を置いて、そうですねとだけ答えた。沖田さんは黙って土を均していた。
土方さんの恋人と勘違いされた私は、攘夷浪士に攫われ、人質として捕らえられた。銀時が助けに来てくれたおかげで大きな怪我もなく無事ではあったけれど、土方さんは私を危険に晒してしまったことを内心ひどく気に病んでいるようだった。
土方さんの心情は理解できる。しかし、土方さんを責める気は毛頭ない。今後同じことがないとは限らないと言われ退職を勧められもしたけれど、私はにべもなく断った。右も左もわからないこの街に来たばかりの頃からずっと変わらず在り続けるこの場所は、私にとってはとても大切な場所だ。本当にいたい場所があるなら簡単に手放してはいけない。以前、神楽ちゃんに言われた言葉だった。
「全く湿気っぽくて鬱陶しいや。こっちまで調子狂いまさァ」
「もしかして、落とし穴で元気付けようとしてるんですか?」
「そう思うんで?」
「……ただの嫌がらせとしか」
「正解」
にやりと沖田さんは笑った。土の上に抜けた雑草をまばらに散りばめると、もうどこが落とし穴なのかわからなくなってしまった。土方さんが通る前に他の隊士が落ちてしまいそうだ。
「まぁしかし、今回のことは確かに土方さんに非がある」
スコップを放り、肩口で頬を擦りながら沖田さんは言った。客観的意見だった。
「ただ、そんなの関係なく俺はアンタにはここにいてもらわねえとダメなんでねィ」
主観的な意見に切り替わる。いつも飄々としている沖田さんにしては出意外だ。
「どうしてですか?」
「死に水を取ってもらわなきゃならねぇんで」
あまりに平然と言われたのですぐには意味が掴めなかった。しかし、言わんとしていることや、それが私よりも沖田さんのほうが早く死んでしまうことを前提にしているのだと気が付いた。
戦場で生きる彼等にとって、死とは常に傍らにあるものだとわかっている。冗談や死ぬことを軽んじて言っているわけではない。だからこそ、私は大っぴらにそれを否定することもできない。
隣に立つ沖田さんの栗色の髪が風で揺れている。艶のある、きれいな髪だ。シミ一つない健康的な肌色は、こんなにも生命力に溢れているというのに、その体にはいくつもの傷が残っているのだ。
「私がおばあちゃんになっても、取ってあげますよ」
沖田さんは一度だけ私を見たあと、喉の奥で笑った。
「そりゃ、何十年先の話なんですかィ」
庭先から近藤さんが現れる。私と沖田さんを認めると、こちらへまっすぐに歩み寄ってきた。
「おー、総悟、ナマエちゃん。二人して何してるんだ」
「あっ近藤さん、そこ」
私が止める前に、近藤さんは足からズドンと音を立てて落とし穴へ落ちていった。沖田さんは「あー」と落胆の声を漏らした。穴の奥で近藤さんは戸惑いの声を上げていた。
◆
小上がりの間に障子のパーテーションが置かれた定食屋で私と土方さんは向かい合っていた。以前、お見合い破談成功のお礼として食べたいものを考えておけと言われていたので、遅くなってしまったがトンカツが食べたいと言ったら、このお店へ案内されたのだ。一人だと家で揚げ物はまず作らないし、屯所の食堂でもお肉のメニューの日はまず残り物が出ないので、私の口に入ることはないからだ。
お昼真っ只中の店内は賑わっていたが、注文からそれほど待たずにトンカツ定食は運ばれてきた。
嬉々として割り箸を割り、いただきますと合掌する。カラッと揚がったトンカツ、山盛りのキャベツ、湯気の立つ白米に味噌汁。副菜のきんぴらごぼう、お新香。素朴だが食欲をそそられる。
「もっといいモンにすりゃいいのに、こんなんでいいのか」
「あんまりいいお店だと気後れしますよ。それに、マヨネーズも出してくれないかもしれませんよ」
土方さんのお盆の脇にはマヨネーズが堂々と置かれている。店員の女性が土方さんの顔を見るなり持ってきてくれたものだ。
「俺だってTPOくらい弁えてらぁ」
言いながら土方さんはカツにマヨネーズをかけた。油の上に更に油分を足す行為は、世の女性が見れば鳥肌ものだろう。斯くいう私も脂肪の落ちにくさが気になる年頃になってきたので、他人事ながら土方さんの食生活は気掛かりだ。運動量のおかげで体型は変わっていないようだけれど、先々のことを考えると体に悪いことは変わらない。
世間話をしながら食事を進める。土方さんはあくまで普段通りだが、あまり私と目を合わせようとはしなかった。以前は軽口を叩かれることもあったのに、それもない。元々口数の多い人ではなかったものの、少しずつ気を許してくれているようだったのに、微妙な距離が空いてきている。
山盛りのキャベツを頬張りながら、どうしたものかと考える。どれだけ私が望んでいても、合意を得られないうちはただの押し付けに過ぎない。表面上は私が真選組に残ることを承諾してくれた土方さんだったが、本心は別にある。私の身を慮ってくれていることは重々わかっているけれど。
私が背にしている壁の向こうは厨房になっており、格子状の欄間からフライパンを振う音が聞こえてくる。じゅうじゅうと鳴りっぱなしの音は厨房の慌ただしさを伝えているが、人の声は聞こえてこなかった。
冬は屯所の雪かきがあるとか、平々凡々な話をしていたところで、土方さんが「そういえば」とそれまでの話の流れを変えた。
「アパート、どうだ」
攘夷浪士に自宅を知られているかもしれないと言われ、私は住んでいたアパートを引き払った。しばらく屯所に寝泊まりさせてもらっていたのだが、先日新居へ引っ越した。屯所近くの平屋のアパートで、小さな庭付き。本当は新居探しは自分でしたかったのだが、土方さんがこっちですると言って私の意見は聞いてくれなかった。私に任せておくとまた古いアパートを選びそうだと言われてしまったのだ。
「まだ慣れないですけど、前の部屋よりも広くて快適です」
「妙なことがあったら言えよ」
「そんなに心配することはないと思いますけど」
「俺は同じ轍は踏まない」
ぴしゃりと言い切られる。ことこの件に関しては、土方さんは私の話を訊く気は更々ないようだった。
「過保護じゃないですか?」
「何とでも言え。二度目があった日にゃ切腹もんだ」
私のトンカツはあと三分の一ほど残っていて、土方さんは最後の味噌汁を啜っている。空いたお椀をお盆に置くと、乾いた音がした。
私が屯所を辞めたくないと言ったとき、土方さんはすぐに引き下がった。身を引いたのは私の気持ちを少なからず推し量ってくれたからだ。
土方さんは隊服の内ポケットを探る。が、私が壁の禁煙という貼り紙を指差すと、渋々その手で湯呑みを取った。
「おまえが肝の据わった女だなんて知ってる。だが俺はおまえには、ここじゃなくても他にいくらでもやっていける場所があると思ってる」
「どこにあるんですか?」
食い気味に訊ねると、土方さんが眉間に皺を寄せる。
「そんなん、どこにでもあるだろ」
「無責任なこと言わないでください」
土方さんは更に皺を深くし、あのなあ、と呆れたような声を出す。
「俺たちゃ、いつ死ぬともしれねぇ世界で生きてんだ。それが当然なんだよ。そこにおまえみてえなのを巻き込むわけにはいかねーんだよ。ただの女中だと言えばそれまでだが、てめーは人に肩入れし過ぎる。隊士が死ぬたびにぐすぐすされてちゃ敵わねえんだよ」
「ぐすぐすなんてしてません」
「するだろうが絶対。泣くだろうが」
「それの何が悪いんですか」
つい語気が強まる。土方さんは全く引こうとしない私に面食らっていた。
通路を店員の女性が駆け足で去っていく。冷静さを欠いてしまっていることに気が付いてはいた。遠ざかる女性の背を見送り、一度唇を結んでから仕切り直す。
「私、祖父を亡くしてるんです」
土方さんは少し間を置いて、聞いた、と静かに答えた。土方さんは随分前からそのことを知っている。私がうわ言のように話してしまったからだ。
「祖父が私の全てでした。生活の中心は祖父で、何よりも大切でした。この先もそれは変わりません。一番大切な人です。でも、今思うのは後悔ばかりです」
どうしてもっと話さなかったんだろう。もっと一緒にいられたはずなのに。もう会うことができない。何も伝えることができない。訊きたいことが溢れても訊くことはできない。遠くの誰かがいなくなってしまうことと、日々そばにいたはずの人がいなくなってしまうことは、当たり前だが全く違う。自分を形作る一部分が欠けてしまったかのような感覚だ。おじいちゃんは、一部分どころか私の半身だった。
時々夢に見るおじいちゃんの顔は、ずっと変わらない。笑顔で私の名前を呼んでいる。夢から覚めると、温かい気持ちになるのと同時に、ひどく寂しくなる。たくさんの人と出会って、ずっと支えにしていた銀時にも会えた。それでも、誰にも何にもその隙間を埋めることはできない。代わるものなど何もない。
「大好きだったから後悔しているんです。どこにも置いていけないし、忘れるなんてできません。だからどんなに重くても、私はずっとそれを抱えていきます」
永遠に続くものなど、どこにもない。この世に生まれたものが死んでいくように、いつか終わりが来る。終わりが来るたびに私は後悔し続けるのだろう。この先、何度も同じ思いをする。同じ思いをするのなら、私は苦しくても辛くても、大切な人たちのそばにいるほうを選びたい。
「きっとこの先、どんな人と会っても変わりません。私たちはどんなに願っても一緒にいられる時間は有限です。だから、本当に終わってしまう時が来るまでは、どんなふうに生きていても最後には苦しくて悲しいなら、私はここにいます」
土方さんは黙って私を見ている。しかし、目が合っていても、どこか私よりも奥のほうや、遠くを見ているような眼差しだった。店内の喧騒が嘘のように私と土方さんの周りは静寂に包まれていた。
それを打ち破ったのは、壁越しに聞こえてきたお皿を積み重ねる金属音だった。それを皮切りに、耳に人の声が絶え間なく入ってくる。私は膝の上に置いていた手を握る。
「いろいろ言いましたけど、結局は私がみんなと一緒にいたいだけなんです。だから、お願いします。ここにいたいんです」
「おまえは、それで…………」
土方さんは口を開き、何かを逡巡していた。そして視線を落とし、苦い顔で溜め息を吐いた。
「抱えきれるもんでもねえが、いいんだな?」
顔が綻ぶ。諦めとも取れるその言葉は、それでも私の言ったことを否定はしなかった。
「一緒に歩いてくれる人がいますから」
◆
格子状の欄間を叩く。隙間から覗く銀髪を見下ろし、声を降らせる。
「盗み聞きたぁいい趣味してんな」
こちらを見上げた覇気のない顔は、開口一番「ナマエは?」と女の所在を確かめた。先に仕事へ戻らせたことを告げると、万事屋はあーそう、と気のない返事を寄越した。手元には使い古されたフライパンがあったが、既に空だった。
「んなところで何してる?」
「ヘルプだよ。別に盗み聞きしたくていたわけじゃないから」
万事屋は首にかけていたタオルで顔を雑に拭った。狭い厨房な上に火を使っていたせいで汗をかいているようだった。
どうにも妙だと思ったのだ。常連というほどでもないが、時々この店には来ている。メニューが豊富で何も言わなくてもマヨネーズを添えてくれる気の利いた店だが、難点が厨房にいる男の声がバカみたいに大きいことだった。顔は見たことがないが、その店内によく通る声は覚えていた。
「てめーはいいのか」
小上がりのおかげで俺の目線は万事屋よりも高い位置にあった。万事屋は「何が?」と腰に手を当てて俺を見上げる。
「アイツが傷付いてもいいのか」
「よくはねーけど、俺が口挟むことじゃねーだろ。ナマエの居場所ってのに、てめーらのことも入ってるってのは知ってたし。気に入らないけどね。あんなチン毛がそこら中に落ちてる職場、辞めればいいと思ってても言わないけどね」
「言ってんじゃねーか。つーかそんなもん落ちてねえ。落ちてんのは近藤さんの部屋だけだ」
「オイ絶対ゴリラの部屋には入れんなよ。俺だってまだ見せてねえのに」
「そんな話聞きたくねんだけど!」
「まあ……辞めろなんて、ナマエには言わねえよ。それに俺が言ったってアイツ変なところ頑固だから絶対聞かないし」
訳知り顔に妙に腹が立った。万事屋とナマエの関係がどうなろうと俺には知ったことではないが、大きな顔をされるのも癪に障る。しかし、ナマエの言う、一緒に歩いてくれる人というのがこの男のことを指しているのだとはすぐにわかった。
万事屋はフライパンを流し台に置いて蛇口を捻った。勢いよく水が流れ出ている。
「だからさぁ、おまえもちょっとくらいはアイツの気持ち、汲んでやってくれてもいいんじゃないの?」
「汲んでやっただろ。聞いてたんだろうが」
まーな、と万事屋は蛇口を締める。
「それに、てめーが気にかける必要ねえよ。ナマエのことは俺が護る」
欄間の隙間からでも万事屋の目がまっすぐに光っているのがわかった。この男が一度決めたことを曲げずに貫き通す強さを持っていることは十二分に知っている。口にしたからには、必ず身を挺して護り抜くのだろう。
以前まではどこかナマエに対して一歩引いているようなところが見受けられたが、何かが吹っ切れたのか、堂々たる態度だ。随分とでかい口を叩けるようになったものだと嫌味を言うと「うるせえ」と睨まれた。
「言っとくけど、ナマエに手なんか出したら屯所に血の雨が降るからね。二人でメシとか今回限りにしてくんない?」
「独占欲の強い男は嫌われるぞ」
「あと引っ越し先、なんで屯所に近いの? 腹立つんですけど。なんでいちいちてめーらの住処の前通らなきゃいけないの?」
万事屋は項垂れながらフライパンを洗い出した。俺は鼻で笑い、会計を済ませて店を出た。
ナマエは買い出しに寄ってから屯所へ戻ると言っていたので、まだ帰ってはいないだろう。
——おまえは、それで幸せになれるのか。
口に出しかけてやめた言葉が喉の奥に残っている。面影を重ねては消してを繰り返していたが、ようやく切り離すことができそうな気がした。しかし、穏やかで寂しげな笑みは消えない。
置いていくことも忘れることもできないのなら抱えていくしかない。ああ、そうだ。俺も同じだ。ずっと、この重みを抱えて歩いていく。きっと、誰もがそう在るのだろう。
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