目覚ましの鳴る前に起き、結露した窓をそっと開ける。そこには塀で囲まれた小さな庭がある。前の住人が置いていったのだろう、空のプランターがいくつか置き去りにされているけれど、それを活用する方法は考えあぐねていた。
引っ越してからしばらく経った。以前よりも部屋は広くなったが、心持ちはまだ落ち着かない。
仕事は休み、これといって出かける用事もない。草履を雑につっかけ、庭に降りる。うっすらと積もった雪が朝日に照らされてきらきらと光っている。隣の部屋の庭との仕切りは頼りない木の板一枚。引っ越し初日に挨拶に行った隣人は、私では到底似合わない派手な化粧をした若い女性だった。夕暮れになると出かけていくので、夜の仕事をしている人のようだった。
大小様々なプランターを眺める。花でも植えようか、野菜でも育てようか。田舎にいた頃は野菜はもらうばかりだった。自分の手で育てたことなどないけれど、簡単なものならできるだろうか。あれこれ想像し、自分の吐く息で手を温める。
室内に戻ると、ずっと生活を共にしている観葉植物が目に入る。屯所に一時的に泊まっていた時もずっと一緒だったそれは、私にとっては家族同然だった。
ホームセンターの園芸コーナーには野菜の種が並んでいる。大根、玉ねぎ、ブロッコリー、カブ——。一通り眺めてはみたものの、初心者に優しいものをちゃんと調べてからにしようと思い直した。プランターもきれいにして、庭も掃除してからにしよう。一人頷き、ホームセンターを出た。すると、すぐに「ダイゴ!」と久しく聞いていなかった声に呼ばれた。私をそう呼ぶのは神楽ちゃんしかいない。振り返ってみると、そこにいたのは神楽ちゃんとポニーテールの美女だった。
「ダイゴ、久々アルな。今日休みアルか?」
「うん、お休み」
「神楽ちゃん、そちらの方は?」
ポニーテールの美女が訊ねる。神楽ちゃんは「ダイゴアル」と答えた。それでは伝わらないと思い名前を言おうとすると、「まあ、じゃああなたがナマエさん?」と美女は嬉しそうに手を合わせた。
「いつも弟がお世話になってます」
頭を深々と下げられ、釣られて私も頭を下げる。彼女の顔を見るが、全く誰のお姉さんなのかわからなかった。それを見て取った彼女は、くすりと上品に笑った。所作がとても女性らしい。
「志村新八の姉の妙です」
「新八くんの?」
新八くんにお姉さんがいるとは聞いていたけれど、会ったことはなかった。言われてみれば、面差しは少し似ている。感心していると、お妙さんは微笑んだ。
「新ちゃんや神楽ちゃんから話は聞いていたけど……。こんな人が銀さんとなんて信じられないわ」
——銀時と、何なのだろう。私は曖昧に笑ってみせた。
「そうだわ、頂き物のケーキがあるの。ナマエさん、うちでお茶しませんか?」
「ケーキ食べたいアル!」
「えっ、や、私はそんな」
お妙さんと神楽ちゃんはそれぞれ戸惑う私の右手と左手を掴んだ。逃さないと言わんばかりに力が籠もっている。
「女子会ネ女子会!」
華奢な手に引き摺られるようにして歩いていく。有無を言わせない強引さに、私は拒否権などないことを悟った。
恒道館道場と看板を掲げたお妙さんの自宅兼剣術道場は昔ながらの日本家屋といった雰囲気で、敷地は広く家も大きい。いつだったか、新八くんは父の残した道場を再興するのが夢だと言っていた。玄関から廊下、和室、庭の果てまでも全て掃除や手入れが行き届いている家を見ると、彼のひたむきさがよくわかるようだった。姉と弟、二人で暮らすには広すぎるくらいだけれど、二人で今までこの家を守ってきたのだろう。
神楽ちゃんは慣れた様子で襖を開け、こたつに足を滑り込ませた。ダイゴも座るネ、と急かされ、倣ってこたつに入る。お妙さんはすぐにお茶とケーキを持ってきてくれた。ショートケーキのようだが、上には苺一つと刻んだ苺がふんだんに乗せられている。高そう、と思ったままを呟くと、お妙さんは「お客さんからの頂き物なの」とにこやかに答えた。
「アネゴはキャバクラで働いてるアル」
神楽ちゃんは早速フォークで苺を刺して頬張った。私は得心した。
「きれいですもんね。お妙さん目当てのお客さんも多いんじゃないですか?」
「やだもうナマエさんったら」
お妙さんは満更でもなさそうだった。遠慮せずに食べて、と勧められ、私もフォークを手に取る。柔らかい生地とクリームを切り分けて口に入れると、さっぱりとした甘味と挟んであった苺の酸味が口内に広がる。ほどけるような食感はとても舌触りが良い。
「それでナマエさん。銀さんとはどんな関係なの?」
私はきょとんとした。
「まさかあんな甲斐性なしの天然パーマに、こんなまともな女性の知り合いがいるなんて思ってもなかったから」
「銀ちゃんはダイゴのこと好きアル」
お妙さんと私が揃って「えっ」と声を上げる。神楽ちゃんは、だって、と生クリームを掬い取って口に入れた。
「銀ちゃん、なんとも思ってない女をまだ明るいうちから家まで送らないし、後生大事に電話番号とっておくほどマメでもないヨ。ダイゴが知らないだけネ。銀ちゃん、ダイゴに何かあるとすぐに突っ走っていくアル。銀ちゃんはいっつもいろんな人のために必死になるアルけど、ダイゴのときは私にも新八にも何も言わないで自分で行くアル。自分の手で護りたいって、そんな感じネ」
神楽ちゃんは淡々としていた。銀時のことをよく見ているのだろう。ケーキをあっという間に食べ終え、神楽ちゃんはお茶を啜る。そして一息つく間も無く、澄んだ青い目を向ける。
「ダイゴは銀ちゃんのこと嫌いアルか?」
「嫌いじゃないよ。嫌いじゃないけど……」
慌てて否定すると、神楽ちゃんに詰められる。
「じゃあ好き? どこが好きアルか? 足臭いところとかおっさんみたいにファミレスでご飯食べる前にスプーンを水に浸けたりおしぼりで顔拭いたりするところアルか?」
「神楽ちゃん、ピンポイント過ぎるし好きになる要素じゃないわよ」
お妙さんが指摘する。神楽ちゃんは「そうそういいところなんて出てこないヨ」とずいぶん辛口だった。
私にとって銀時の存在は、長所や短所で推し量ることができるようなものではない。結局は、銀時なら私は何だっていい。しかし問題なのは、銀時の考えていることがよくわからないことだ。嫁にもらってやると言っていたけれど、突然のこと過ぎて頭が追いついていないのがの本音だった。
所在なくケーキをただ見つめている私を見兼ねて、お妙さんは深い溜め息をついた。
「どんな理由があろうとも、女の子を不安にさせるなんてだめな人ね。気持ちはちゃんと言わないと伝わらないもの」
「俺はちゃんと気持ちを口にしてますよ! お妙さん! 好きです結婚してください!」
勢いよく襖が開くと、そこに現れたのは近藤さんだった。しかし、すぐさま近藤さんの額に空になった湯飲みが飛んでいく。その姿を見向きもせずに投げたのはお妙さんだった。近藤さんは短い悲鳴を上げて仰向けに倒れ、勢い余って庭へ転げ落ちてしまった。
呆気にとられる私を他所に、二人は平然としていた。が、すぐに近藤さんは起き上がり、部屋へ上がってくる。
「相変わらずシャイだなぁお妙さんは。あなたの勲ですよ。あなたの勲がやっと登場ですよ」
「いつあなたが私のものになったんですか。呼んでないので帰ってください大地に」
「ははははは! さすがお妙さんはスケールがでっかいなあ!」
近藤さんは豪快に笑っている。その額の赤みや、お妙さんがキャバクラに勤めていること、そして過去の記憶を辿っていくと、点と点が繋がっていく。近藤さんの想い人はお妙さんだったのだ。いつも手酷く痛めつけられて帰ってくるからどんな女性なのかと気になっていたけれど、まさかこんな可憐な女性だったとは想像していなかった。お妙さんはゆらりと立ち上がり、近藤さんをその細腕で背負い投げした。
額にたんこぶを作った近藤さんと共に帰路に着く。近藤さんはともかく、私はゆっくりしていけばいいのにと二人に言われたが、また今度と約束して退散した。
「近藤さんはお妙さんとお付き合いしてるわけではないんですよね?」
「え、何急に!」
唐突な質問に、近藤さんは照れながら後頭部を掻いた。しかしすぐに腕を組んで強く頷く。
「まあ、今はまだお妙さんは恥ずかしがってるが、ゆくゆくはそうなるよ」
「恥ずかしがってるんですか?」
「あれはお妙さんなりの照れ隠しだよ」
自信満々といった様子で近藤さんは言った。しかし、付き合っているわけでもないのに、急に結婚だなんてよくあることなのだろうか。田舎には既婚の知人もいるが、皆、期間はまちまちだが交際期間があっての結婚だった。結婚とは、自分と相手と、その家族の生涯に関わることだ。慎重になって当然ではないだろうか。
慎重さというと、銀時とは無縁な気がする。もしかして、何かの魔が差して、早まっているだけじゃないだろうか。万一そうなったとして、後悔するのは銀時なのではないだろうか。
ぐるぐると後ろ向きな思考が巡り始め、近藤さんに向き直る。
「いきなり結婚を申し込むのって、どういう心理なんですか?」
「そりゃあ、今すぐに結婚したいくらい好きだってことでしょ」
後ろ向きな思考を吹き飛ばす、明快な言葉だった。そういうものだろうか。私は銀時の一挙一動を思い起こす。
あのときの銀時の表情は真剣だった。軽口で言っているようには見えなかった。信じていないわけではない。ただ——。
「もしかしてナマエちゃん、誰かにプロポーズされた?」
近藤さんが口角を上げる。私が返答に詰まると「そうかそうかぁ」と笑った。揶揄するような雰囲気ではなく、人の幸せを心底願っているような優しい笑みだった。
「さっきの話からすると付き合ってない男なんだろう? いいじゃないか、女性は愛するより愛されるほうが幸せなんだって俺の母ちゃんが言ってたよ。ちなみに俺の知ってる男?」
「ええ、たぶん……」
「えーっ誰! なに?どうやってプロポーズされたの?ベタに結婚してくださいとぎゃっ!」
嬉々として目を輝かせていた近藤さんが突然アスファルトに前のめりに倒れる。
「誰の許可得てソイツ口説いてんだゴリラ」
青筋を浮かべて現れたのは銀時だった。起き上がった近藤さんの額のたんこぶは擦れてしまったのか血が滲んでいる。
「何すんのおまえ! あ! 血! たんこぶから血が! 血出てるよねナマエちゃん!」
「馴れ馴れしいんだよゴリラ。ゴリラはゴリラのケツ追っかけてろ」
銀時は近藤さんのお尻を雑に蹴り飛ばし、行くぞと歩き始めた。近藤さんを振り返っていると、早く来いと急かされる。これまでに時々見せていた強引さとは少し違う。近藤さんと目が合うと、仕方がないというように微笑まれた。すべてを悟られてしまったようで、私は小さく頭を下げて銀時のあとを追った。
黒いブーツがどんどん前へ進んでいく。声をかけるべきか迷って、でもどう声をかけたらいいかわからずただ歩いていると、鼻の奥がつんとしてくしゃみが出た。ぶしゅっと可愛げのない音でも、銀時は振り返り、仏頂面で自分のマフラーをほどいて私の首へ巻いた。
——今すぐに結婚したいくらい好きだってことでしょ
近藤さんの言葉が過ぎると、急に恥ずかしくなってくる。目を逸らそうとする前に、体ごと反転させられた。銀時に背中を向ける形になる。
「何の話してたんだよ」
マフラーを結ばれ、顔を埋める。体温の残った柔らかい肌触りと、不思議なにおいがする。
「これ、洗ってる?」
「あ?」
「変なにおいする」
「マジか」
「嫌なにおいじゃないんだけど」
マフラーに鼻を寄せていると、銀時に「嗅ぐな」と頭を叩かれた。痛くはなかった。銀時は踵を返して、また歩き出す。引き止めるように口を開く。
「銀時の話してた」
黒いブーツは歩調を緩めたものの止まらない。
「どうせ金がねえとかろくでもねえとか言ってたんだろ?」
「…………嫁にもらってやるって言われたこと」
何もないのに銀時は転びかけた。つんのめって、よろけて姿勢を正す。
「おま、何ゴリラにしゃべってんだよ!」
「だ、だっておかしいよ。銀時がそんなこと言うなんて」
「おかしくねーわ! 俺だって」
ぐ、と銀時が言葉を飲み込む。一度唇を結び、むず痒そうに耳の下を掻き、俯き気味で小さな声でこぼす。
「惚れた女と一緒になりてえと思うよ」
曇り空からは真っ白い雪が降り始めていた。それは銀時の頭に積み重なり、銀色に混じって消えていく。
内側で燻っていた熱がお腹から這い上がってくる。不思議なにおいのマフラーに顔を半分埋めて、目がこちらに向いていることに気付いて更に深く顔を埋めた。どんな顔をしたらいいのかわからない。
数えきれない出会いや別れの中で、この人以上に信じた人も、好きだと、離れたくないと思う人もいない。きっとこの先どれだけ長い時間を経ても、それは変わらない。そんな人と一緒にいられることが、相手もそれを望んでくれることが、どれだけ幸福なことか。感情の泡が次々に弾けて、どれも言葉にならない。
「なんとか言え」
銀時がマフラーを掴んで引き下げようとする。しかし、私はそれを必死に阻む。
「てめ、俺にだけ言わせといて自分は逃げる気かコノヤロー」
「逃げてない、逃げてないけど……」
「けどなんだよ」
力で敵うはずもなく、半分ほどマフラーが下された。冷気に触れる顔がうまく動かない。
銀時の中でどれだけ気持ちの固まっている話なのかはわからないけれど、やはり私にはあまりに突拍子も無さすぎた。結婚と恋愛は別物だと思うけれど、それはきちんと結ばれた二人の延長線上にあるものだ。私は恋愛は不得手だし、まず心の準備ができていない。
「その気がないなら、ないって言え」
銀時は力なくそう言い、踵を返す。離れていく背中は、引き止めなければそのまま去っていってしまいそうだった。迷っている暇もなく、私はその背にぶつかっていく。銀時は倒れそうになったものの、踏み止まる。
「おま、あぶねーだろが!」
「ご、ごめん」
振り返りそうになった銀時の上着を握る。指先に力を込め、絞り出した声はか細かった。
「……お願いします」
周囲に人気はなく、雪が静かに降っている。沈黙が続き、やがてそろそろと上着から手を離すと、銀時が背を向けたまま小さく笑ったのがわかった。
「お願いしますって」
「えっ?」
「こっちが恥ずかしいわ」
「ぎ……銀時のほうが恥ずかしいこと言ったよ」
「言ってませんー」
ゆっくりと振り返った銀時の頬が僅かに赤い。本当に恥ずかしいのだろうか。行き場がなく胸の辺りに上げていた手を握られる。
「役所行くか」
「待っ、それは早い、まずは付き合ってから。じゃないと、あとから後悔しても」
「わかってるよ。そのうちな。でもまあ、後悔されても逃がすつもりねえから」
腰を屈めた銀時の顔が近付いてくる。冷たい風が雪と共に吹き付け、私は咄嗟に顔を背けてくしゃみをした。呆れ顔の銀時が姿勢を戻していく。
「空気読めよ……」
「ごめん……」
「風邪引かれてもアレだし、とりあえず帰るぞ」
銀時が先に歩き出す。引っ越してすぐにアパートの場所を教えたものの、銀時が実際に足を運んだことはない。しかし、その足は迷いなく進んでいた。私はまだ近所の地理すら把握できていない。
屯所の前を素通りし、アパートの前に着く。隣室の小窓は暗く、住人が外出していることがわかる。
私が部屋の鍵を開けると、銀時は当然のようにあとからついてきた。帰ってくれとは言えないし、帰ってもらう必要もないのだけれど、雪のせいもあり薄暗くなってきたので神楽ちゃんのことが気になった。もうお妙さんの家を出ているだろう。
「神楽ちゃん、万事屋に一人なんじゃないの?」
「定春もいるし、今日は晩飯、下のババアのとこで鍋だから」
「銀時は?」
「俺はー……まあいい」
上着を脱いで畳の上に放り、一度座ったかと思うとまた立ち上がる。落ち着きのない銀時の様子を横目で見ながら私はやかんでお湯を沸かした。ファンヒーターの電源を入れるようお願いすると、銀時は言われた通りにヒーターのスイッチを押した。そして部屋をぐるりと見回して何もねえな、と言った。私には部屋を彩る趣味がないので、必要なものしか置いていない。唯一色を添えてくれているのは小さな観葉植物だけだった。私はやかんの火を弱め、鉢を銀時に見せた。
「何もなくないよ。これ、結構気に入ってる」
「なんかになるの?」
「わかんないけど、何にもならなくてもいいの。それだけで十分ってもの、あるでしょ?」
笑ってみせると、銀時は「ふうん」とほとんど息を漏らしただけのような返事をした。
やかんが音を立てて私を呼ぶ。鉢を置いてそちらへ向かい、お茶を淹れて戻ると、銀時はあぐらを描いていた。脇に座ってお茶を差し出すと、一旦受け取り、それをなぜか盆に戻す。そして私の肘の辺りを掴み、引き寄せる。
赤い双眸が私を捉えている。着火したばかりのヒーターが低い唸り声を上げている。じんわりと半身が温かい。目を逸らすことができずに固まっていると、銀時は不満げに眉根を寄せた。
「こういうときは目ぇ閉じろ」
「……こういうときって」
「いいから!」
瞬きの間に横顔に手を添えられ、言われるがままに目を閉じる。唇に柔らかいものが触れる。短くて長い三秒が経ち、目を開けると離れた銀時の顔が徐々に上気していく。釣られて私の顔も首も熱くなる。銀時は、自分からしたくせに気まずそうに目を逸らした。慣れていないわけでもないだろうに、恥ずかしそうにしている銀時に笑いが込み上げてくる。
「笑ってんじゃねぇ」
「笑ってない」
笑ってんだろうが、と不満げに言われた。照れ隠しのように、また唇を塞がれる。触れて離れたかと思うと、次には強く押し付けられて唇を食んでくる。一瞬強張った体から、力が抜けていく。開いた口の隙間から舌が割り入ってくる。分厚い舌が私の舌を捕まえると、唾液の絡む音がした。引っ込めようとしても、狭い口内に行き場はない。すぐに器用に動く舌に絡め取られてしまう。鼓膜を刺激する音と、苦しさに薄目を開けた先にあった銀時の閉じた瞼に顔から火が出そうだった。
息苦しくて、着流しを握る。離れると、唾液を残さないように銀時は唾を飲み込んだ。喉仏が動くその様は色っぽく見えた。触れただけで照れていたのが嘘のようだった。
激しく波打つ鼓動に反して、酸欠なのか頭はぼうっとしていた。銀時は「んん」と唸るような咳払いをして、拳で目元を擦り、その手で口元を覆い、視線を落として私を抱き寄せた。
「ここ出たら?」
「え?」
「引っ越すつもりねえの」
「……来たばっかりだから、だめだよ」
「……」
「銀時?」
「なんでもねえ」
銀時の胸に耳を当てると、私と同じように心臓が鼓動を打っていた。勢いに圧されてしまったことは否めない。先のことは、考えるとやはり不安になってしまう。けれど、この満たされていく胸の温かさや、恥ずかしいのに離れがたいこの感覚は、幸せと呼べるものに違いない。
やがて銀時はそろそろと手を離した。じっと見つめられ、また鼓動が早まってくる。どうしたらいいのかわからずに動けずにいると、沈黙を破るように銀時は鉢を見遣った。
「あれ、ずっとあんの? なんか見られてるような気がすんだけど」
「見てるんじゃない?」
「マジで。しかし、どうせならもっと色気のあるもん買えばいいのに」
そう言って銀時は鉢を持ち上げ、下から頼りない枝を見上げた。そして何かを見つけ、あ、と声を上げた。横から覗き込むと、その視線の先、葉の間に蕾が顔を出していた。小さな蕾は口を閉じ、その花を開かせるときを待っている。何かが実ることも咲くこともないと思っていたけれど、それはきちんと、気付かない間に実を結び、花を咲かせようとしていた。
「……なあ」
筋張った手が両手で鉢を抱える。まだ銀時の顔は少し赤かった。
「鍋、やっぱ一緒に行くか」
「いいの?」
「ガキ共も喜ぶし、ババアたちも顔見たがってるし」
ゆっくりと、少しずつ。これから私と銀時の間でも、いろいろなことが変わっていくのだろう。
私は、いつかそこに結ぶものを夢想する。小さくて、その中に何を秘めているのかはまだわからない。歪な形、見たことのないような色をしているかもしれない。けれど、きっとどんな姿形でも、それは美しく、いとしく見えるだろう。
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