たとえば、外回りで汗だくになって、くだらない痴話喧嘩に付き合わされたあと。
 たとえば、真剣で斬り合い、命辛辛事件を解決して帰ってきたあと。
 笑顔で迎えてくれたり、本気で心配してくれる様には、正直なところ落ちそうになっても仕方がないとは思う。なにせ彼女は優しくて可愛らしい。しかし、惚れて痛い目に遭うのは目に見えている。

「どうなんだろうな」

 隣の同期の呟きは、目の前を過ぎていく人力車の走行音に掻き消された。人力車が去っていくと、穏やかに流れる人の波が再び視界に広がる。江戸の街はあくびが出るほど平和そのものだった。

「だから、やめたほうがいいと思うけど」
「なんでだよ」

 俺の忠言に同期はむっとした。透き通った煎茶にはベンチの上の桜が映っていた。
 江戸へ出てきて、憧れの真選組に入隊して一年。二度目の春を迎えようとしている。真選組といえば日々命のやり取りをする極限の状況下を生きる武装警察。しかし、そうそう討ち入りなどの激しい戦闘があるわけでもないことを知ったのが、入隊して数ヶ月経った頃。新人隊士だからなのか、俺たちの実力不足なのか、一年経っても俺たちが戦場で剣を握ったのは両手で足りる程度だった。
 そして現に今、見廻りの途中で茶屋なんかに寄って同期の恋の話を聞いている。田舎に家族を残して上京し、まさか惚れた腫れたの話をすることになるとは思わなかった。が、この同期だけに限らず、真選組の男たちは剣を握っているとき以外は下ネタや下世話な世間話を好むただの男なのだ。夢見ていた日常とはややずれている。とはいえ、両手で足りるほどの命を賭けた戦いは、俺の心臓を痺れさせるには充分だった。
 店員の女が桜餅を二つ持ってきた。俺と同期の間にそれを置き、店に戻っていくかと思いきや、俺たちの後ろに座っていた客にも同じものを置いていく。平日だが茶屋はそれなりに繁盛していた。自家製のあんこが売りの店だ。熱心な客が多いのだろう。

「俺のこと、嫌いではないと思うんだけど」

 食い下がる同期に溜め息がこぼれる。剣よりも恋に夢中なこの男が先程から熱心に探っているのは、屯所の女中のことだった。名前はナマエさんという。

「ナマエさんは俺のこと好きだと思うんだけどなぁ」
「嫌いじゃないと好きは違う」
「そんなのわかってるよ。ただ押せば落ちるかどうかって話をだな」
「あの人はみんなに親切だし、おまえの勘違いだとしか思えないな」
「だってこの前、稽古で怪我したらすげえ真面目に診てくれたし」
「それもいつものことだし、俺だってそのくらいのことはしてもらってるよ」

 俺は隊服の袖を捲り、腕の包帯を見せた。ナマエさんは隊士の怪我の治療もしてくれる。
 同期は口籠る。自分が特別だと言う理由を全て出し尽くしてしまったようだ。背を押してもらいたいだけだということはわかっている。
 俺は袖を戻し、葉を剥がして桜餅にかじりついた。柔らかな食感と控えめな甘さが口内に広がる。田舎ではあんこも全て包んだ桜餅が主流だったが、江戸の桜餅は餅が薄い。
 同期は餅も喉を通らないのか難しい顔でお茶を啜っていた。互いに恋の病なんて柄ではない。しかし、気持ちはわからないでもない。江戸へ出てきて、ろくすっぽ女と接点を持てていない。職業柄気軽に女遊びなんてできないし、所帯を持つにも平隊士の俺たちに縁談など来ない。そんな中で屈託のない笑顔で迎えてくれて、仕事とはいえ親切にしてくれる女がいれば惹かれてしまうのも仕方がない。
 しかし、ナマエさんはやめたほうがいいと言う理由がある。確かな情報ではないので口に出すのは躊躇っていた。が、どうにも諦めきれないようなので、渋々情報を開示していく。

「ナマエさんに手を出すと、黙ってない鬼がいるんだよ」
「副長?」

 同期が間髪入れずに名前を出したのは、真選組鬼の副長、土方十四郎だった。副長とナマエさんは仕事上の接点が多い。副長の細かい仕事をナマエさんが請け負うことがままあるからだ。そのせいか、二人が話している姿はよく見るし、親しげでもある。しかし、俺はかぶりを振る。

「あ、沖田隊長? ナマエさんによくくっついてる」

 沖田隊長の場合は、身も蓋もない言い方をすればまるでナマエさんの番犬だ。後ろについて食べ物をせびったり、ナマエさんが出かけようとしていればついていこうとする。彼女に危険が及ぼうものなら噛みつきそうな雰囲気ではあるが、俺はまたかぶりを振った。
 同期は眉根を寄せた。副長や沖田隊長のように、正体の知れている相手なら何ら問題ではない。ナマエさんはあの人の女だから、で事足りる。厄介なのは、その鬼が外部にいるからだ。
 俺は声を潜め、同期に「俺も詳しくは知らないけど」と前置きする。

「副長も沖田隊長も一目置く、バカみたいに強い白髪の侍らしいんだよ」
「白髪の侍?」
「いや、俺も噂でしか聞いたことないんだけどさ……ナマエさんに何かあったら、そいつが黙ってないらしいんだ。屯所に血の雨が降るとかなんとか」
「はっ、なんだよそれ」

 同期は鼻で笑った。血の雨は現実味がなく、信用できないようだった。俺も半信半疑だ。ナマエさんに男がいることは想定内だが、あの温和な彼女の後ろに、そんな野蛮な男がいるとは思えない。

「副長や沖田隊長よりも強い奴なんて、そうそういるわけねーだろ。作り話だろ、そんなの」
「……そうかなぁ」

 呆れたように同期は足を伸ばして空を仰いだ。残されていた桜餅に葉っぱごとかぶりつく。すると、ふっと前に人影が現れた。顔を覗かせたのは、噂の人物、ナマエさんだった。

「お疲れさまです。休憩ですか?」

 笑顔を向けられ、同期は途端に体を強張らせる。そして、なぜか釣られて俺まで表情が硬くなってしまう。お疲れさまです、と揃って返した声は上擦っていた。

「今日は街が静かですね。眠くなっちゃいませんか?」

 ナマエさんはやはり穏やかな調子だった。同期はあからさまにどぎまぎしている。自分のことが好きだろうとか、押せば落ちるとか強気なことを言っていたのに、本人を前にするとそうもいかないようだ。女っ気のない田舎侍はこれだから困る。
 やめておいたほうがいいと言っていたが、いざ前に出られない様子を見るとじれったくなってしまう。俺はこっそりと同期の足を蹴った。目配せをして、ナマエさんの手にある買い物袋を指す。それを持つと言え、そして屯所まで行け。念じていると、後ろにいた客が腰を上げた気配がした。
 ゆらりと視界を横切る、白い着流し、木刀。ナマエさんが「あれ?」と不思議そうに目を瞬かせる。

「銀時、何してるの」
「何って、茶ぁ飲んでたんだろ」
「まだ午前中だけど」
「早朝の仕事だったんですぅ」

 顔を顰めるナマエさんに、男は手を伸ばす。自然な動きでナマエさんの手に触れ、買い物袋を引き取る。気心の知れた仲であることがわかる、二人の自然な表情、所作。まず、俺たちは彼女のしかめっ面なんて見たことがなかった。

「屯所まで行ってくれるの?」
「バカヤロー手前までだ。おまえ、この辺歩くことそんなねえだろ。また迷子になったら真選組の皆さんにメーワクだろうが」

 男がこちらを振り返る。不敵な笑みは牙を見せずして威嚇するような、獰猛さを持っていた。

「あーどうもすいません。コイツ、俺がちゃんと屯所まで送っていきますんで。お仕事頑張ってくださぁい」
「あ、ハイ…………」

 行くぞ、と男に促され、ナマエさんは会釈をしてから歩いていった。並んだ後ろ姿を見送る最中、俺たちは男の光る白い髪に釘付けになっていた。
 二人が見えなくなったあと、同期は呟いた。

「白髪の侍……」

 桜の花弁が風に乗って散っていく。同期は、この恋を諦めることになるだろう。俺は黙って、その肩を叩いた。





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