思えば家族以外との関係は希薄だった。狭い田舎だったので、近所付き合いや診療所に来る人たちとの交流はあったが、心を晒せるほどの親友や、本音を話せるほど深く信じ合えた人はいなかった。おじいちゃんには、家族だからこそ話せないことがたくさんあった。優しい人ばかりだったので、きっと私が凭れかかれば応えてくれたのだと思う。けれど私は自分の弱さ故にそれができなかった。私の世界は閉鎖的なものだった。
スナックお登勢の前の門松には、薄らと雪が溜まっている。普段は夜も更けると愉快な声が漏れ聞こえてくるお店も、年末の今日は一時休業している。夜道に僅かにこぼれる暖色の明かりを確認し、引き戸を開けた。
「こんばんは」
「ああ、来たね」
お登勢さんはカウンターにいつものように立っていた。人気のないスナックは閑散としており、足を踏み出すのを躊躇った。しかし、寒いから入りなと急かされ、促されるままに足を踏み入れる。
店内にはキャサリンさんもたまさんもいない。ぎりぎりまで落とした照明が、しんと静まった空間を朧げに照らしている。私が来るときは常に誰かしらがいて、夜なんかは賑わっていることが多いので、こんなにも静謐なスナックお登勢は初めてだった。
「悪いね、もう少し時間がかかるんだ。何か飲むかい」
「いえ、手伝います」
「年寄りの厚意を足蹴にするんじゃないよ。アンタは座りな」
顎で差され、じゃあ、とカウンターの丸椅子に座る。言葉遣いは荒いが、声色は優しかった。
正面では、お登勢さんがおせち料理を重箱に詰めている。紅白かまぼこ、伊達巻、昆布巻き、黒豆、数の子など。定番料理が隙間なく、しかし整然と彩り良く詰められている。小鍋には煮物が残っており、食欲をそそる良い匂いがした。
「何がいい? ビールも酒もあるよ。今日は好きなの飲みな。アンタ、銀時と一緒だとあまり飲まないだろ」
「飲むといつも眠くなって」
「なるほど、寝込まれちゃアイツにとっちゃ面白くないわね」
お登勢さんは菜箸を置き、冷蔵庫へ向かう。
「冷やでいいのがあるから、それでいいかい」
「お願いします」
ガラスの猪口に透明なお酒が注がれ、つまみだと小皿に煮物を選り分けてもらった。至れり尽くせりで申し訳なく、お尻が落ち着かない。そわそわとする私を見兼ねてか、お登勢さんは「味見しとくれ」と目配せする。頷いて、蓮根を食べてみる。味が染み込んでいて歯応えもあって美味しい。ほっとするような味だった。
江戸へ来て、初めての年の瀬——。真選組は年末年始も休み無しなので、私も仕事だ。部屋の大掃除は時間を縫って年内に済ませたが、年末年始らしいことは他に何もできていない。田舎にいた頃は寄り合いなどで集まり皆で料理を作ることもあったが、今年はそれもない。先日そんな話をここでしていたら、お登勢さんが「おせちなら作るから分ける」と言ってくれた。一度は断ったが、お登勢さんはどうせ二階のバカどもにも食わせるから、と鼻で笑った。持ち上げた視線の先の天井からは、賑々しい足音がしていた。
あの日と違い、今夜は静かだ。三人で出かけているのだろうか。徐々に気分が落ち着いてきて、お酒をちびちびと飲みながら天井を見上げる。
「銀時とはうまくいってるのかい」
口につけていた猪口をテーブルに置く。少し考え、「喧嘩はしてません」と言った。関係は概ね良好だと思う。
「喧嘩がどうとかじゃなくて、アンタは何か我慢してないのかい」
「我慢ですか?」
「銀時はあの通りだからね。女にろくにモテた試しもないし、気が回らないだろ。アンタが無理に合わせてんじゃないかと思ってね」
銀時の散々な言われように苦笑いする。私のほうは過大評価されている気もして、首を横に振った。
「私も男の人とは縁がなかったので……それに、気が回らないのは私のほうです」
お登勢さんはふっと微笑んで私を見た。それから視線を手元に戻し、重箱の中の具材がはみ出ないよう箸で整える。
眠らない街、かぶき町は、今晩は万事屋同様に嘘のように寝静まっている。年末だろうと年明けだろうとうるさいのがかぶき町だと聞いていたので、これは嵐の前の静けさというやつだろう。
お登勢さんの手元を見ながら、年明けの行事について話した。初詣ならあそこがいいとか、新春セールならあそこがいいとか、顔の広いお登勢さんは街のありとあらゆる情報に精通している。ただ、羽目を外す人間もいるし人出も多いから、一人ではうろうろしないほうがいいそうだ。しかし、街の地図を把握していないので、私が一人で出歩くことはまずない。迷子になって終わりだ。
「まだこっちに出てきて一年経たないんだ。そのうち慣れるさね」
「そうですね……でも、なんだかお登勢さんには長くお世話になってるような気がします」
お登勢さんの前では、つい喋りすぎてしまう。田舎での暮らしのことや、日々の出来事。何を話しても受け止めてくれると安心してしまうような、気安さがある。家族だった人、友人、銀時にさえ話していないようなことも、口を衝いて出てしまう。江戸でこんな場所ができるなんて、思いも寄らなかった。
お登勢さんは手を休め、煙草を取る。
「アンタが初めてここに来たときのことなんて、昨日のことみたいに憶えてるよ」
「……私も憶えてます」
銀時と再会して、まだ日が浅い頃だった。万事屋で誤解を生み、新八くんや神楽ちゃんと共にスナックに降りた。そのとき、銀時は袋の鼠状態で吊し上げられていた。帰りに銀時と一緒に歩いたことも、憶えている。
——ああ、そうだ。あのとき、私と銀時が似ているとお登勢さんは言ったのだ。
「あの、銀時と私って似てるんですか?」
あれから幾度となくお登勢さんには会っているが、なぜそう思うのかを訊いたことはなかった。改まって訊く機会もなかったし、良い意味で言ったわけでもなさそうだったからだ。
お登勢さんは私の顔を眺め、しみじみと言った。
「アンタは顔が少し柔らかくなったね」
「……そうですか?」
「銀時もそうだった。人付き合いが下手なわけじゃない、物怖じもしない。でも他人に心を寄せることはできなかった。器用に見えて、その実、臆病で何かを抱えるのを避けてるように見えたね」
お登勢さんは懐かしいものを見るように重箱に視線を落とし、蓋を閉めた。煙草に火をつけ、一服する。
「周りを頼るって頭がないのさ。そのくせ、他人のために体張って、それで自分の手足が千切れても構わないって、そういう奴だった。誰かに寄り添ったり、弱音を吐き出したり、自分の弱さを出せるほど他人に気を許せる奴じゃなかった。いや、許しちまって、そういう相手を失うのが怖かったんだろうね」
紫煙が照明の下を漂う。私は銀時の姿を頭に浮かべる。その隣には、常に誰かがいる。
銀時の周りにはいつも誰かがいる。街の人に慕われていて、とても一人で生きているようには見えない。そうして意地を張っているようにも見えない。ただ、誰かのために自分を抛つきらいがあるのは私も実感している。子どものために身代わりになり、私のために多勢に無勢にも関わらず、単身攘夷志士に立ち向かったこともある。こちらの心配などお構いなしだ。
「それがいつの間にか、周りに似たような物好きが集まってた。一緒にバカやって飯食って酒飲んで、すっかりアイツも所帯染みちまってね。ひとりになんか、もうなれなくなってた。……前も言ったかね、この話は」
「……聞いたような気がします」
お登勢さんは「そうかい」と口端を上げて煙草を吸う。煙草を吸う姿は貫禄があり、様になっている。鷹揚で懐が深く、迎合しないけれどありのままを受け入れてくれる。その人柄でお登勢さんは、かぶき町の人々に愛されている。銀時がかぶき町で万事屋を続けていられるのは、銀時自身の力ももちろんあるが、お登勢さんの目には見えない助力もあるのだろう。
「お登勢さんのおかげですね」
「ん?」
「銀時がみんなに囲まれて、万事屋でいられるのは、お登勢さんがいるからなんですね」
「家賃は払わないわ、ゴミの分別は守らないわ、あんな男に部屋貸したのを今となっちゃ後悔してるよ」
お登勢さんは鼻で笑う。釣られて私も笑った。笑いが治まると、お登勢さんは一息つく。
「アンタも同じだよ」
「え?」
「この街の連中は土足で人の中にズケズケ踏み入る奴ばっかりだからね。アンタも、もうひとりにはなれないよ」
きっと銀時も、アンタをそうはさせたくないんじゃないかね——。お登勢さんは呟くように言った。灰皿に向かって煙草を叩き、灰を落とす。
「銀時がね、女を連れてウチに来ることなんて今までなかったんだ。それも、何度も連れてくるなんて。アンタに居場所をあげたいのか、自分の居場所ってもんをアンタにも分けたいのか……まあ、そこまで考えてなくて、気の置けない場所で一緒にいたいだけなのかもしれないけどね」
「ええ……」
にわかには信じがたい言葉に顔が引き攣る。銀時から、はっきりと一緒にいたいと言われたことなどない。他愛のない会話はするのに、一方で口が重い面もある。以前に比べれば隣で過ごす時間は長くなったが、それでも未だに考えの読めないことが多い。不意のスキンシップなんかも、唐突過ぎて何がスイッチなのか全くわからない。たぶん、ただの思いつきなのだろうけれど。
私の不可解な表情に、お登勢さんは案の定といった様子で脱力した。
「あの天パ、やっぱり女の落とし方がわかってないね」
「いや、もう好きなのでいいんですけど……」
「そういうのは本人に言ってやりな」
「具合悪いのかって心配されますよ」
怪訝にする銀時の声音、表情、細部に渡るまで想像できる。遅れて自分の言葉の明け透けさに恥ずかしくなり、お酒を呷った。辛口の冷酒が喉を落ちていく。
「憎まれ口も、受け止めてくれるってアンタを信じてる証拠だよ」
「お登勢さんたちみたいにですね」
ここの人たちは、啀み合い蔑み合いながらも、それが当たり前の応酬になっている。天邪鬼で意地悪くて、やさしくてあたたかい。不格好でも自分らしくあればいいと教えてくれているようで、心地が良い。
まだ冷たい酒瓶が汗をかき始めている。猪口の中身は空になっているが、次を飲むと酔いが一気に回りそうで、手を出すか悩む。
「だからって、あんまり甘やかすんじゃないよ。男はすぐに調子に乗るから」
「甘えてるのは私のほうです。銀時には助けられてばかりで」
「……そんなに肩持たなくていいんだよ」
呆れたように声を落とすお登勢さんに微笑む。
「持ちますよ。何の力にもなれないし、役にも立てないけど、私にできることなら何でもします」
護りたいなんて口が裂けても言えない。ただ、味方でいたいと思う。私にできることがあるとするなら、その程度のことしかない。
お登勢さんは面食らったあと、溜め息と共に煙を吐く。鼻腔を抜ける匂いが懐かしく感じる。
「まったく、どうしようもないのに惚れたもんだ」
「私がですか?」
「お互いだよ」
お登勢さんは呆れながら、私の猪口に冷酒を注いだ。
◇
目が覚めて、最初に見えたのは見慣れない天井だった。寝ぼけ眼を擦り半身を起こすと、掛け布団と毛布が捲れ上がる。
昨夜は、お登勢さんのところで飲んでいたはず——。
辺りを見回し、和室の様子から万事屋にいることに気付く。
「ババアんとこで寝てたから連れてきた」
後ろからかかった声に振り返る。開けた襖を後ろ手で閉め、銀時は欠伸を噛み殺した。声が少し掠れている。
「おはよう……今何時?」
「六時」
「うわ、ごめん」
へこりと頭を下げて謝る。しかし銀時は横を素通りし、酔い潰れて爆睡していた私を責めることはなかった。だから飲むなって言ったのにと文句の一つでも言われるかと覚悟していたのに、肩透かしを喰らった気分だった。
「仕事は」と訊かれ、「昼から」と答える。午後からなので、時間はまだある。
「まだ寝てれば。俺ァ神楽起こしてもう出るけど」
えっと声が出た。
「依頼あるの?」
「寺の雪かき頼まれてんだよ。ったく、自分ちの雪かきくらいてめーでやれっつーの」
一晩でそんなに積もったのだろうか。まだ暗くて外の様子はよく見えない。
銀時はハンガーに掛けてある着流しを着込み、室内に目を向ける。目的のものは箪笥の側面に立てかけてあった。木刀を手に取り、腰に差す。
私は布団の上からずれ、髪を撫でつける。薄らと頭の奥が痛い。昨日の記憶がぼんやりとしている。
「今日の夜、空けとけよ」
不意の言葉に銀時の背を見遣る。今日は大晦日だ。
「おせちも分けなくていいってババアに言っといたから」
「……お登勢さん?」
「ここで食えばいいだろ。そんで、蕎麦食って紅白見て、初詣行くぞ。一緒に……ってか、みんなで」
私は惚けたようにきょとんとした。銀時は眉を顰め、聞いてるか? と私の顔の前で手を振る。慌てて頷くと、銀時は肩を竦めた。
「まだ酒残ってんじゃねえの。しっかりしろよ」
「うん……あの」
「じゃあ、行ってくるわ」
銀時は私の言葉を遮り、頭を雑に撫でて和室を出ていった。神楽ァ、起きろ、と声をかけていく。
甘えてるのは私のほうだと、お登勢さんに話したことを思い出す。そうだった。私はいつも、銀時がそっぽを向きながら差し伸べてくれる手を握る。握り返してくれることを、信じている。
真選組のみんなや、万事屋、お登勢さんたち——そして銀時が、一人でいた私の手を引き、見える世界を変えてくれた。慌ただしく日々は過ぎ、いつの間にか新しい一年を迎えようとしている。あっという間の毎日だった。でも、こうして無事に年明けを迎えることができるのは、周囲にいるたくさんの人たちのおかげに他ならない。私一人では、どうにもならなかったことがたくさんある。自分の無力さを痛切すると共に、人の力の大きさや思いやりを強く感じる一年だった。
和室を出ると、押し入れの襖が開いていた。中ではまだ神楽ちゃんが丸くなっていて、むにゃむにゃと寝言を言っている。下段には定春の尾が見えている。
玄関框に腰掛け、ブーツを履いている銀時に近付く。
「今日早いって言ったろうが。さっさと顔洗ってこい」
神楽ちゃんだと思っているらしい銀時の背中の前に膝をつく。丸まった背中に抱きつくと、銀時がはたと固まった。
「気をつけてね」
温かな背中に呟き、一度だけ確かめるように強く抱きしめてから腰を上げる。踵を返し、居間に戻ると神楽ちゃんが押し入れから出てきたところだった。寝癖だらけの髪と、重そうな瞼。白い頬にはくっきりと寝跡が残っていた。
「あれ、ダイゴ、起きたアルか」
「うん。おはよう。銀時待ってるよ」
神楽ちゃんはのろのろと廊下に出ていき、洗面所に向かう。「銀ちゃん床と結婚するアルか」と不思議そうな声がする。
様子を見に行こうとすると、定春が起きてきた。お腹の虫を大きく鳴らすので、先に定春のご飯を用意する。万事屋には何度も来ているので、定春のご飯の場所もわかるようになった。
神楽ちゃんの言葉にも始終無反応の銀時だったが、その後は仕事に向かった。万事屋を出る間際、恨みがましい目つきで見られたが、いってらっしゃいと送ると口を尖らせて背を向けていった。なにか言いたいことでもあったんだろうか。
明日の初日の出は、快晴でよく見えるでしょう——。
天気予報士が画面越しに知らせてくれる。昇る朝日を思い浮かべていると、視界の隅に光が差す。遅い朝日が窓の向こうに顔を出していた。
定春の体で暖を取りながら、昇る朝日を迎える。それは夜を晴らす閃光のように鋭くはない。靄がかかって、霞んだ朝日だ。けれど、とても眩しく見える。冷える指先を定春の体毛に埋め、私は目を眇めた。
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