もはや傘をさしている意味などなかった。私も銀時も、止むことのない雨のせいで濡れ鼠となっていた。それでも銀時は傘をさし続け、私の手を離すこともしなかった。
深く落ちていく夜に、このまま溶けてしまってもいいと思った。
やがて実となり花となれ
こめかみを伝う汗を拭う。山中は木々が太陽光を遮ってくれているおかげで平地よりも幾分か涼しいけれど、山道を歩いてきたせいで体感温度はさほど変わらなかった。それに加えて、辺りに響くセミの声が暑さを助長させていた。
緩やかな流れの川辺で腰を下ろし、担いでいた籠を脇に下ろした。張り付いていたものが離れ、ようやく背中に風が通る。籠の中には、使用済みのタオルや衣類が入っている。木洩れ日が差し込み、輝く水面にそれらを一枚ずつ浸して丁寧に洗っていく。どれだけ田舎といえど、今時ほとんどの家屋に電動式の洗濯機がある。我が家にそれがないのは、単純にお金がないためと、おじいちゃんがからくりの類を好まないためだ。
水飛沫を上げながら洗濯をしていると、上流から細長いものが流れてきた。蛇かと思ったが、流れに逆らわず、力なく川を下ってくる。私の手元の大きな石に引っかかったそれを救い上げると、ただの布だった。鉢巻のようだ。
上流を見遣ると、思わず息を呑んだ。川の中に下半身を浸した人間がうつ伏せになって倒れていた。
慌てて駆け寄り、その肩を掴んで仰向けにさせる。まだ若い男だった。男の髪は所々赤く染まっていたが、隙間からは銀色が覗いている。顔には細かい傷が目立ち、着ている服も薄汚れていた。腹部には血痕が大きな染みを作っている。
そっと口元に手を当てると、微かに息が吹きかかる。気を失っているだけのようだった。
私は男の体をなんとか川から引きずり上げ、洗ったばかりのタオルをきつく絞って男の顔を慎重に拭う。全く目を覚ます気配がない。
風に揺れる男の髪に触れてみる。赤く染まっているのは、乾いた血だった。
四方を山に囲まれた田舎の小さな診療所。それが私の家だ。幼い頃に両親を亡くした私を引き取ってくれたおじいちゃんと二人で暮らしている。生活は決して裕福ではないけれど、診療所に来る患者さんと世間話をしたり、おじいちゃんの手伝いをしたり、それなりに充実している。目下欲しいものといえば、洗濯機だ。
朝食の用意を終え、机で何やら紙と睨めっこしているおじいちゃんにスペースを空けるよう促す。
「おじいちゃん、ご飯できたからそれどかして。何見てんの朝から」
覗き込むと、どうやら先月の売上をまとめた表のようだった。相変わらず厳しい状態らしい。殴り書きのような数字が羅列している。
「町に腕のいい医者がきたっちゅう話だからなァ。ますますウチは火の車よ」
「おじいちゃんがタダで診察したり薬の売値下げたりするからでしょ」
「ワシを頼ってきてくれる患者さんに悪い顔できんじゃろうが!」
おじいちゃんは険しい表情で頭頂部の薄くなった頭を掻きむしる。私は「はいはい」と毎度の言い訳を聞き流し、ご飯と味噌汁を机に並べていく。あとは自家製の漬物と、ツルムラサキのおひたし。家計は火の車でも、ありがたいことに患者さんが何かと野菜などをお裾分けしてくれるので、食べ物に困ったことはない。
味噌汁を一口口に含んだおじいちゃんが、味が薄いと文句を垂れる。体を気遣ってあえて薄味にしているのだと一喝した。齢七十になろうかと言うのに、味の濃いものは好きだわ大酒は飲むわ、呆れるほど元気で参る。
朝食を終えたあとは、おじいちゃんは診察室の掃除をする。家の掃除は全くと言っていいほどしないが、診察室だけは昔から自分でしている。自分の仕事場には、やはりこだわりがあるのだろう。なので私は手出しはしない。
普段ならば、おじいちゃんが掃除をしている間は私は家事に勤しむのだが、今日は他にやることがあった。昨日川で拾った銀髪の男の様子を見ることだ。
男を見つけたあと、おじいちゃんに手伝ってもらい、どうにか家まで運んだ。服の上からではわからなかったが、男の体はどこもかしこも傷だらけで、生きているのが不思議なくらいだとおじいちゃんは言った。本来なら施設の整った病院で診てもらった方がいいのだけれど、町まで運ぶことは難しいし、得体の知れない男なので憚られた。おじいちゃんに応急処置をしてもらい、とりあえず一晩様子を見ることにしたのだ。
男を寝かせている部屋の襖をそっと開ける。男は微動だにせず布団に横たわっていた。かろうじて生きてはいるけれど、かなりの重症だ。目を覚まさないのも無理はないかもしれない。
そろそろと起こさないように近付く。額に乗せたタオルを取り替えようと手を伸ばす。しかし、その手は呆気なく捻り上げられ、私は体を反転させてあっという間に布団の上に押し倒された。目の前に赤い瞳をした男の顔があった。
「女……?」
男が呟いた。戸惑いを滲ませた低い声。私は一瞬の出来事に声すら出せず、目を丸くして男を見上げるばかりだった。しかし、煎餅布団にぶつけた頭と掴まれた手首が痛みを遅れて知らせてくる。
「い、いたい」
「……あ」
男が手を離そうとした、まさにその時だった。
「ウチの孫に何さらしとんじゃボケナスがァァァァァ‼」
勢いよく駆けてきたおじいちゃんが、怒声と共に男を蹴り飛ばした。男は部屋の壁に激突するまで吹っ飛んでいった。
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