ずぶ濡れで帰ってきた私と銀時を、おじいちゃんは目を点にして迎えた。私が先にお風呂へ入っている間に、おじいちゃんと銀時がどんな会話をしたのかは知らない。ただ、おじいちゃんは私がお風呂から上がると、風邪を引くから早く寝ろと頭を撫でた。固くて骨張った指が離れると、私は小さく謝る。
「ごめん、おじいちゃん」
「なにがだ」
「おはぎ、もらったの忘れてきちゃった」
「……またもらえるだろ」
その日の晩は、もう銀時の顔を見なかった。布団に潜って目蓋を閉じてもなかなか寝付けなかった。今更になって手が震えていた。
翌朝、いつものように食卓を囲んだ。おじいちゃんと銀時は相変わらずつまらないことで言い合いをしていた。普段なら可笑しくて笑ってしまったりするところなのだけれど、私は心ここにあらずで、ほとんど話を聞いていなかった。寝不足のせいもある。しかし考えることはいろいろあった。仕事のことや、笹岡先生に怪我を負わせてしまったこと。先生を医者なんかじゃないと言いながら、私もとても医者の孫とは言えない行いをしてしまった。一晩経ってみると、自分がなぜあんなことをできたのか心底理解できない。
謝って済むことではない。しかしそれはお互い様だ。私は先生に大怪我を負わせてしまったし、先生は自分の私腹を肥やすためにおじいちゃんの治療をしようともしなかった。許せないのは変わらないけれど、許せなくても、謝りには行こう。あの人がいなくなってしまったら、村の人たちが困るのだから。
昨晩の雨は嘘のように快晴だった。あちこちにできた水たまりが日の光を反射させてきらきらと輝いている。神社の周りでは子どもたちが泥遊びをしていた。あの子たちも熱を出したり風邪をひいたら、病院へ行かなくてはいけないのだ。改めて、あのとき銀時が来てくれて良かったと思う。止められていなかったら、おそらく私はあのまま先生の頭をかち割っていた。
三十分かけて足を運んだと言うのに、病院は閉まっていた。それもそうか、と肩を落とす。主治医があんな怪我をしていたのでは診察もままならない。私は落としていったおはぎの入ったタッパーを回収し、方向転換をした。病院の二階が先生の自宅になっている。鉄製の階段を上がり、ドアをノックする。ドアに顔を寄せて耳を澄ませてみたけれど、室内は静まり返っていて人のいる気配が感じられなかった。しかし何もせずに帰るわけにもいかず、再度ドアを叩いて先生を呼ぶ。
「笹岡先生、すみません、ミョウジです」
家の中から物音がした。何かを倒したような音だった。とりあえず生きていることに安堵した。ふう、と息を漏らし、背筋を伸ばす。
「……先生、傷はどうですか?大丈夫、な訳ないですよね」
吐き出さないと淀んでいくばかりなような気がした。自分の言いたいことだけをドアへ向けて話していく。
「昨日はごめんなさい。自分でも信じられないくらいです。あんなに人を憎いと思ったことはありませんでした。それでも、私は人にしてはいけないことをしてしまいました。頭、痛いですよね?お見舞い持ってきたので、食べられたら食べてください」
ドアノブにカステラの入った袋を掛ける。応答はない。
「謝りに来ておいてなんですけど……私、やっぱり先生のことは許せないと思います。でも先生の言う通り、多分治療を始めてもおじいちゃんは助かりません。そうやって折り合いをつけることにします。そうでもしなきゃ、前には行けないから」
一晩中布団の中で考え続けた、気持ちの落とし所だった。それを宣言したのは、他でもない私を奮い立たせるためだった。誰かに聞いて欲しかった。私のことを大して知らない先生だからこそ言えることでもあった。おじいちゃんや銀時ではだめだった。
言いたいことを吐き出しても気持ちは楽にならない。しかし、おじいちゃんや私自身のことを諦めなければいけない。前へ進まなければいけない。一人になったとしても、後ろを向いて立ち止まることはしない。
階段を降りる。ふと思い出して辺りを見回したけれど、折れたデッキブラシはどこにも見当たらなかった。従業員用出入口には、青いポリバケツだけが取り残されていた。
玄関前で銀時がしゃがみ込んでいた。膝の間には刀を挟んでいる。重たそうな目蓋をし、耳を小指でほじっている。いつもの銀時だ。昨晩から今朝に至るまで、まともに目を合わせていなかったが、銀時は私の姿を認めるなり、ゆらりと立ち上がった。
「どうしたの?」
平静を装って訊ねる。銀時は後ろ頭を掻き回した。
「迎えが来ちまった」
「迎え?」
おうむ返しをする。しかし、すぐに意味を悟った。
「行くの?」
「ああ。今度は殴らても突っ伏すわけにゃいかねぇ」
おどけたつもりなのかもしれないが、私は笑えなかった。至極真面目な顔で、「そっか」と答えた。いつも私は置いていかれるばかりだ。両親もおじいちゃんも銀時も私を置いてどこかへ行ってしまう。手の届かないところへ行ってしまうのだ。
でも銀時は、今手の届く範囲にいた。銀時を繋ぎ止める理由は結局見つかっていない。でも、もしも私の願いをぶつけてみたら、銀時は聞いてくれるだろうか。
銀時は刀を肩に掛ける。まるで最初からそこにあったかのように、それは馴染んでいた。
「世話になったな。ジジイにも礼は言っといた。あと養生して長生きしろってな」
「うん」
「お前も、まぁなんだ……あんま無理すんなよ」
「うん……」
すれ違っていく銀時の腕を掴もうとして、手を下ろす。何の前触れもなく現れたかと思ったら、消えるときも突然で呆気ない。そのくせ、心に居着いていく。なんてずるいんだろう。
遠ざかる足音に耐えられなくなり振り返る。名前を呼ぶと、躊躇いもなく振り向いてくれた。誰もいないドアの前では饒舌だったのに、胸にある言葉の数々が一切出てこなくなる。伝えたいことは山程あるのに、あり過ぎて何から言えばいいのかわからない。脳内を回転させて出てきた言葉は、口にしてみると弱々しく聞こえた。
「また、会える……?」
太陽の下で輝く銀髪がとてもきれいだった。銀時は表情を崩さなかった。
「さあな」
でも、と続け、銀時は踵を返した。
「片がついたら、またジジイのしわくちゃの顔でも拝みに来てやらァ」
銀時は、ひらひらと手を振りながら去っていった。私はその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。やがて家から出てきたおじいちゃんが、私の背中を軽く叩いた。背中に伝わる温度が心地良く、私はまだ何も失ってはいないのだと微笑んだ。立ち止まらない、前を向くと決めたんだ。前だけを見て進まなければいけない。
畦道に佇む長髪の侍が、真っ直ぐに歩いてくる銀時に目を留める。銀時は侍に気が付くと、あからさまに面倒そうに顔をしかめた。
「村まで近付くなっつったろうが、ヅラ」
「ヅラじゃない桂だ。貴様が世話になったと言う医者に礼を言わねばならんと思ってな。どれ、案内しろ」
「なんでてめーが行くんだよ!てめーは俺のかーちゃんか!」
「ヅラじゃない桂だ」
「もういーわこのやり取り!」
すれ違いざまにラリアットをかまし、銀時は桂を引きずっていく。引きずられながら桂は銀時を見遣る。
「貴様のいない間、幸いにも敵軍たちからの奇襲はなかった。だがいつ状況が一変するともわからん。戻ればすぐに戦は再開されるぞ」
「……」
「いいのか、このまま別れて」
されるがままになっていた桂を乱暴に地面に叩きつける。うごっ、と呻いて桂は倒れ伏した。銀時は構わず歩き続ける。
「死んでるかもしれねぇヤローをわざわざ探しに来た奴が何言ってんだ」
銀時は刀を持つ手に力を込める。昨夜の雨が乾き切っていない大地はぬかるんでおり、踏みしめると僅かに沈む。道端に咲いた花は、晴天へ向かってたくましく咲いていた。
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