ワンルームの部屋は、手を伸ばせばすぐに必要なものに手が届く。とは言え、室内には必要最低限の家具と日用品、服しかない。元々物をたくさん持つのは好きじゃない。掃除が面倒だし、結局そこにものがあることさえ忘れてしまうからだ。
バルコニーへ小さな鉢の観葉植物を置く。江戸へ来て間もない頃になんとなく緑が見たくて購入したものだけれど、名前は忘れてしまった。
小さなテレビから流れるワイドショーを聞き流しながら、洗濯物を干していく。一人分の洗い物はあっという間に干し終える。テレビも洗濯機も田舎にいた頃は触れてこなかったけれど、やはりあると便利だ。特にテレビは勝手に情報を垂れ流してくれる。江戸では日々どこかしらで事件が起きていて、賑やかで気が休まるときがない。時々真選組の活躍も映し出されるけれど、評判は五分五分といったところだろうか。つい先日も市中の建物を破壊したとニュースになっていた。大衆に迎合すべきとは思わないけれど、警察である以上一般人の安全を最優先したほうがいいのではないかと思う。
冷蔵庫に作り置きしてあった常備菜が尽きかけている。一人なのでなかなか減らなかったが、そろそろ買い出しに行かなければいけない。財布と鞄を持ち玄関を出る。鍵を閉める事も忘れない。
方向音痴を自覚してから知った道しか歩かなくなった。通い慣れたスーパーへの道を歩いていると、駄菓子屋の前で傘がくるくると回っていた。晴れているのに傘、しゃがみ込む赤い服。見覚えのある姿に声をかける。
「神楽ちゃん?」
振り返った青い瞳と目が合う。やはり神楽ちゃんだった。
「あ!えーっと、お上りさんのネーサンアルな!」
そういえば名乗っていなかったなと思い、ナマエでいいよ、と隣にしゃがむ。神楽ちゃんの前には酢昆布が並んでいる。
「酢昆布好きなの?」
「ナウでヤングな今時女子の必需品ヨ」
「ナウでヤングかぁ」
どこでそんな言葉を覚えるのだろう。神楽ちゃんは物欲しそうな目で赤い箱を見ていた。私は少し考えた末、酢昆布を二つ手に取りレジへ持っていった。会計を済ませて店から出てきた私を神楽ちゃんがきょとんして見上げている。
「私も食べたかったから、はい」
酢昆布を一つ神楽ちゃんへ渡すと、途端に目を輝かせて飛び上がる。
「キャッホォウ!いいアルカ?これもらっていいアルか?」
「もちろん」
「ありがとうネ!ナマエは私の第二のアネゴアル!略してダイゴアル!」
「それややこしくない?」
なんでもいいアルヨ、と神楽ちゃんは早速酢昆布の包みを剥がす。無邪気に喜んでいる姿が微笑ましい。第二ということはどこかに第一のお姉さんがいるのだろう。
しかし、神楽ちゃんは万事屋という何でも屋で働いていると言っていたけれど、酢昆布一つ買えないほど儲からない仕事なのだろうか。
神楽ちゃんは嬉々として酢昆布を食べていたが、そういえば、と私を見る。
「どっか行くところだったアルか?」
「ん?夕飯の買い出しだよ」
「料理できるカ?」
「人並みだけどね。神楽ちゃんは料理しない?」
「卵かけご飯ができるネ!今日の夕飯も卵かけご飯アル」
「……」
上機嫌の神楽ちゃんに、私は遠慮気味に訊ねる。
「ねえ、神楽ちゃん。もし良かったら夕飯一緒に食べない?」
神楽ちゃんは手放しで喜んでくれた。人様の家に上がる気はなかったのだけれど、神楽ちゃんが今日はマダオがいないからウチで料理をしてほしいとねだるので、神楽ちゃんのお宅で料理をすることになった。マダオという謎の三人称に疑問はあったが、深くは訊かなかった。一緒に働いていると言っていた男性の名前だろう。
ハンバーグが食べたいと言うのでスーパーで食材を買い揃えた。薄暮の空の下、ビニール袋を下げて並んで歩く。歳は離れているが、妹がいたらこんな感じなのだろう。幼い頃は、きょうだいのいる子達のことが少し羨ましかった。日が沈み始めると二つの影が伸びていて、同じ帰路へ着くのだ。その影を見送る私を迎えに来るのは、いつもおじいちゃんだった。ビーチサンダルでガニ股で、不格好な影。きょうだいが欲しかったと思うことはあったけれど、帰るぞーと手招きされて迎えにきてもらうのは好きだった。
「ここがうちアル!」
神楽ちゃんが指差したのは、一階がスナック、二階が万事屋銀ちゃんと看板を掲げた建物だった。マダオさんの名前は銀ちゃんというのだろうか。頭の片隅に知っている銀髪が過ぎったが、そんなわけはないかと浮かんだ顔を振り払う。
軽快な足取りで階段を上がっていく神楽ちゃんに続く。ただいまヨーと引き戸を開けるが、返事はなく、その代わりに定春が出迎えてくれた。定春は私のことを覚えていてくれたらしく、身をすり寄せる。ふわふわの頭を撫でていると、待ちきれないと言わんばかりに部屋の奥から神楽ちゃんに呼ばれる。
室内にはテーブルやソファ、テレビがあるが、目を引くのは正面に飾られた額に飾られた糖分の二文字。落ち着きなく辺りを見回している私の手を神楽ちゃんが台所へ引っ張る。ハンバーグ作りに取りかかる私の手元を神楽ちゃんはじっと見ていた。見られていると緊張するので、話題を振る。
「神楽ちゃんはここでその、マダオ?って人と住んでるの?前に言ってた一緒に働いている人なんでしょ?」
「そうアル」
「マダオさんってどういう人?」
「糖尿病寸前の足クサ万年金欠ニートヨ」
ふん、と嘲るように鼻を鳴らして言い切られる。随分辛口だ。しかし夕飯に卵かけご飯のみという環境から見て、金欠というのは本当のようだ。そして、そのひどい言われようをしている本人は今は酒を飲みに出かけているらしい。家に一人で平気なのかと訊ねると、朝まで飲んだくれて帰ってこないのはザラだし、数日帰ってこないときもあるらしい。大人としてどうなんだろうか。
「寂しくないの?」
ハンバーグを捏ねながら訊ねる。神楽ちゃんはきょとんとしたが、すぐにあっけらかんと答えた。
「寂しいことなんてないネ。だって帰ってくるアル」
それに私もアネゴの家とかそよちゃんの家に泊まりに行ったり忙しいアルヨ!と神楽ちゃんは胸を張る。私は「そっか」と笑って頷いた。最低な評価を受けてはいるけれど、神楽ちゃんにとってはそんなことは些細な問題なのかもしれない。そして神楽ちゃんもまた、望んでここに帰ってくるのだ。
日が沈む頃になって、二人で食卓を囲んだ。華奢な体躯のわりに神楽ちゃんは大食漢で、山盛りのご飯を幾度もおかわりをして、多めに作ったハンバーグも全てぺろりと平らげた。副菜のマカロニサラダや付け合わせのキャベツも完食だった。こんなに食べるなら家にあるおかずも持ってくればよかった。
神楽ちゃんは膨れたお腹をさすりながらソファに背を預ける。
「ふぁ〜、ごちそうさまアル」
「美味しかった?」
「もちろんネ!ダイゴ、料理上手アルな、またご飯作りに来てヨ」
「じゃあ今度はマダオさんのいるときに来るよ」
さすがに神楽ちゃんに誘われているとは言え、家主のいない間に上がって台所を拝借するのは気が引ける。神楽ちゃんは「あんなヤツにダイゴのご飯食べさせなくてもいいヨー」とソファの上に足を投げ出して寝転ぶ。私はお皿を洗い、お茶でもないかと勝手に冷蔵庫を開けた。しかし中に食材はほとんどなく、卵や調味料くらいしかない。ドアポケットにはお茶はなく、飲みかけの苺牛乳がある。食後に飲みたいものではなかったので、そっとドアを閉めた。
「ねえ神楽ちゃん、お茶っ葉って」
台所から出て居間へ声をかける。しかし、神楽ちゃんは横たわったまま寝息を立てていた。口の端からよだれが垂れている。寝付きの良さに感心する。定春も床の上で丸くなって眠っていた。
足音を立てないように押し入れらしきところの襖を開ける。勝手に家の中を漁るようで気が引けたが、春先の夜は冷える。押し入れから毛布を出し、神楽ちゃんへゆっくりとかけた。寝言を言っているが、むにゃむにゃと口を動かしているだけで何を言っているのかはわからない。本当にこんな妹がいたら良かったのに、と微笑が漏れる。
袂に入れていた酢昆布を一つ、テーブルに置く。黒電話の置いてあるテーブルからペンとメモを拝借し、言伝を残す。
台所へ戻り、自分用にと買ってきた食材の入った袋を漁る。鍋に水を入れ、火にかけた。
帰るときには一階のスナックには明かりが灯っており、賑やかな声が聞こえてきていた。二階の看板を見上げる。万事屋銀ちゃん、どんな人なのだろう。
「うーい、神楽ァ……銀さんが帰ったぞ〜」
朝日を浴びながら力の入らない手で引き戸を開ける。ブーツを脱ぎ、段差を越えようとしたが、足がもつれて顔面から倒れ込んだ。痛む頭に別の衝撃が襲いかかり、呻き声を上げる。体を起こそうとすると、体勢の変化が響いたのか胃の内容物が競り上がってきた。
「ウッ…」
口元を手で覆う。酸っぱい匂いが鼻をつく。堪えきれずにトイレに駆け込む。えずいていると、重い足音が廊下を通り過ぎていく。振り返ると酢昆布を咥え、冷めた目をしている神楽、定春まで呆れたように目を細めていた。社長や飼い主に見せる顔ではない。
「いい加減懲りろヨ」
「うるせー……大人にはな、酒でしか癒せねえもんがあんだよ」
「おまえを癒すほど酒も暇持て余してねーヨ。私、定春の散歩行ってくるからちゃんと仕事探してこいヨ」
辛辣な台詞に傷付きながらも、仕事を探してこいという真っ当な催促にぐうの音も出ない。家計が火の車なのは今に始まったことではないが、ここ数日は毎食卵かけご飯だけという食生活を送っている。ドッグフードに手をつけるのも時間の問題だ。
口元を拭い、吐瀉物を流してトイレを出る。台所からふわりと香る味噌の匂いに足を止めた。コンロの上に僅かに蓋のずれた鍋がある。隙間から湯気が立っている。蓋を開けるとしじみの味噌汁があった。神楽が作るわけがない。誰かが作ったものを温めて食べたのだろう。しかし、誰が作る?新八は昨日は昼過ぎに帰っていった。お妙はダークマターしか生み出せない。万事屋に来て料理をするような奴なんて知り合いにはいない。
味噌と出汁の匂いが空っぽになった胃を誘う。行儀なんて気にする質ではない。おたまに掬った味噌汁をすする。美味い。なぜか懐かしく感じる味で、空っぽの胃に染みる。しかし眠気が食欲に勝り、あくびを噛み殺して腹を掻きながら居間へ入る。室内に差し込む日の光に目を眇める。のろのろと歩を進めていると、テーブルのメモ用紙が目に止まる。
――味噌汁と卵焼き作ったので食べてね。マダオさんにもよろしく。
神楽に向けて書かれたものだ。マダオってまさか俺のことか。緩やかな筆跡だが、規律正しい文字の形。やはり誰か来ていたようだ。メモをテーブルへ戻し、耳の穴をほじる。台所へ引き返し冷蔵庫を開けるが、卵焼きはなかった。神楽が全部食ったのか。
散歩から帰ってきた神楽に、メモの主について訊いた。文字の形や気の配り方からして女だと思い込んでいた俺は、神楽が「ダイゴアル」と言ったことで一気に落胆した。
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