喉に詰まるあんぱんを牛乳で流し込む。既に体がそれらを受け付けようとしていないが、無理矢理飲み込む。あとで吐くかもしれない。
数センチほど開けた窓の隙間から、魚の干物を炙る香ばしい匂いが漂ってくる。ああ、この匂いだけでご飯三杯でも五杯でもいけそうだ。俺のあんぱん生活、もとい張り込み生活のささやかな救いだ。外から見えないよう注意しながら窓へ顔を寄せる。トタンの屋根へ上がる白い煙。七輪の上で団扇に扇がれる開いたアジ。思わずよだれが垂れる。
「山崎さん?」
肩を震わせて後ろを振り向く。玄関に不審者を見るような目で俺をみている女性が一人。女中のナマエちゃんだった。慌てて口の端から垂れるよだれを袖で拭った。
「あ、あああナマエちゃん!」
声が上擦る。ナマエちゃんは「声が大きいですよ」と俺を制する。俺としたことが失態を犯してしまった。窓を閉め、障子の隙間も狭める。
室内には空の牛乳パックやあんぱんの袋、捨てにも行けずに無造作に放られたごみ袋が散乱している。ハエもそこら中を飛び回っている。こんなごみ屋敷のような汚い部屋に女の子を入れるなんていかがなものか。ましてや、彼女は普段、料理や掃除などをする女中だ。目も当てられないような惨状に眉を顰めるだろう。
しかし、彼女は飄々として散らかり放題の部屋のゴミ袋を跨ぐ。
「土方さんに様子を見てこいと言われて……すごい部屋ですね」
「あ、ごめん、張り込みのときはここを離れられなくて」
「大変な仕事ですねえ」
久しぶりに人と会話をしていることと、労わる言葉に目頭が熱くなる。張り込みをしていると心が荒んでしまうのが常だが、それと共に人の優しさに敏感になり、些細なことに感動してしまう。目元を押さえる俺をナマエちゃんが苦笑いしつつ見る。
「どうしたんですか?」
「ごめん、気にしないで……」
「ハンカチいります?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
彼女は俺が断ったハンカチを懐に戻した。彼女は気が回る上に品がある。その反面、男所帯の屯所でも常に毅然としていて、愛想も良く仕事の覚えも早い。最近、食堂の利用者が増えているのが彼女の影響であることは間違いない。女に縁のない芋侍は、彼女が自分に笑いかけてくれただけで自分に気があるのだと浮かれている。当然、それはただの勘違いで、彼女は誰にでも分け隔てなく親切で笑顔を向けるのだ。おまえだけじゃねーよと冷や水をぶっかけるのもくたびれる。
ナマエちゃんはごみ袋を避け、俺の傍に座った。風呂に入っていないので自分の体臭が気になり、少し距離を取る。しかし彼女は気が付かず、手に持っていたビニール袋を俺に広げて見せた。中にはコンビニのおにぎりが数個とペットボトルのお茶が入っていた。
「これ、差し入れです」
「えっ」
あんぱんと牛乳ばっかりじゃ体が保たないですよ、と微笑まれる。所詮、俺も芋侍の一人に過ぎないのだ。張り込みの神様に背き、彼女の笑みにあっさりと絆されようとしている。もはや彼女が女神に見える。しかし女神が微笑もうと張り込みの神様が俺を見ている。背徳感から震える手を伸ばそうとしたとき、目の前に銀色の刃が振り下ろされた。俺はすんでのところで叫び声と共に腕を引っ込めた。ナマエちゃんが「沖田さん」と刀を振り下ろした本人を見上げる。
女神でも張り込みの神様でもない、ドSの神様が降臨された。沖田隊長は畳に刺さった切っ先を抜き、舌打ちをした。
「チッ、外したか」
「外したか…じゃないですよ!アンタ副長の命だけでは足らず俺の腕まで奪う気ですか!」
「てめーが作った掟を破ろうとするクソ野郎を斬ってやろうとしただけじゃねえかィ」
「俺の掟を俺が破ってなんでアンタに斬られなきゃならんのですか!ていうか隊服じゃないですか!ホシに見られたら……」
「俺がそんなヘマするとでも?ちゃんと正面から入ってきたぜィ」
「バカだよ!この人バカだよ早速ヘマやらかしてるよ!」
沖田隊長は窓辺に斜めに立つ。視線の先には干物屋がある。うっすらと人の声が聞こえてくる。俺の耳には聞き慣れた干物屋の店主である男の濁声をよく拾う。窓辺に擦り寄り、正座したまま外を窺う。店主と話しているのは、時たま買い物に来る近所の主婦だった。ハズレか、と俺は落胆する。ため息一つ漏らさなかったが、沖田隊長は俺の心情を読み取ったように推察を述べる。
「女を使うってこともあらァ」
「わかってますよ」
女は干物をいくつか買って帰っていった。繁盛している店ではないので、次に客が来るのはいつになるかわからない。それでもあの干物屋が潰れないのには訳がある。濁声の店主が店に引っ込んでいく。
店主は違法薬物の売人だ。裏のルートを使い仕入れた薬物を売り捌いている。近頃江戸に蔓延る薬物はほとんどが天人が持ち込んだ異星の輸入品だ。その中でも店主が売っている薬物は安価で手に入る。依存性はそう高くないが、手に入りやすい価格のせいで若者やならず者にまで出回っている。もちろん警察として売人を野放しにしておくわけにはいかないが、あの店主には餌としての利用価値がある。干物屋には似つかわしくない帯刀した男が、度々店を出入りしているという情報を得たのだ。目撃情報から、その男はかつて攘夷戦争に参加していた攘夷浪士だと判明した。
攘夷戦争に参加していた侍は、ほとんどが既に打ち首になっているか、今は一般人として平和に暮らしている。しかし、倒幕に対する火を打ち消すことができずに、今も攘夷活動に勤しむ連中が数多くいることも確かだ。そういう奴らは、桂や高杉のように新たな仲間を得ていることが多い。
干物屋に出入りする男もまた、どこかに仲間と共に潜伏している可能性が高い。そいつを釣り上げるまでは、俺の張り込みは終わらない。
沖田隊長は暫し窓の外へ目を向けていたが、動きがないと見ると刀の柄に手を置いて踵を返した。
「帰りやすぜィ、ナマエさん」
「え、もう帰るんですか?」
ナマエちゃんはごみ袋をせっせとまとめていた。やはり目に余っていたようだ。沖田隊長はそんなもん放っておきなせィと真っ直ぐに玄関へ足を進める。前から思っていたが、隊長はナマエちゃんに対して妙に優しい。彼女の仕事の一部には副長や隊長の身の回りの世話もあるから、親しくなっていてもおかしくはないのだが、あまりにも俺との扱いに差があって違和感すら覚える。他の隊士のような、熱のこもった雰囲気ではない。純粋という言葉とは程遠い位置にある人だが、あえて言うのならば純粋に慕っているように見える。今日も一緒にここまで来たのだろう。
「こんなとこにいたら脳みそあんぱんまみれになりまさァ」
「それは俺の脳みそが既にあんぱんまみれってことですか?」
沖田隊長は俺の言葉を無視して部屋を後にした。ごみをまとめて持っていこうとするナマエちゃんを引き止める。ナマエちゃんは精神衛生上も悪いと言うが、さすがに大量のごみ袋を持って出ていかれてしまうと周囲に怪しまれる。真選組が張っているとバレるわけにはいかないと説得すると、ナマエちゃんは渋々ごみ袋を手放した。
「あ、そのおにぎり、食べてくださいね。沖田さんはああ言ってたけど、ちゃんと体は大事にしてください」
ナマエちゃんがおにぎりとお茶を指差して笑みを見せた。
散らかり放題の部屋に再び一人になった俺は、窓の外を見ながらおにぎりの包みを剥がした。張り込みの神様、ごめんなさい。今日だけは許してください、と心の中で手を合わせる。おにぎりの具材は、おかか、鮭、ツナマヨと海鮮でまとめられていたが、王道に間違いはない。口内に溢れ出る唾を一旦飲み込み、思い切りかぶりついた。
「ナマエさん、約束通りあのおにぎり、俺からの差し入れって言わなかったですよねィ?」
「え?言いませんよ。なんでですか?」
「いや、それでいいんでさァ」
白米の中が真っ赤な液体に染まっている。俺は掠れた声で絶叫した。お隣さんがうるせー!と壁を蹴り上げてくる。灼けるように熱い喉を潤すため、牛乳を滝のように流し込んだ。が、結局、全部吐いた。
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