「携帯を買え」
土方さんの部屋へお茶を持っていくと開口一番言われた。私は首を傾げる。土方さんが煙草を灰皿へ押し付けると、紫煙が断ち消えた。
「この前、シフトを代わってほしいのに連絡がつけられないと女中のおばさんに言われなかったか」
「……言われました」
出勤した日に同僚のおばさんから言われた。翌日のシフトを替わって欲しかったらしいが、私の連絡先を女中の誰も知らなかったため、土方さんに聞いたところ土方さんも私の連絡先を知らなかったと。家には電話を置いていないので連絡のつけようなどなく、用事があるときは職場で会うしかない。
携帯電話を持っていないと言ったら、信じられないという顔をされた。若いのに彼氏と連絡を取ったりしないのかと色々質問攻めにされてしまった。おばちゃんというのはどこへ行っても世話焼きでお節介なのだと実感した。
土方さんは二本目の煙草に火を付けた。苦い顔で煙を吐き出す。
「いざってときに連絡がつかないようじゃ困る」
「土方さんと連絡取ることはないと思いますけど」
「そういう問題じゃねーんだよ。つーか今時携帯持ってないとか原始人かよ」
「連絡取るような人もいなくって」
しかし、土方さんの言うようにここで色々な人と関わって仕事をしていくのなら、確かに携帯電話は必要だ。土方さんと連絡を取り合うようなことはなくとも、女中間で連絡を取り合うこともあるだろう。
無言の圧力をかけてくる土方さんに、私は「じゃあ買ってきます」と腰を上げる。しかし、部屋を出る前に土方さんを振り返る。
「携帯ってどこで買えばいいんですか?」
自動ドアが開く。私の手には白い携帯電話があった。掌にちょうど収まるそれがとてつもない精密機械のように思えて、大切に握りしめる。こんな小さなからくりで、遠くにいる人と電話ができたりメールのやりとりができたりするのだ。やりとりする相手もいないので、あまり使う機会はなさそうだけれど。隣を歩く土方さんを仰ぎ見る。
「すみません、付き合わせてしまって」
「おまえ一人で行ったら余計な機能だ何だと付けられそうだったからな。携帯ごときで生活に困窮されても困る」
「私はそんなにバカじゃありませんよ」
苦笑しながら言い返す。土方さんがいてくれて良かった。担当をしてくれた愛想の良い店員の男性が次々に口にする単語や料金説明に、私の頭は全く追いついていなかった。横で土方さんが、電話とメールができれば十分な年寄り仕様にしてくれと言ったことにはムッとしてしまったが、確かにそれ以外の機能が私に使いこなせるとは思えない。
白い機体が太陽光に反射してきらきらと輝いている。歩きながらそれを眺めていると、するりと手の中から携帯が引き抜かれた。土方さんが自分の黒い携帯と私の携帯を開き、何か操作している。一分もしないうちに、土方さんは「ん」と私の手に携帯を戻した。開かれたままの画面には、土方さんの名前と電話番号が表示されている。きょとんとして画面を見つめる私の頭上から声が降ってくる。
「なんかあったら電話しろ。ろくに知り合いもいねえんだろ」
「……土方さんって」
「なんだ」
「意外に優しいですよね?」
素直な感想を伝えると、土方さんは面食らったように硬直した。そして視線を泳がせ、「ンなことねえだろ」と顔を逸らす。ふ、と笑うと、土方さんが笑ってんじゃねーと眉間に皺を寄せる。可愛いところもあるんだな。
駐車場に停められたパトカーへ乗り込む。土方さんがエンジンをかけ、車はビル街へ出る。土方さんは信号待ちで自分の胸ポケットを漁るが、目当てのものはなかったらしい。
「煙草買ってきていいか」
土方さんの視線がコンビニへ向いている。私はどうぞ、と答える。車を路上駐車し、土方さんはコンビニへ入っていった。一日に何本吸うのだろう。体のことを考えればあまりいただけないが、煙草の匂いは懐かしくて落ち着いた。
助手席に残った私は、何となしに流れる車を眺めていた。大型トラックが時折視界をいっぱいに埋めていく。車線はいくつもあるが、車の流れはスムーズで滞ることがない。事故があれば真選組も交通整理に駆り出されるらしいけれど、今日はそんな心配もなさそうだ。
コンビニのほうを一瞥する。土方さんはレジに並んでいた。その前には数人の影が見える。少し混み合っているようだ。視線を道路へ戻すと、また大型のトラックが走り去っていった。その後ろを一台の銀色のスクーターが走り抜けていく。私は、ハッとして身を乗り出した。後輪部分の『銀』という文字、ヘルメットの下から見えた銀色の髪、一瞬見えた横顔。
スクーターは車の波と共に走り去っていく。私は無我夢中でシートベルトを外し、携帯電話を座席に放り車を飛び降りた。突然パトカーから降りてきた女を通行人が驚いた表情で見ているが、構わず私は交差点へ向かって走り始めた。しかし、既にスクーターは車線変更をして右折して行った後だった。
「銀時!」
叫び声はトラックの走行音に掻き消された。トラックが去ると、もうスクーターは見当たらなくなっていた。
あれは銀時だった。銀時だった。見間違えるはずがない――
心臓の鼓動が早まる。潜めていた熱が体の表面にまで伝わってくる。
あれから何年経っただろう。銀時のことを忘れたことなど一時もなかった。おじいちゃんが死んだあとも、きっと会いにきてくれると信じていた。約束はしていない。でも、きっとまた来てくれる。確証はないが、確信はあった。今はそれが私のただの願望でしかなかったことがわかる。しかし、銀時の存在こそが私の唯一の支えだった。一人になっても、どこかに私のことを知っている人が、私の悲しみも憎しみも全て知っている人がいるというだけで私は救われていたのだ。それは今も変わらない。
しかし、月日が経つうちに一つの可能性が私の頭を擡げるようになった。銀時は既に死んでいるのではないだろうか、と。明言はされていないが、銀時が攘夷戦争へ出兵する侍だとは気付いていた。攘夷を掲げた侍のほとんどは、無残にその命を散らせてしまったと聞いた。
やがて私の願望は祈りに変わっていった。生きていると信じたい。どこかで元気にしているならそれでいい。もう会いたいだなんて望まない。でも、もしも、もうこの世にはいないのだとしたら。二度と顔を見ることも声を聞くこともできないなら。答えの出ない問答を繰り返して、幾晩も過ごした。結局答えは出ないまま、今日まで来てしまった。
――そうか。生きてたんだ。
スクーターの走っていった先を見つめる。引っ切りなしに車が目の前を過ぎていく。土方さんの声が聞こえて、私は熱い目元を擦る。
「オイ、勝手にうろちょろすんな」
すいません、と振り返ると、土方さんの瞳孔の開いた瞳が見開かれる。土方さんがなにか言いたげに口を開く。私はそれを遮る。
「知り合いがいたような気がして。すみません、帰りましょうか」
「……」
「帰りますよ、ほら」
動こうとしない土方さんの腕を軽く掴み、車まで引っ張る。訊いてもなにも返ってこないと判断したのか、土方さんは黙って車を走らせた。車はスクーターの走り去った方向とは逆方面に向かっていた。
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