寝不足の日が続いていた。夜になると天気が荒れ、薄いアパートの壁を雨粒が叩くせいもあるが、原因はもう一つある。
 布団の中で寝返りを打つ。視界には暗闇しかない。しばらくぼうっとしていると、闇に慣れた目が徐々に景色を映し出す。自分の手と壁。窓の外はひどい雨風だ。雨は風向きに流されて音を変える。
 目を閉じると、頭の中がぼんやりと滲む。何度も開けた記憶の引き出しを今夜も開ける。あの日は風がなく、大地を穿つように雨が降っていた。私を覆う傘、包帯の巻かれた腕。あのときの私はどうしようもなくて、衝動に突き動かされ、取り返しのつかない過ちを犯そうとした。それを止めた、銀色の鈍い光を思い出す。
 江戸へ来てからは、毎日疲れて夢さえ見ずに泥のように眠っていた。しかし、先日スクーターに乗る銀時の姿を見たときから屡々あの日のことを思い返すようになってしまった。体はすぐにでも休息を取りたいと訴えているのに、胸の奥がざわめいて落ち着かない。
 枕を握って、うつ伏せになる。明日も朝から仕事だ。




 昨夜の雨は朝まで足を引きずり、重い雲が太陽を覆っていた。しかし勢いは弱まり、風も止んでいた。静かに降り続く雨の中、町には色とりどりの傘が咲いていた。私はなんとなく神楽ちゃんの姿を探したけれど、すれ違う人々の中には見つからなかった。
 所用を終えて屯所へ戻った。寝不足のせいか足に力が入らない。頭も回っていない。脳の奥に靄でもかかっているようだ。足を踏み出しているはずなのに床の感触がない。視界が歪む。私は、真っ直ぐに歩けているのだろうか。
 不意に膝から崩れ落ちる。呼吸が浅くなる。誰かが私の名前を呼んでいた。肩を揺さぶられるが、朦朧とした意識の中では呼応さえできない。掠める煙草の匂いが、懐かしい顔を思い起こさせた。




 重い頭を動かす。目を開けると、黒い膝が視界に入った。視線を持ち上げると、土方さんが胡座をかいて座っていた。数拍の間私は状況を飲み込めず、ぼんやりと土方さんを見ていた。土方さんも私を見ていた。

「起きたか」

 土方さんの声でようやく事態を把握した。半身を起こそうとしたものの、力が入らず再び布団へ埋もれる。体は熱いのに背中にはじっとりと冷や汗をかいていた。

「ひどい熱があるそうだ。さっきまで女中がおまえの世話見てたんだが、何か食うものを用意するってよ」
「……ごめんなさい」

 喉から出た声が細い。土方さんは深く息を吐いた。いつもの煙草は咥えていない。

「しんどいならそう言え。迷惑かけたくねえなら、周りを頼ることも必要だろ」
「……」

 返す言葉がない。喋る気力もほとんどなかった。

「おまえはよくやってるよ。女中連中も、近藤さんも認めてる。そんだけの信頼をおまえは得てるんだ。愚痴の一つや二つこぼしたって、誰も責めやしねえよ。それともなにか?周りの人間が信用できねえってか?」
「そんなことは」
「だったら周りを頼れ」

 土方さんは諭すような口調で私を窘める。私は力のない声で「はい」と返事をしただけだった。
 周りの人を信用していないわけではない、と思う。女中の先輩たちは面倒見が良いし頼りになる。近藤さんだって、きっと私が困り事を相談すれば親身になって聞いてくれるだろう。人はみんな、優しくて温かい。他人を思いやる心がある。わかっているのに、心を寄せることができない。私は弱いから、人に心を明かすことがとても怖いのだ。
 土方さんは懐に手を入れようとして、何を思い直したのか手を下ろした。
 時計の音が鮮明に聞こえる。微動だにしない土方さんに我慢できずに声をかける。

「あの、私は平気ですから、仕事に戻ってください」
「おまえが寝たらな」
「土方さんがいたら寝れません」
「空気だと思え」
「空気は呼吸しません」

 しかし土方さんに動く気配はない。本当に寝るまでここにいる気だろうか。目を離した隙に私が逃げるとでも思っているのか。重い体を引き摺っていけるような状態ではないのだけれど。
 土方さんは手持ち無沙汰そうにマヨネーズ型のライターを手の中で弄んでいる。どうやら煙草を吸いたいのを我慢しているようだ。

「煙草、吸ってもいいですよ」

 土方さんが苦い顔をする。病人の前で吸えるか、と言わんばかりだった。

「土方さんの煙草の匂い、落ち着くんです」
「落ち着く?」
「祖父が、吸う人だったんです。私に見つからないように隠れて吸ってたんですけど、服に染み付いてるからバレバレで」

 喋るのも億劫だが、無言でいるのも耐えられずに、熱で浮かされた頭で言葉を探す。愛煙者は煙草の匂いに鈍感だが、非喫煙者は僅かな匂いでもすぐに気が付く。煙草を吸ってきたことをバレているとは露ほども思わず、素知らぬ顔をして私の前へ来るものだから、そんな間抜けさがおかしかった。
 背中に張り付く汗が気持ち悪く、寝返りを打つ。土方さんのほうを向くと、切れ長な瞳と目が合う。整った顔から逃れるように布団を顎まで引っ張り上げる。

「医者だって言ったか」
「ええ。片田舎の小さな診療所でしたけど」
「今もそこで医者を?」
「もう、亡くなりました。何年も前です」

 間を置いて「そうか」と土方さんが答える。土方さんが背にする障子には陽の光が当たっている。寝ている間に雨は止んでいた。

「連絡取るような人間はいないと言っていたが、本当に誰もいないのか」

 土方さんからの質問の意味がわからなかった。何を疑われているのだろう。
 眠気が襲ってくる。土方さんの低く静かな声が、更に私の眠気を誘っている。沖田さんを怒鳴っているときとは比較にならないほど静かな声色だった。

 ―――おまえの手は、そんなことするためにあるんじゃねえだろ

「……そばにいてほしいと、思った人はいました」

 降りようとする目蓋を無理やり上げる。何度も何度も開けた引き出しは、擦り切れて軋んだ音を立てる。それでも私の中に棲みついて離れない、銀色の光がある。私の口からは、高熱で浮かされているせいか、誰にも言ったことのない思いが滑り落ちていく。

「でも……その人には、他に行かなきゃいけない場所があって、私も引き止める勇気がなくて……」

 土方さんは火こそつけなかったが、煙草を咥えた。虚ろな目は土方さんの表情を捉えない。目を凝らそうとしているうちに、土方さんが立ち上がる。動くと漂う煙草の匂いは、隊服に染み込んでいるものだろう。

「落ち着いたら家まで送る」

 障子が開くと、湿気を含んだ風が吹き込んできた。寝るまでいると言っていたのに、あっさりと部屋を出ていってしまった。とは言え、やっとゆっくりと眠れそうだ。早く本調子に戻れるように、今はしっかりと休まなければいけない。布団の中で身動ぎし、ふと障子の向こうに人影があることに気が付く。かっちりとしたシルエット。しかし、その上にある頭は丸みがある。土方さんが歩いていった方向とは反対側に影はあった。

「沖田さん……?」

 名前を呼んでみたが、影はものを言わず廊下を横切って行った。





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