陽が落ちるのが随分と遅くなった。薄明るいが、店仕舞いしようとしている福引屋の前で足を止めた。一等が米十キロ。誰にも当てられなかったらしく、まだ残っている。一合で約一五〇グラムだから、十キロで約六十六合。つまり六升。体力勝負のせいか食欲旺盛な真選組の面々の食事の量を考えると、三日と保たない。家に持ち帰ってもいいけれど、家まで運ぶには少し骨が折れる。
悩んでいると、福引屋のおじさんに「姉ちゃん、やるかい?」と訊ねられる。既に片付け始めていたが、おじさんは、構わないよと言って回転式の福引機を私へ向けた。取手を回すと、黒とも紺ともつかない半端な色の球が転がった。
「あちゃぁ〜残念賞」
眉を八の字にしておじさんが額を叩く。そして私の掌へたわしを置く。更に残り物だけど、とお菓子の詰め合わせをくれた。米や商品券などの価値の高いものは全て回収し、おじさんは去っていった。おじさんの去っていく方向の空には、暗い色の分厚い空が立ち込めていた。一雨来そうだ。
リボンでラッピングされたお菓子の詰まった袋を見遣る。一昔前の駄菓子ばかりが入っている。その中には酢昆布もあり、青い瞳の神楽ちゃんの顔が頭を過ぎる。酢昆布一つで手放しで喜ぶ姿を思い出すと、私の足はいつか歩いた万事屋へ向いていた。
神楽ちゃんと来た道を思い出しながら歩いていると、ぽつりと雨粒が頭に落ちてきた。見上げると、灰色の雲が頭上を流れている。
雨はあっという間に勢いを増し、街行く人々を追い払った。私は少し雨に打たれたものの、無事に万事屋の前へ辿り着いた。階段を上がり、呼び鈴を鳴らす。しばらくして、引き戸が開いた。目の前に現れた銀時に私は言葉を失った。銀時も硬直している。
「えっと、神楽ちゃんに会いにきて」
お菓子の詰め合わせの袋を掲げる。銀時は、あー、と後ろ頭を掻いた。
「今いねぇけど」
「……じゃあこれ、渡しといてくれる?」
「おー、悪いな」
「じゃあ、また」
踵を返そうとした私を銀時が引き止める。
「上がってかねーの?」
「えっ」
「そのうち帰ってくると思うし」
雨も降ってるし、と言いながら銀時は引き返していく。私は迷った挙句、敷居を跨ぐ。電気がついておらず、雨のせいで薄暗い部屋へ通される。一度入ったことのある家なのに、銀時がいるだけで別の家のように思える。私が部屋へ入ると入れ違いに、銀時が部屋を出ていく。そしてタオルを持ってすぐに戻ってきた。
「その辺座ってろよ」
手を差し出したのに、頭にタオルを被せられる。お礼を言う間もなく、銀時はまた部屋を出て行ってしまった。足音と雨音だけが、静まり返った部屋を埋める。びしょ濡れというほどでもないが、着物も少し濡れているのでソファーに座るのは憚られた。立ったまま髪を拭きながら、なんとなく辺りを見回す。窓際の机の上には、開かれたまま伏せてあるジャンプと、口の開いた苺牛乳のパックがある。
「あんまじろじろ見ないでくんない」
驚いて振り向くと、銀時が湯呑みを持って後ろに立っていた。
「茶ァ淹れたから」
「……ありがと」
「ちゃんと乾かせよ」
「うん」
銀時は私の脇を横切り、湯呑みをテーブルへ置いて窓際の椅子へ腰掛ける。家主に合わせて、なるべく濡れないようにソファーへ浅く腰をかける。頭のタオルを首に下ろす。湯気の立つお茶を啜ると、喉が熱くなった。
気になっていたことを訊ねる。
「万事屋銀ちゃんって、銀時のことだったんだね」
「あ?あー」
「万事屋ってなにするの?」
「何でも屋だ。頼まれれば犬の散歩でも浮気調査でもなんでも」
「あんまり景気良くないんだよね?」
「はっ?」
起こしたジャンプを再び伏せる銀時。片眉を吊り上げている。「酢昆布一つ買えないような商売なんでしょ」と続けると、銀時は神楽か、と溜め息を吐きながら背もたれに深く背を預けた。
「あいつ、他にもなんか言ってた?」
「マダオっていう糖尿病寸前で万年金欠でニートで」
「あーもういいわ大体わかった」
椅子をぐるりと回して銀時が窓を向く。銀時は私と神楽ちゃんが知り合いということを知っていたようだった。神楽ちゃんから何か聞いていたのか訊ねると、銀時は暫し言い淀んで、味噌汁、と呟いた。
「しじみの味噌汁、おまえが作っていったんだろ?」
銀時は再びジャンプを開いた。神楽ちゃんと夕食を囲んだ日に、朝食用にと味噌汁と卵焼きを作っていった。そのときは、まさかマダオという人物が銀時のことを指しているとは思っていなかった。
「ごめんね、勝手に台所使って」
「いやいーけど。ジジイが酒飲んできた次の日、よく作ってたろ」
お酒好きだったおじいちゃんは、飲んだ翌日は決まってしじみの味噌汁しか口にしなかった。習慣とは恐ろしいもので、おじいちゃんがいない今でも、飲んだ翌日にはしじみの味噌汁と私の中で固定観念ができてしまっている。
銀時には、おじいちゃんが死んでしまったことを話していない。私が一人で江戸に来ている時点で、察しているのかもしれないけれど。どういう言い回しをすればいいのか考えてみたものの、事実は変わらない。おじいちゃんのことも私のことも知っている銀時には、気遣いなど不要のような気がして、ありのままを率直に告げる。もう何年も経っているのに、いつもこの言葉を紡ぐ瞬間は少し緊張する。
「おじいちゃんね、もう、死んじゃったの」
ページを捲る銀時の手が止まる。しかし、三秒と経たずに手は動く。
「そうか」
雨音だけがする。伏せた目を見つめるが、驚きが感じられない。
「……もしかして、知ってた?」
「……」
「なんで?」
訊ねても答えはない。ソファーに着いた手を握る。
「うちに来たの?」
「家までは行ってねぇ」
「なんで?」
「なんでって、」
「待ってたのに」
つい口をついて出た言葉は、あまりに身勝手だった。約束なんてしていない。銀時の預かり知らぬところで、私が勝手に待ちぼうけを喰らっていたような気になっていただけだ。自分の失言を取り消そうにも、繕う声が出なかった。銀時は私を一瞥し、再びジャンプへ目を落とす。そんなことは知らない、と言われたようで、胸がチリ、と擦り切れたように痛む。
銀時にとっては私との再会も些末なことだった。だから、動揺もないし平然と優しくできる。あのとき、沖田さんの放ったバズーカから庇ってくれたことにも、意味なんかなかった。私は知っている。銀時が優しいことくらい。相手が誰であっても庇ってくれただろう。
下唇を噛む。ゆっくりと顔を俯ける。
しばらく雨の音だけを聞いていた。やがて銀時がジャンプを開いたまま、口火を切った。
「おまえに、会えるような男じゃなかったんだよ」
顔を上げる。私からは頬と鼻筋が見えるだけで、表情は窺えない。声色は穏やかで、静かだった。
「おまえがあんまりにも真っ直ぐに歩いてるもんだから、てめーの足元も見えてねぇ俺が、会っちゃいけないと思った」
銀時は閉じたジャンプを机に置く。背もたれが軋む。
「俺はさぁ、おまえがどっかで、幸せだって笑ってくれてりゃそれでいいんだよ。結婚してガキがいてもいいし、おまえ働くの好きだったから、バリバリ仕事しててもいいし。どんな場所でも楽しそうにしてくれてんならそれで。俺みてぇにふらふらしてるヤローなんか忘れて、幸せに、」
銀色の頭目掛けてたわしを投げつける。後頭部にぶつかったたわしは、机の上に落下した。銀時が頭を押さえて振り返り、机に落ちたたわしを見遣る。
「何これ」
「たわし」
「いや、たわしだけれども」
「たわし……」
「……ナマエ?」
なんで今、名前を呼ぶのか。口内を噛み、震えそうになる声を振り絞る。
「幸せってなに?」
「……」
「なんでそんなの勝手に決めるの」
「……ナマエ」
「幸せじゃなくていい」
顔が熱い。じわじわと目に涙が溜まっていく。首にかけていたタオルで目元を拭う。洗剤の匂いがする。
雨上がりのあの日、別れてから銀時に一体なにがあったのか、私には何もわからない。それでも、会っちゃいけないなんて、銀時が勝手に線を引いていたことに腹が立つ。幸せでいてくれたらいいなんて、言ってほしくなかった。私はそんなもの欲しくない。
「勝手だよ、銀時は。私は、ただ、私は……」
溜まった涙が頬を伝う。銀時が立ち上がる気配がした。手の甲で涙を拭い、嗚咽と共に漏らしたのは、ただ一つの願いだった。
「幸せじゃなくていいから、銀時のそばにいたい……」
生きているだけで十分だと思ったはずなのに、顔を合わせて、声を聞いてしまうと、どうしようもない欲が出てしまう。できることなら、明日も明後日も、銀時のそばで、笑っていたい。でも、それは私の勝手な願いで、一方的に押し付けていいものではない。このままここにいてはいけない。銀時は、ここで新しい生活を手に入れて暮らしている。そこへ私が介入してはいけない。銀時がそれを望むなら、私は身を引く。迷惑をかけたくはない。
足に力を込めて立ち上がる。すると、銀時が「オイ」と急ぎ足で机を避けてこちらへ一歩二歩と距離を詰めてきた。逃げようとした私の首からタオルが落ちる。それを踏ん付けた銀時が足を滑らせた。
「うおっ」
「っ!」
前のめりに倒れてきた銀時に巻き込まれて、私も一緒に床へ倒される。銀時は私に跨る体勢になり、両手を私の顔の真横に着いていた。倒れた拍子に私は後頭部を打っていたけれど、眼前の銀時の顔に気を取られて、痛みを感じなかった。ソファーとテーブルの狭い間に挟まれた私たちは、互いに薄く口を開けたまま動けずにいた。どうすることもできずに身を固くさせていると、ガララ、と音を立てて戸が開いた。その音に私は視線だけを向け、銀時は顔を上げた。
入り口に立っていたのは、眼鏡をかけた少年だった。少年は私たちを見て唖然とし、わなわなと手を震わせた。銀時が冷や汗を流す。
「ぎ、銀さんが」
「ちょ、ぱっつぁん、これは違う」
「銀さんが」
「違う違うお願いだから話聞いて」
「銀さんがついに強姦をォォォォォ‼」
「ちげーっっつってんだろォォォォ‼」
「こんの腐れ天パァァァァァァ‼」
激しい足音と共に部屋に飛び込んできた神楽ちゃんが銀時へドロップキックを喰らわせる。すっ飛んで行った銀時に馬乗りになり、顔面を容赦なく殴りつける。
「お母さんはおまえをそんな男に育てた覚えはないネ!」
「誰がお母さん⁉」
「銀さん……元々見損なってましたけど更に見損ないましたよ。あんたは生粋のクズです」
眼鏡の少年が私に大丈夫ですか?と声をかける。体を起こし、平気だと答える。定春が擦り寄ってきて、頭を押し付けてくる。柔らかい毛触りの頭を撫でていると、神楽ちゃんが「あれ、ダイゴ」とようやく私に気が付いた。銀時の顔は、既にパンパンに腫れていた。
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