朝起きて、顔を洗って身嗜みを整える。朝食の用意をしていると、おじいちゃんが起きてきて新聞を広げる。テレビもラジオもないこの家では、世間のニュースを知らせてくれるものは新聞のみだった。ちなみに、ご近所のニュースを知らせてくれるのは、回覧板と患者さんだ。子猫が生まれて引き取り手を探しているという平和な話題のほか、どこぞの奥さんとどこぞの旦那さんが不倫しているという下世話なものまで様々だ。小さな村なので、どんなに些細な噂でも一度人の耳に入ると光の速さで広まる。
診療所に若い男がいるという噂もまた、いつの間にか村中の人が知っていた。
「あいつァただの患者だ。行くあてがないっつーんで、居候させてるだけのことよ」
診療所にやって来る好奇心旺盛な年配の患者さんたちに、おじいちゃんは決まってそう説明する。すると、大概返ってくる返事は同じだ。
「ナマエちゃんの男じゃないのかい」
あんな男がナマエと釣り合うわけがねえだろ、とおじいちゃんはケタケタと笑う。銀時の姿など村の人たちは見たことがないのに、みんな好き勝手なことを言うのだから困ったものだ。
朝食の用意を終え、机に並べる。いつもならすぐに食事にするのだが、最近は新しい日課が増えた。
「銀時ー、起きてるー?」
襖を開けると、布団の上で大の字になって寝ている銀時がいる。口からはだらしなくよだれを垂らしている。私はため息を漏らし、布団をひっぺがす。銀時はむにゃむにゃと言葉にならない音を出し、枕を抱きしめた。はだけた寝巻きの胸元からは、未だ取れない包帯が覗いている。しかし寝返りを打てるくらいには回復していた。
「おーい」
枕も腕から引っ張り出して呼びかけると、ようやく目が開いた。いつも眠たそうな目が、余計に重たそうだ。ご飯の用意ができたことを伝えて、襖を開け放したまま部屋を出た。銀時は起きてから覚醒するまで時間がかかるので、朝日を当てておくことにしている。
銀時が立って動けるようになるまで、幾日かかっただろうか。私が鉄拳を食らわせて以来、銀時は這うようにして自分でトイレに行く意外には大きな動きはしなくなっていた。下手に動いて傷の治りが遅くなると、自分の自由も遠退くと悟ったのだろう。賢明な判断だ。
自分の足で動けるようになってからも、銀時は大人しくしていた。相変わらず傷は塞がっていないので、おじいちゃんは仕事を終えたあと治療を続けていた。私も、包帯を替えるくらいの手伝いはしている。
「オイナマエ、味噌汁が薄いな」
毎度の如くおじいちゃんは味噌汁にケチをつける。
「塩分過多で死なないように気を付けてあげてるんでしょ?文句言わない」
「ジジイ思いの孫で幸せじゃねーか。早死にしないように気ィつけろよ」
「余計なお世話じゃ天然パーマ」
「天然パーマ関係ねーだろジジイ」
二人の売り言葉に買い言葉の応酬も日常になっている。男同士の関係は不思議だ。どんなに年が離れていても、きっかけさえあれば同い年の友人みたいに喧嘩をしたり酒を飲み交わしたりできる。
私は二人のくだらない口喧嘩を眺めながら食事を続ける。おじいちゃんは、仕事をしているときとは少し違う、活き活きとした表情をしている。銀時の肩の力の抜けた雰囲気や態度が、そうさせているのかもしれない。かくいう私も、銀時を既に赤の他人よりも近い存在に感じていた。銀時は、妙な魅力のある人物だった。
「ナマエ、おかわり」
おじいちゃんにご飯茶碗を渡され、席を立つ。銀時の茶碗を見遣ると、空になっていた。
「銀時は?」
手を差し出すと、銀時は私を見上げ、数拍置いてから茶碗を私の手へ置いた。
「頼む」
ふ、と笑って、私は台所へ向かった。無遠慮なのかと思えば、時々躊躇いを見せる。ちぐはぐな言動が可笑しかった。
診療所を開ける時間になると、おじいちゃんは診察室、私は家事やら家の周りの掃除やらに精を出す。一通りの仕事を終えると、診察室で患者さんの応対をする。銀時はその間、部屋で寝ていたり、縁側で外を眺めたりしている。しかし、体もだいぶ動くようになったし、いつまでも家にいたのでは退屈だろう。私は銀時に、一緒に川へ行こうと誘った。銀時は縁側で横になっていたけれど、私の後ろをのろのろとついてきた。私が担いでいる籠を銀時は自分が持つと言ったけれど、軽いから平気だと断った。しかし、無理矢理奪われた。まだ体のあちこちが軋むらしく、動きはぎこちなかった。
「おまえ、最初っから洗い物手伝わせる気だったわけ?」
隣でおじいちゃんの着物を洗う銀時が口を尖らせる。私は笑いながら、そんなことないよと否定した。信用していないらしい銀時は、不満を言いながら、それでもせっせと手を動かしている。
空は快晴で、時折心地よい風が吹く。水の流れはいつもと変わらずゆるやかだが、ここ最近雨が降らないせいで水かさは少ない。
「覚えてる?銀時、あそこに倒れてたんだよ」
上流のほうを指差す。気を失っていたんだから覚えているわけがない。案の定、銀時は全く覚えていなかった。
「覚えてねーよ。気付いたら布団の上だったんだから」
「そうだよね。でも、元気になってよかった」
「……」
体に触れる空気は暑いのに、水に浸けたままの指先は冷たい。水流に任せたままの手がゆらゆらと揺れる。
「おまえ、ずっとあのジジイと二人で暮らしてんの?」
「うん。両親がね、小さい時に死んで、それからずっとおじいちゃんと二人。」
「ふーん」
自分で訊いたくせに興味なさげだ。覇気のない横顔を見ながら、「銀時は?」と訊き返してみる。
「家族はいるの?」
言葉にしてみてから、家族というものと銀時を繋げようとしてみたけれど、うまく結び付かなかった。幼い銀時が両親と一緒にいたり、兄弟と笑い合っていたりする姿を想像しようとしても、なかなか映像が浮かばない。でも、きっとみんな銀時と同じような銀色の髪をしているのだろう。
「いねーよ」
銀時は洗い終えた着物を絞り、籠に突っ込んだ。皺になるから、伸ばしてから入れて欲しい。
「いたら今頃、こんなところで洗濯してねーだろうよ」
腕を上げて、銀時は背筋をのけ反らせて伸びをする。そして足元の小石を拾い、水面へ向かって勢い付けて投げる。小石は水面を跳ね、反対側の岸へ落ちる前に水底へ沈んだ。銀時は悔しそうに眉根を寄せた。
「あーくそ、もうちょいだったのに」
「へたくそ」
「なんだと⁉」
おまえやってみろ、と銀時が顎をしゃくる。私はにやりと笑い、小石を掴んで投げてみせた。私の投げた小石は、水面をリズミカルに跳ね、無事に向こう岸へ辿り着いた。ガッツポーズをする私を銀時が忌々しげに見ている。
その後何度繰り返しても、銀時の投げる小石が川を越えて向こう岸へ着く事はなかった。洗った着物が半乾きになる頃には、銀時は怪我をしているから本調子ではないだけだと、仕様もない強がりをのたまった。
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