スナックを出てから、ナマエはずっと俺の半歩後ろを歩いていた。視界に入らないので、気配と足音だけを頼りに存在を確認するしかない。
ナマエの手を引いて歩いていたことが遥か昔のことのように感じる。今は、手を引く理由もない。大した理由もなく触れられていたあの頃は、やはり年相応に青かったのだと思う。
分かれ道に差し掛かり、ナマエを振り返る。それに合わせてナマエがぴたりと足を止める。
「どっち」
ナマエが左を指差す。俺はナマエの家の場所なんか知らないので、逐一こうして確かめるしかない。それでもナマエは前を歩く気はないらしく、仕方なく先に歩き出す。日の沈んだ街に人影はなく、二人分の足音がよく聞こえる。
あどけなさの残っていたあの頃に比べれば、ナマエは垢抜けて大人になった。どこが変わったとは説明し難いが、女は月日が経つと変わるものだと実感した。それでも、柔らかそうな頬の丸みや、笑うと弧を描く瞳は変わらない。俺の名前を呼ぶ清澄な声も、あの頃のままだ。
ナマエが江戸にいることには驚いたが、更に驚いたのは、真選組で働いているということだった。なぜ、よりにもよって真選組なのか。マヨラー然りドS王子然り、ろくな奴がいない。局長はゴリラだし。しかし、俺にとやかく言う資格はもちろんない。ナマエの決めたことに、上司でも家族でもない俺が口出しなどできやしない。
雨上がりの湿った匂いが鼻をつく。風もなく、蒸し暑さに背中に汗が滲んでいる。
ナマエは終始黙りっぱなしだった。強姦疑惑をかけられた俺は新八と神楽に絞られ、バケモノやからくりにまで好き放題言われ、散々な目に遭った。神楽に思い切りぶん殴られたせいで口の中が血の味がする。
女の涙は見たくない。いつも気丈に振る舞い、笑っているような女なら尚更。俺のために泣くような女なんてそうそういないのが現実なのだが、ナマエは俺のせいで泣いていた。
ナマエのあの言葉を受けて、ここ最近、とんと感じていなかった心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。帰ろうとしたナマエを引き止めようとしたのはほとんど反射に近かった。そのまま帰してしまったら、二度と顔を見せることはないような気がした。突き放すようなことを言ったくせに、目の前から消えようとすると手を伸ばす。ナマエの言う通り、俺は勝手だ。
大衆の目に映るナマエという女は、働き者で献身的な誰もが認める孝行娘だ。しかし、その実人並みに傷付き、涙を流すこともある、どこにでもいる普通の女だ。一人で何もかもを抱え込み、破裂するまで溜め込む。苦しみも悲しみも内に秘め、ひた隠しにして、人前では気丈に振る舞い、強くあろうとする。
戦争を終え、護りたかったものを失い、路頭を彷徨っていた俺にはナマエは触れてはいけない存在だった。高嶺の花のように手を伸ばしても届かないものではないが、野に咲いた小さな花のように、摘み取ることを躊躇ってしまうような存在だった。
歳月が流れ、もう何も持たないと手ぶらで歩いていたはずなのに、この街であらゆるものがこびりつき、気が付けば両手じゃ足りないほどのものを抱えていた。あれから随分と時間が経ったのに、ナマエのことは忘れていなかった。笑顔も泣き顔も色褪せることがなくて、いい加減呆れてしまうほどだった。しかし、そのおかげで俺は曲がりくねった道を歩きながらもまっすぐであろうとすることができた。ナマエは今の俺を形作る一部だった。
緩やかな曲線を描く橋を渡る。雨のせいで川の水嵩は増しており、水流は少し早い。欄干には水滴がまだ残っていた。
「銀時」
橋の中腹でナマエが名前を呼ぶ。足を止めると、ナマエは「ここでいい」と一言。橋の向こうにはまだ道が続いており、赤提灯をぶら下げた屋台が一つあるだけだ。客はいないらしく、閑散としている。
「別に取って食ったりしねーよ」
「そんな心配してない」
心配されないのも複雑ではある。家に置かせてもらっていたときもそうだが、コイツは警戒心が足りなさすぎる。
ナマエは何か言いたげに口を開き、すぐに唇を結んだ。
土方に言われた言葉を反芻する。俺には似合わない。わかってんだ、そんなことは。でも、おまえにそんな顔をさせるつもりはなかった。おまえが望んでくれるなら、俺も少しは、近付いてもいいのだろうか。いや、でも。
頭の中でぐるぐると思考が堂々巡りをする。そのうち、ナマエが横を通り抜けようとする。伏せた目は俺を映しちゃいない。ああ、くそ。
ナマエの手首を掴む。ナマエは不可思議そうに俺を見上げる。やけくそで言葉を選んでいる暇もなく、こじつけにしても無理のある言い訳をする。
「取って食やしねーけど、おまえの作ったメシなら食いたい」
「え?」
「神楽も喜ぶし。いつでも来ていいからよ」
「……いいの?」
つくづく勝手で卑怯だ。しかし、そんな俺のことをナマエは何の疑いもなく見てくる。
「ちゃんと俺の分も用意してくれんならな」
ナマエは視線を右往左往させて、黙って頷いた。べたつく掌はナマエの細い手首をぐるりと余裕で包み込んでいる。
「私、ここにいていいの?」
「おまえがいたいって言ったんだろ」
「うん」
ありがとう、と力なく笑うナマエ。言葉を言い淀んだり口を噤んだりするくせに、時折飾りのない素直な思いをぶつけてくる。謝罪と感謝だけは言い漏らさない。
アパートまでの道をナマエは俺の隣を歩いた。月にかかる雲が、緩やかに流れていた。アパートの前でナマエは、またね、と小さく手を振った。階段を上がり部屋の中へ入るまでを見送り、帰路に着く。
夏の夜は短い。星の見えない空には、欠けた月が浮かんでいた。まるで自分の狭小さを映しているかのような姿に、湿っぽい息を吐き出した。
←
top
ALICE+