ちゃぶ台に置かれた空の酒瓶と猪口。畳の上ではおじいちゃんが大の字になって転がっていた。赤い顔で口を開けっぱなしにして眠っている。年々いびきが大きくなっているのは、気のせいではないはずだ。
おじいちゃんの脇に座り、骨張った脛を揺らす。
「寝るなら布団行ってくださーい」
声をかけてもいびきが返ってくるばかりだ。軽く叩いてみても変化がない。
空には無数の星が瞬いている。外では虫たちが大合唱を繰り広げていた。気温は低くないが、夜風が当たると体はひんやりと冷たくなる。
毛布を持ち出して、おじいちゃんへかける。おじいちゃんは邪魔臭そうに身動ぎしたものの、すぐに大人しくなった。一時的に止まったいびきも、再び始まってしまった。年を取ると呼吸器官のどこかが詰まるのだろうか。
寝顔が間抜けなのは変わらない。しかし、数え切れないほどの皺や、目尻にできたシミ、徐々に脂肪の落ちてきた頬を見ていると、自分がどれほどの長い歳月をこの人と過ごしてきたのか実感する。お酒は相変わらず毎晩のように飲んでいるけれど、最近は食事の量が減ってきた。年齢を重ねれば訪れる当然の変化なのに、時々どうしようもなく不安になる。特にこんな静かな夜には、余計なことばかり考えてしまう。
酒瓶や猪口を片付けて、ふと銀時の姿がないことに気が付く。夕食を終えたあと、晩酌に付き合えと医者らしからぬ誘いをしたおじいちゃんへ向けて、銀時は「誰が好き好んでジジイの酌するか」と断っていた。てっきり部屋に戻ったか、お風呂にでも入っているのかと思ったが、どちらにもいない。真っ暗な室内、空っぽの布団に、嫌な胸騒ぎを覚えた。
うちに来た頃に比べれば、だいぶ傷は治ってきている。未だに自由の効かない部分はあるようだけれど、日常生活には支障ない。目が覚めたとき、銀時は立つのもやっとの体で何処かへ行こうとしていた。迷いなく、何か使命を背負っているようだった。
完全ではないにしろ、もしかしたら。
玄関を飛び出る。街灯も隣家の明かりもない暗闇の中で周囲を見回すと、おぼろげな光が目に映った。橙色の明かりは、田舎道をゆっくりとこちらへ向かってくる。目を凝らしていると、先に向こうが声を上げた。
「あれ?なにしてんのおまえ」
銀時だった。提灯と何か細長いものを持って、歩いてくる。提灯の明かりに、怪訝な顔が照らし出されていた。知らず知らずのうちに大きくなっていた鼓動が徐々に落ち着きを取り戻していく。
「銀時こそ、なにしてるの」
「なにって、……散歩?」
どうして疑問形?
「……黙って出て行かないでよ」
心配した、と続けた言葉は尻すぼみになってしまい、銀時の耳にまで届かなかったかもしれない。
顔を上げていられずに俯く。俯いた先に、銀時が手に持つ細長いものの先端が見えた。きらりと鈍い光を放つそれは、刀の切っ先だった。暗くてはっきりと見えないが、見事な曲線が闇の中に浮かんでいる。昔は帯刀する侍をよく見かけたが、最近ではめっきり見かけなくなった。
「それ、どこで?」
「……押し入れにあった」
「提灯じゃなくて。刀」
「あー、コレ、川で拾ってきた」
「川?」
「おまえが俺を拾ったっつー川の上流。よく覚えてねえけど、コイツを握りしめたまま流されたような気がして」
銀時は握った刀を一瞥し、私へ視線を移す。俯き気味の私の顔を覗くように身を屈めると、動きを止めた。いつもは垂れ下がった目が、僅かに見開かれる。私が唇を噛んで眉根を寄せていたせいだ。
戸惑いを見せながらも、銀時は「どうした?」と訊ねる。どうしたのか訊きたいのは私自身のほうだった。どうしてこんなに心が揺れるのかわからない。
江戸から遠く離れた田舎の村にも、攘夷戦争の波は押し寄せていた。村からも若い男が幾人も国を守るためと剣を取り、戦争へ臨んだ。帰ってきた者はまずいない。帰らない家族を待ち続けている人たちを何人も知っている。斯く言う私の両親も、攘夷戦争で傷付いていく侍たちを助けるために戦場へ駆り出された医者だった。しかし、戦場で命を落としてしまった。攘夷戦争が始まったばかりの最も過激な頃だ。
訃報と共に受け取ったのは、泥だらけで冷めきった、両親の遺体だった。
湿った土の匂いがする。銀時は背筋を伸ばし、提灯を持ったほうの手で後頭部を掻き回した。そして提灯と刀を片手にまとめて持ち、私の手を引いて家へ戻る。
銀時は草履を脱ぎ、提灯の中の蝋燭へ息を吹きかけて火を消した。そして遠慮のない足取りで家へ上がっていく。そう日が経っていないというのに、随分と慣れたものだ。私も銀時の後に続く。目の前で揺れる刀が目につく。
「ねえ、銀時は……」
人を斬ったことがある?
足が止まる。あと三歩進めば手の届く位置にいるのに、刀を握った銀時は、ひどく遠くにいるように感じる。銀時は赤の他人で、たまたま出会ってしまっただけの存在に過ぎない。訊いてどうするのかという問いが頭を掠める。
額にかかる前髪を払う。銀髪から覗く赤い目は私を見つめていた。
「ごめん、なんでもないや」
おやすみ、と告げて踵を返す。数歩進んだところで、背後で金属音が響いた。振り返ろうとする私の体を、覆うように腕が伸びてくる。背中に感じる体温と、汗の匂い。包帯の巻かれた腕は太く筋肉質で、しかし私が振り払えば呆気なく離れてしまいそうなほど、柔らかく私を包んでいた。縮こまった私の腕を掴む銀時の掌は温かい。
なにが起こっているのか状況を理解できないまま、時間が過ぎた。十秒か三十秒か、一分以上経った頃か、銀時はそっと体を離した。生温い空気が二人の間に生まれた。
「……早く寝ろよ」
振り返ることができなかった。襖が閉まる音が聞こえて、恐る恐る振り返ると、そこには銀時の姿も、刀も無い。潰れた提灯だけが廊下の隅に置かれていた。
布団の上に倒れ込む。厚みのない煎餅布団に横たわると衝撃が直に体に響いた。癒えきらない傷に鋭い痛みが走る。一瞬顔をしかめた後、銀時は頭の下に腕を回して枕代わりにした。天井を見上げても、なにも映らない。ただ、目の奥には苦しげな表情のナマエの顔が浮かんでくる。何かを言いかけて口を閉ざし、笑顔を見せた。作り物の笑顔だった。
ナマエはなにも訊かない。だが、きっと気付いている。自分が、両親を奪った攘夷戦争に身を置く人間だということ。
腕の中に収まったナマエの体温が残っている。細っこくて小さくて、力を込めればすぐに潰れてしまいそうなほど脆い。同情で抱きしめたつもりはない。ただ、体が勝手に動いた。そして抱きしめたものの、なにを言えばいいのか全く思い付かなかった。
「……なにやってんだ、俺は……」
泣きそうな顔をしている女一人、慰めることもできない自分が不甲斐なかった。
近いうちに、ここを出て行かなければいけない。護らなければいけないものが待っている。しかし、目蓋を閉じても、今浮かぶのはナマエの顔ばかりだった。
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