朝から弱い雨が降っていた。雨は音もなく降りしきり、草木を濡らしている。道端に連なる花たちは、水分を喜んで享受しているようだった。
 診療所は、雨の日はとんと暇になる。定期的に通ってくれている患者さんたちも予約をしているわけではないので、都合の良い日に来るだけだ。それもほとんどが年配の人だから、悪路の中をわざわざ歩いてやってくることはまずない。
 おじいちゃんは午前中だけは診療所を開けていたけれど、昼からは町へ出かけると言って出て行ってしまった。家の中には、私と銀時の二人だけだった。銀時は部屋で昼寝、私は居間でカルテの整理をしていた。おじいちゃんは金勘定はするけれど、大概ものぐさで大雑把なので、細かい書類仕事は嫌いだ。文字を追ったり紙をまとめる作業は私の仕事になっている。私は地味な作業が好きなので、ちょうど釣り合いが取れるのだ。
 しかし、何年も同じ仕事をしていると要領も得るというものだ。カルテの整理も一時間とかからず終えてしまい、手持ち無沙汰になってしまう。診療所が空いていれば、患者さんと雑談したりおじいちゃんの手伝いをしたりするのだけれど、今日はそんな仕事もない。夕食の用意をするにも時間が早過ぎる。
 銀時が起きていれば話し相手くらいにはなってくれるのだけれど、物音一つしないところから見て、まだ寝ているのだろう。それに、先日から銀時は私を避けている節がある。避けていると感じるほど露骨ではないが、あまり目を合わせなくなった。
 ごろりと畳に横たわる。小さい頃は年の近い男の子と遊んでいたけれど、ここ何年も老齢の患者さんたちばかりと関わっているから、どうも若い男性の心理が掴めない。何かに勘付かれて気を遣わせてしまったのだろうか。
 畳の上に投げ出した、水仕事で荒れた自分の手が目に入る。かさついた指先同士を擦り合わせていると、視界の隅から平べったいものが這ってきた。焦点が合うと、思わず悲鳴が出た。ムカデだ。

「っぎゃぁ!」

 腹筋を使って飛び跳ねる。勢い余って机に脛を強打した。続けて「いった!」と脛を押さえる。しかしすぐさま目の前を通り過ぎていったものを探す。ムカデは悶える私を尻目に、たくさんの足を動かし蛇行しながら前進していた。
 何か奴を追い払えるものがないか辺りを見回していると、激しい足音を立てながら血相を変えた銀時が部屋に駆け込んできた。

「ナマエっ」

 銀時の足が畳の上で滑る。私が危ない、と叫ぶ前に、銀時は素っ転び、畳に右半身を打ち付けた。そこはムカデが這っていた場所だった。

「いっ……っ〜」

 打ち所が悪かったのか唸る銀時。完治していないのに走るわ転ぶわ、痛いに決まっている。身を横たえたまま動けなくなっている銀時へ駆け寄る。

「大丈夫⁉……ていうか銀時、ちょ、ちょっとどいて」
「あ?」 

 銀時を無理やり押し除ける。案の定、下敷きになったムカデが苦しそうにのたうち回っていた。体が千切れても動くようなしぶとい生命力を持つくらいだ。潰されただけでは大したダメージではないだろう。銀時はその姿を見て、情けない悲鳴を上げて後ずさった。しかし私と改めて目が合うと、咳払いを一つして居直り捲し立てる。

「おまえが急にでけぇ声出すから来てやったんだろーが泥棒でも入ったのかと思ったら何だよこれムカデ一匹でビビってんじゃねーよ」
「銀時だってビビってたじゃん」
「してませんーちょーっと、ほんのちょーっとびっくりしたけどそんなんビビったうちに入んねーし」
「なにその強がり」

 子供染みた言動につい笑ってしまう。銀時はばつが悪そうに顎の下を掻く。未だのたうち回るムカデを銀時は一瞥した。そして私がまとめたカルテを一冊手に取り、カルテをゴルフクラブよろしくスイングした。ムカデは縁側へ向かって飛ばされていき、地面に落ちていった。外はしとしとと雨が降り続いていた。
 カルテを机の上に戻し、銀時は右腹を押さえながら立ち上がる。それを引き止めるように、私は銀時の服の裾を掴んだ。銀時が私を見下ろす。

「銀時、さっき名前言ったよね?」
「……あ?」
「私の名前。初めて呼んでくれた」

 微笑みかけると、銀時は眉をひそめた。

「初めてじゃねえだろ」
「初めてだよ。ずっと、なぁとかオイとかおまえとかばっかりだったよ」

 銀時は面倒臭そうに顔を歪めるばかりで、もう名前を呼んでくれそうな雰囲気ではない。名前を呼んでくれたことが嬉しかったのもあるが、私の可愛くない叫び声を聞いて駆けつけてきてくれたことに胸がむず痒くなる。
 ふふふ、と笑うと、銀時はますます顔をいびつにして、私の手を軽く払って部屋を後にする。

「どこいくのー?」
「二度寝だ二度寝」

 二度寝どころか三度寝だろうと内心でツッコミを入れる。寝るか食べるかくらいしかやることがないのなら、今度一緒に町でも行ってみよう。

 カルテを束ねて診察室へ向かうと、室内で電話が鳴っていることに気がつく。急ぎ足で診察室へ入り、カルテをデスクへ置いて電話に出る。時折、患者さんから空き状況の確認だったり、おじいちゃんへの個人的要件のために電話がかかってきたりする。からくり嫌いのおじいちゃんが家に置いている数少ない文明の利器だ。

「もしもし」
「ああ、ナマエちゃんか⁉」

 電話口から聞こえたのは焦燥混じりの野太い男性の声だった。声だけではいまいち誰かわからないけれど、私のことを知っている人だ。尤も、小さな村では皆が顔見知りなので、こちらが知らなくても相手は私のことをよく知っていることは多々ある。私は気に留めず頷く。

「はい、そうですが……」
「あぁよかった、ナマエちゃん、落ち着いて聞いてくれ」

 男性の切羽詰まった様子に、ただ事ではないとわかる。もしかして、どこそこの何とかさんが亡くなったとか、そういった類かもしれない。緊張して受話器を握り直す。

「どうかされましたか?」
「じいさんが……じいさんが、倒れたんだ」

 呼吸が止まった。雨の音だけが鮮明に聞こえる。数秒遅れて、私は間抜けにも「え?」と聞き返していた。






top
ALICE+