白い壁に白い天井、白いベッド。病室に入ってきた男もシミ一つない白衣を着ている。私が振り向くと、男は会釈をした。まだ若いが、腕が良いと町では評判の医者だ。それまでおじいちゃんの診療所へ通っていた患者さんの中にも、こちらの病院へかかるようになった人は多い。町にあるので利便性は高いし、設備も整っている。初めて入った病院だけれど、患者さんがこちらへ流れるのも頷ける。
「こんなにご立派なお孫さんがおられたんですね」
男は私の横へ立ち、点滴に繋がれてベッドで眠るおじいちゃんを見る。薄く口を開けているが、いつもの大きないびきは無い。静かな寝息が聞こえるだけだ。
しばらく沈黙が続いたが、男がおもむろに口を開く。
「隠し立てしても仕方がりませんので率直に申し上げます。お祖父様の病状は深刻なものです。これから治療を始めても、延命には程遠いでしょう。むしろ、投薬は高齢なお祖父様の体には負担が大きい。負担をかければ余命を縮めてしまう恐れもあります」
「余命はどのくらいになるんですか」
「……はっきりとは申し上げられませんが、早くて数ヶ月、長くても一年くらいでしょう。ただ、お祖父様は免疫力が人よりも強いようですから、生活態度によっては延命も望めるかもしれません」
私の耳はただただ流されてくる情報を聞き入れている。真実であろうと虚偽であろうとそれを判別する思考も残っていない。ただ、頭は冷静だった。倒れたと聞いた時は血の気が引いたけれど、私はどこかで、こんな日がいつか来るのではないかと思っていた。この世界に永遠に続くものなどない。かけがえのない大切なものも、日々も、簡単に失ってしまう。
「今まで症状があったはずです。きっと、あなたに心配をかけまいとして、隠し通していたんでしょうね」
「呆れちゃいますね」
「……お祖父様を責めないであげてください。たった一人のご家族に負担をかけたくないと思うのは当然のことです」
私はかぶりを振る。
「あんなにそばにいたのに、何も気付けなかった自分に呆れているんです」
病院の車で送ってもらい、私とおじいちゃんは自宅へ帰ってきた。玄関先で待っていた銀時が、眠ったままのおじいちゃんを抱えて布団まで運んでくれた。
町医者は、治療は勧められないが入院して体調管理を徹底すれば、命を長らえさせることはできると言った。しかし、あんな何もない真っ白な部屋にいたのでは、おじいちゃんは息苦しくて仕方がないのではないかと、私の一存で家で養生させることにした。できることは限られるけれど、私の知らないところで死んでいってしまうくらいなら、目の前で息絶えてほしかった。
布団に横たえたおじいちゃんの目蓋は重く閉じられており、開く気配はない。勢いをつけて立ち上がり、部屋の隅で胡座をかいて様子を見ていた銀時を見遣る。
「ありがとね、銀時。ご飯まだだよね?親子丼でもしようか」
「……」
返事はなかったが、私は台所へ立った。冷蔵庫を開ける。鶏肉がない。
「あ……ごめん、鶏肉ないから、卵丼でいい?」
やはり返事はない。構わず卵を取り出した。玉ねぎを切っていると、じわじわと目に染みてきた。終いには涙が溢れて、鼻水も出てきた。包丁を持った手で何度目を擦っても、止まってくれない。早く作らなきゃいけないのに。もう日はすっかり落ちて、雨も止み、風が風鈴を揺らしている。澄んだ音がしつこく鳴っている。
漏れそうになる嗚咽を堪えていると、真横に銀時が現れた。視界がぼやけて顔がよく見えない。
「貸せ」
銀時は私の手から包丁を抜き取り、慣れた手つきで玉ねぎを切り始めた。とん、とん、と規則正しくまな板へ刃が下りる。鼻水をすすり、「上手」と呟く。銀時は「まぁな」と短く答えた。水切りはできないくせに、意外と器用だ。
待ってろ、と言われ、私は大人しく居間で膝を抱えていた。台所から出汁のいい匂いがしてきて、間も無くして銀時がどんぶりを二つ持ってきた。山盛りのご飯に黄金色の玉子が乗っており、ネギも散らしてある。感心したものの、ご飯の量が多い。銀時はともかく、私はいつも茶碗一杯分しか食べない。
「ご飯多いよ」
「文句言うな」
銀時は大口を開けて玉子丼を食べ始める。私は既に玉子の乗っているご飯を取り分けることもできずに、仕方なくそのまま食べることにした。いただきます、と手を合わせて一口口に入れると、出汁の効いた優しい味が広がった。ふわふわの玉子と歯応えの残った玉ねぎも食欲をそそる。
「美味しい」
「だろ?俺こー見えて料理上手だから」
銀時は得意げに胸を張る。
「おじいちゃんが食べたら、びっくりするだろうね」
銀時がこんなに料理上手だなんて知ったら、なんと言うだろう。人間誰にでも得意なものが一つはあるもんだなどと、馬鹿にするだろうか。味にはうるさいから、もっとアレを入れろとかコレをこうしろとか、注文をつけるかもしれない。
想像していたら、目頭が熱くなってきた。玉ねぎのせいで溢れていた涙が、ようやく治まったというのに。
鼻の奥がツンとする。頬を流れる涙が、顎を伝う。口の中にはまだご飯が入ったままだ。涙を拭い、咀嚼に専念する。銀時がこちらを見ているような気がした。
病院では冷静だった。すらすらと入ってくる言葉も全てが理解できた。深刻な病。症状はあったはずなのに何も言わなかった。治療をしても治る見込みはない。余命は早くて数ヶ月。でも高齢のおじいちゃんに限っては、それも推定に過ぎない。もしかしたら明日、明後日、急に亡くなってしまうかもしれない。
あんなに冷静だったのが不思議なほど、今は色々なことが頭に浮かぶ。もしも明日、朝起きたら冷たくなっていたら?このまま目を覚まさなかったら?取り止めのないことばかりが頭の中を支配していく。
「おじいちゃんが死んじゃったら、どうしよう」
「……」
「もし、死んじゃったら……」
言葉が続かなかった。その先を考えることがたまらなく恐ろしい。想像できていたことが徐々に現実として具現化されていく。見たくなかった現実が、口にすることでさらに現実味を増していく。もう涙を止めることさえできない。
銀時が動く気配がした。無骨な親指がぎこちなく私の目元をなぞる。しかし止まることがない生温い涙に、やがて銀時は掌で頬を擦ってきた。ごわつく掌には潰れた豆があった。
「死にゃしねえよ」
ぶっきらぼうな仕草に反して、声色は穏やかだった。
「あのジジイが、お前残して簡単に死ぬわけねえだろ」
「……っ」
「いいから食え。冷めちまうだろうが」
頬から離れた手は、私の頭を無遠慮に撫でていった。頬が熱くて痛い。乱れた前髪が目にかかる。どれだけ涙が溢れても、全く嫌になるほど、玉子丼は美味しかった。
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