小鳥の囀る縁側で、銀時と老人はオセロに興じていた。盤上は老人の黒が優勢、銀時の白が劣勢である。余裕綽々で団扇で自身を煽ぐ老人とは逆に、銀時は盤を難しい顔で睨んでいた。かれこれ三戦三敗しているので、そろそろ勝ち星が欲しい。それに勝たなければ、延々オセロに付き合わされてしまう。
 銀時が白い石を盤上へ置く。しかし、そこは既に老人の手中であった。老人がニヤリと口角を上げ、最後の石を置くと、みるみるうちに盤上は黒く染まっていった。銀時は「あーくそっ」と背中をのけ反らせて天井を仰ぐ。庭を跳ねていた小鳥たちが一斉に飛び立っていった。
 老人は愉快そうに笑った。

「学ばんやつじゃのう」
「うるせージジイ」
「もう一戦やるか?」
「もーやめだ」

 銀時は石を箱の中に流し入れる。退屈な老人は将棋を提案したが、銀時はそれを一蹴した。老人は不満げにあぐらを組み直した。仕事を取り上げられて気の毒だとは思うが、毎日付き合っているこちらの身にもなってほしいものだ。

 老人はつい先日、道端で倒れたばかりだった。どうも長く病を患っていたらしく、それが悪化してのことだったようだ。しかし、老人は唯一の家族である孫娘のナマエにも病のことを全く話していなかった。倒れた翌日に目を覚ました老人を迎えたのは、他でもない、ナマエからの容赦ない怒号だった。銀時は隣室で狸寝入りを決め込んでいたが、耳をそば立てなくても丸聞こえだった。日頃の鬱憤も交えて怒るナマエだったが、最も声を荒らげたのは、なぜ何も言わなかったのかということだ。老人は返す言葉もない様子で、聞こえてきたのはナマエの声ばかりだった。
 銀時から見ると、老人は目に見えて弱っているわけではなかった。今までと何ら変わらないようだが、ナマエは些細な調子の変化も見逃さないようになっていた。食欲があまりないとか、顔色が少し悪いとか、過敏になっているのではないかと思うほどだ。結果、診療所は休診、自宅では絶対安静、出かける時はお供をつけること。それまで仕事一辺倒だった老人からしてみると窮屈極まりない生活だろう。しかし、病を隠していたことを引き合いに出されると、何も言い返せずにいるのだった。

「ナマエはまた仕事か?」
「みたいだな」

 道具一式を片付け、銀時はすっくと立ち上がる。腹も背中も傷はほとんど気にならなくなっていた。動くと皮膚が突っ張るような感覚があるだけだ。

「野菜売りしてると言いとったが、そう毎日忙しいもんか?」

 老人の問いに、銀時は「知るかよ」と素っ気なく答えた。診療所を閉め、収入のなくなった家を支えるためにナマエは八百屋でアルバイトを始めた、ということになっているが、それは嘘だった。口止めをされているので老人には言えないが、銀時はナマエから概ねの話は聞いていた。
 ナマエは老人が倒れたときに運ばれた町医者のもとで働いている。その医者というのは若いが腕も良く、伯父が幕臣というエリートだという。しかし、銀時はボンボンとは相性が良くないと自負しているし、さして興味もなかったため聞き流していた。
 そのエリートの元へナマエが働きにいくことになった経緯というのが、治療費を持って医者の元へ行ったナマエに対し、看護師が一人辞めて手が足りないので働いてくれないかと誘われた、ということらしい。ナマエは看護師でも何でもないので役には立てないと断ったが、診療所にいた君ならすぐに仕事も慣れるだろうと押されてしまい、引き受けてしまった。
 しかし給与は弾んでくれるので、今となっては無理に断らなくてよかったと思っているそうだ。無論、患者の治療などには携わらないが、簡単な事務作業や受付、掃除などをしているらしい。

 オセロを居間の押し入れにしまい、襖を閉める。居間にはいつもと変わらないちゃぶ台やらタンスやら、古臭い家具が並んでいる。普段ならここにはナマエが座っていて、洗濯物を畳んだり診療所の資料整理をしている。いないときは、大抵台所で料理をしている。
 銀時の目には、涙をこぼして不安に打ちひしがれるナマエの姿が未だ焼き付いている。しかし、ナマエが泣き言を吐いたのは、結局あの晩だけだった。たった一人の家族を失うかもしれない恐怖を抱えながらも、ナマエは必死に前を向いている。痛々しくも健気で、ふとした拍子に呆気なく壊れてしまいそうなほど。

 寝室へ戻ると、老人が畳を剥いで床下を漁っていた。銀時が覗き込むと、その手には一升瓶があった。銀時は無言でそれを奪う。老人はすぐさま反発する。

「あっ何しやがる小童!」
「何しやがるじゃねーよ。てめー酒飲むなって言われてんだろーが」
「そりゃあ酒じゃねぇ、ただの米の汁だ」
「酒じゃねーか!」

 没収した酒は自室と化している部屋の押し入れへ突っ込んだ。
 窓の外には、灰色の雲が迫っていた。ここのところ雨が多く、髪の毛が普段よりも倍に膨張している。銀時は鬱陶しそうに自身の頭を掻き回した。 






「ナマエちゃん、おじいちゃんの具合はどうだい?」

 受付で会計を済ませた老齢の女性が声をかける。白髪で顔にはいくつもの皺があるが、背筋がしゃんと伸びていて気品がある。診療所に時々来ていた園山のおばあちゃんだ。

「おかげさまで元気ですよ。酒寄越せとか毎日わがまま言ってます」
「あらあら。相変わらずなのねえ。倒れたって聞いたときは驚いたけど、安心したわ」

 園山のおばあちゃんは口元に手を当てて笑った。受付にいると、いろいろな人に声をかけられる。皆、おじいちゃんの容態を心配してくれている。それと同時に、私のことにまで気を回してくれる。

「ナマエちゃん大変だろうけど、何か辛いことがあったら何でも言ってね」
「……ありがとうございます」
「ああ、そうだ。これね、おはぎなんだけど、食べるかしら?おじいちゃん、好きだったわよね?作りすぎちゃって、もらってくれると嬉しいわ」

 おはぎの入ったタッパーを受け取り、笑ってお礼を告げた。おばあちゃんはまたね、と手を振って病院を後にする。
 タッパーの中にはおはぎが四つ入っている。おじいちゃんは甘いものはあまり食べないけれど、おばあちゃんの作るおはぎは甘さが抑えてあって好きだ。そういえば銀時も、前に貰い物のおまんじゅうを美味しそうに食べていた。甘いものが好きなら、おはぎも喜んでくれるかもしれない。
 人のやさしさに触れるたび、おじいちゃんが愛されていることを知る。みんなが口を揃えて心配してくれて、また診療所へ行くよと言ってくれる。その度に、私はお礼と共に頭を下げる。おじいちゃんの病気のことは誰にも話していない。もう診療所を再開することはないであろうことも言えなかった。知っているのは、銀時だけだった。
 診療所を再開できないとなると、我が家の収入はゼロになる。一時的なものではあっても、職に就けたのは有り難かった。定まった給料をもらえることは精神的にも安定できる。しかし、おじいちゃんには病院で働いていることを言っていない。町に腕のいい医者が来たと以前嘆いていたからだ。どのみち、新しい看護師が来ればいずれ辞めなければいけないのだから、わざわざ言うことでもないだろう。

 雑用も私の仕事だ。待合室や診察室などからごみを回収し、一つの袋にまとめる。ごみ捨て場は病院の裏手にある。裏口からサンダルに履き替え、外へ出る。舗装されたアスファルトの上には雑草一つない。空を見上げると、重い曇天が広がっていた。今日は早く帰れるかな、とぼんやりしていると、女性の声が聞こえてきた。

「あームカつく」

 裏口にいるということは、従業員だろう。建物の角を曲がったところにいるらしく、私のことには気付いていない。聞き覚えのある声だったが、名前はわからなかった。しかし、苛立たしげな声に返すのは、知っている男の声だった。
 
「きみにまで辞められたら困るんだがな」

 爽やかな透き通るような声色。病院の院長であり、おじいちゃんが運ばれた時に処置をしてくれた、笹岡先生だ。私にこの病院で働くよう誘ってくれた人でもある。風に乗ってコーヒーの匂いが漂ってくる。休憩中のようだ。
 金網のごみ収集箱は目と鼻の先にある。立ち聞きなどせずに、さっさと用を済ませてしまえばいいのに、私の足は次に出てきた女の言葉に止められた。

「だって、あの診療所の娘、雑用しかできないくせにいつまで置いとくのよ」

 診療所の娘、とは私のこと以外ない。心臓がギュッと締め付けられた。

「雑用だけでもしてもらえば助かるだろう。きみたちは仕事に専念できる」
「そうだけどぉ」

 なんかムカつくんだもん、と言葉に反して甘い色を持つ持つ女の声。ごみ袋を持つ手に力が入る。何もできない私に苛立ちを覚えるのは仕方がないのかもしれない。小さく息を吐く。踵を返そうとしたが、今度は笹岡先生の一言が耳に突き刺さった。

「あの老人が死ぬまでの辛抱だ」

 呼吸が一瞬止まった。雷鳴が遠くで轟いている。

「あの娘がいれば、今まで診療所へ足繁く通っていた連中は勝手にうちへ流れてくる。伯父さんの故郷とはいえ、顔馴染みのいない僕がここで病院を続けていくには、年寄り連中と馴染みのある顔が必要だからね。まあいずれ、ここは弟に譲って僕は江戸へ行くことにはなるけど…。その間だけでも、あの娘はちょうど使えるじゃないか。じいさんが死んだら、あの娘は切ったっていい。その頃には患者も定着するさ」
「でもあの子のじーちゃんってそんなに長生きできんの?てか、結構前に診察に来てなかったっけ?」
「ああ……」

 笹岡先生が一拍置く。コン、と缶がアスファルトに当たる音がした。

「自分を蝕む病に気付いた頃だろうな。一度来たが、治療には膨大な金がかかると言ったら黙ってしまってね。とてもじゃないが、あなたに支払える金額ではないと告げた。当然だろう?慈善事業じゃないんだ。大事な孫もいるのなら金は貯めたほうがいい、と念押ししたら、あっさりと帰っていったよ」
「先生が諦めるように仕向けただけじゃない」
「邪魔なんだよ。大した腕もないくせに。あんな医者はいらない」

 私は袋を持ったまま、院内へ引き返していた。間も無くして、アスファルトの上に雨粒がシミを作り始めた。






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