夏の終わりは雨が増える。陽が落ちる時間も徐々に早くなった。
精算に手間取り、帰宅時間がすっかり遅くなってしまった。おばあちゃんにもらったおはぎを入れた紙袋片手に従業員専用の出入り口から外へ出ると、外はすっかり暗闇に包まれており、激しい音を立てながら雨が降りしきっていた。傘を持たずに来てしまった私は途方に暮れる。電話を借りて銀時に傘を持ってきてもらおうか考えていると、背後から足音が近付いてきた。振り返ると、白衣のままの笹岡と目が合った。笹岡はガラス戸を開け、私に訊ねる。
「ミョウジさん?傘無いんですか?」
「忘れてしまって……」
「ああ、じゃあ送っていきますよ。車あるので。」
「でも先生、まだ仕事あるんじゃないですか?」
「こんな雨の中、女の子一人帰すわけにはいかないでしょう」
着替えてくるので少し待っていてください、と言って、笹岡は院内へ戻っていった。雨粒が穿つようにアスファルトを叩いている。ふと足元へ目を向けると、蛾が一匹いた。明かりに吸い寄せられたものの、熱に当てられて弱ってしまったのだろう。力なく羽を動かしている。
白衣を脱いだ笹岡が急ぎ足で向かってきていた。その顔を見ていると、ふつふつと何かが私の中で沸騰してくる。初めて抱く感情だった。しかし私は、その感情をなんと呼ぶのか知っている。
「ほんとに雨ひどいですねえ」
ガラス戸を開けて溜め息をつく。
「駐車場まで少し走りますが、いいですか?」
「はい」
笹岡が雨の中へ飛び出そうとしたとき。
私は戸に立て掛けてあった掃除用のデッキブラシを手に取り、ありったけの力で笹岡の頭を殴りつけた。ブラシ部分が折れ、宙に舞う。笹岡はアスファルトの上へ無様に倒れ込んだ。出入り口に付けられた安っぽい蛍光灯が、雨とともに流れる血を照らす。
「……っう……」
呻く笹岡は、何が起きたのかわからないという顔で辺りを見回し、自身の頭から流れ出る血に驚愕した。振り返るが、金魚のように口をぱくぱくと動かすだけでなにも声が出ていない。私が一歩進むと、頭を押さえながら尻を引き摺って後ずさる。
「早くに治療を始めていれば、助かっていたかもしれない」
おそらく私の声は、雨音にかき消されてしまっていただろう。それでもいい。医者でも何でもない、こんな男に聞かせることなどない。これは私の独り言だ。
「おじいちゃんは今も元気で、もっと長く生きられたかもしれない」
皮膚は冷たくなっていくのに、体の内側は熱くてたまらない。何も考えが及ばない。熱く煮えたぎる衝動だけが私を突き動かしていた。
折れて先端のささくれだったブラシを持ったまま、距離を詰める。笹岡が短い悲鳴を上げ、止まれと言うように震える掌を私へ向けて突き出した。
「な、なにが欲しい⁉」
思わず「は?」と素っ頓狂な声が出る。
「なにを聞いたのか知らないが、きみが望むものなら何でもやろう!ど、どのみちきみのおじいさんは長くは生きられない!私が治療をしたところで手遅れだ!わ、わかるだろう!おじいさんはきみのために治療を拒んだのだ!生活に困るのならずっときみのことを雇い続けてもいい!」
「……なにを言っているんですか?」
「は⁉」
「そんなこと、関係ない」
おはぎの入った紙袋を手から落とす。タッパーに入っているから、中身は無事だろうと頭の片隅で考えていた。
尻餅をついたままの笹岡の膝の上に馬乗りになる。怯えた表情の笹岡の額から雨と共に血が止めどなく流れている。この頭をもう一度殴る。死んだらその辺に放っておけばいい。おはぎのことを取り払った私の脳内にはそれしかない。濡れて滑り落ちそうになるデッキブラシを握り直し、頭目掛けて振り下ろす。
吹き出す血を想像していたが、私の目には固く目蓋を閉じたままの笹岡の顔が映るばかりだった。
私の腕を強く握る、大きな手があった。温かいその手を私は知っている。
低く、唸るような声が雨音を掻き分けて私に届く。
「何してんだよてめーは……」
掴まれた腕が引き上げられる。閉じた傘を持った銀時が立っていた。銀時の顔を見た途端、私の手からは力が抜け、デッキブラシは軽い音を立てて落ちていった。濡れた前髪が視界を遮ってくる。
「銀時」
口からこぼれ落ちる。脇には開いたままの傘が転がっていた。みるみるうちに中へ水たまりが出来上がっていく。銀時は開いた傘と閉じた傘、二本もっていたらしい。
「……オイ、さっさと消えろ」
銀時が睨みつけると、笹岡はびくりと肩を震わせた。しかし、私が押さえられていることに安堵したのか、先ほどまでの恐怖心は鳴りを潜め、途端に強気になる。覚束ない足取りで立ち、震える指でこちらを指してくる。
「だ、誰だか知らないが、その女が僕に何をしたのか見ていただろう⁉」
「……」
「いいか、これは立派な犯罪だぞ!さっ殺人未遂だ!」
笹岡は喚き続けている。銀時は私の腕を離さないまま、足元に転がった傘を蹴飛ばした。喚いていた笹岡が口を閉ざし、大仰に驚く。銀時は左手に持っていた傘の石突きを笹岡の眼前に突き出した。
「消えろって言ってんのがわかんねーのか、グズ野郎」
鋭い眼差しに気圧され、笹岡は身を硬直させた。
「今日限りでコイツはここを辞める。二度とコイツにもジジイにも近付くな。わかったか」
「……っ」
「返事ィ!」
「はっはい!」
笹岡は頭の傷もそのままに、転がるように駆けていった。その不格好な姿を見送り、銀時は私の頭上に傘を広げた。手を出さずにいたけれど、無理やり柄を持たされる。いつも爆発している銀時の頭は、すっかりぺたんこになっている。しかし、なおも雨粒は銀時の頭を打ち続けている。
カッと眩い光が私と銀時の視界を眩ませる。エンジン音が唸ると、車が猛スピードで私たちの横を走り抜けていった。水飛沫が跳ね、目を眇めているうちに開かれたまま放置されていた傘はタイヤに轢き潰された。
「あ!傘っ」
銀時が壊れた傘に駆け寄る。骨が折れて全く使い物にならなくなっていた。銀時は走り去る車のバックライトに舌打ちをした。あの車は笹岡のものだ。ささやかな報復か、はたまた動転していて前が見えていないのか。笹岡の自宅は病院の二階にあるが、すごすごと帰宅するわけにもいかなかったのかもしれない。
銀時は苦い顔で壊れた傘を放った。そして私の差す傘の中へ入ってくるが、身を屈めるのが窮屈だったのか、私の手から傘を取り自分で持ち直した。
突然の銀時の登場に、私の衝動はとっくに凪いでいた。熱かった身の内が、今は芯から冷えてくる。
「なんで来たの?」
顔が見られず、銀時のお腹の辺りを見ながら訊ねる。濡れた包帯に包まれた腕を伝い、指から水滴が垂れていた。
「傘、おまえが持ってねーだろってジジイに言われて迎えに来た」
「……」
「おまえ、自分が何しようとしてたのかわかってんのか」
黙って頷く。衝動に駆られていたとは言え、私は自分の行いがどのようなものか、重々承知していた。殺してしまいたかった。あの男が憎くて仕方なかった。
銀時が大きな溜め息をつく。
「理由もなくおまえがあんなことするとは思ってねえよ。でもなぁ」
「じゃあどうすればよかったの?」
銀時の言葉を遮る。見上げると、赤い目が僅かに見開かれていた。心の奥底から出た私の問いかけは、吐き出してみると堰を切ったように溢れてきた。
「あいつはおじいちゃんのことを邪魔だって。自分の私利私欲のためにおじいちゃんを見殺しにしようとした。おじいちゃんはずっと前から病気のことを知ってて、それでここへ来たのに!私を、私のこと引き合いに出して治療を諦めさせた。そんなの許せるわけないじゃない!あんなやつっ、あんな、医者でもなんでもない…」
捲し立てるばかりで結局なにを言いたかったのか、わからなくなってしまう。私が悔しいのは、おじいちゃんが病気になったことに気がつけなかったこと。そして私という重荷のせいで、おじいちゃんが治療を諦めてしまったこと。たった一人の大切な家族の足枷になってしまっていることだ。私のために生きることを諦めるなんて、あまりに馬鹿げている。
「あんな奴、殺したっておじいちゃんが助かるわけじゃない、余計におじいちゃんを苦しめるだけだよ。わかってるよそんなの。わかってる…」
「わかってねぇよ」
痛いほどの力で両腕を掴まれる。銀時の手から傘が落ちていき、遮るものがなくなった私たちを容赦なく打ち付ける雨が冷たい。
銀時は眉根を寄せていた。音にならない息が漏れる。見たことのない表情に体が動かなかった。真っ直ぐに私を見る目から逃れられない。ぎり、と骨まで軋むように腕が圧迫される。
「俺ァ知らねえよ。ジジイの気持ちもあんな優男のことも。おまえ、俺がジジイのためにおまえのこと止めたと思ってんの?」
怒気の滲む声。蛍光灯に照らされた銀髪が鈍く光っている。雨の中でもそれは眩しい。
「俺が嫌なんだよ。俺がおまえに手ェ汚させたくねえんだよ」
「……」
「おまえの手は、そんなことするためにあるんじゃねえだろ」
ひしゃげた傘が虚しく揺れている。しばらく沈黙が続いた。雨音だけが鼓膜を打っている。
銀時は、そっと私の腕から手を離した。傘を拾い、再び私との間に差した。もうお互い全身びしょ濡れだ。傘を差すことに意味などないように思えた。
「帰るぞ」
銀時は静かに呟いて私の手を掴んで引いていく。足取りの重い私が傘からはみ出ないように歩幅を合わせてくれていた。体は冷えていく一方なのに、掴まれた手だけが熱を持っている。
体が重い。苦くて辛い。それでも、いつかこの手が離れていってしまうことを思うと、言い様のない思いが胸に去来する。この手が離れてしまうくらいなら、深く落ちていくこの夜に、このまま溶けてしまってもいいと思った。この手を繋ぎ止めておく理由を、必死に探していた。
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