観葉植物をバルコニーへ出し、朝日を当てる。肉厚な葉は青々と鮮やかな色をしている。観葉植物についての知識など何もないまま買ってしまったものの、生命力に漲っている姿を見ると人心地がつく。
卓上カレンダーを一瞥する。ある一日に赤丸がしてある。おじいちゃんの命日だ。
昔からの習慣で朝早くに起きてしまうものの、休日にはこれといってすることがない。家事をこなし、残り少ない日用品を確認する。シャンプーと石鹸、ハンドソープと頭の中に入れ、家を出る。いつもは同じ店にしか足を運ばないのだけれど、時間は有り余っているので迷っても問題ないと判断し、たまには違う店に行くことにした。おじいちゃんの好きなお酒があるか、酒屋にも寄りたい。
景色が変わると、すれ違う人の顔ぶれも変わる。ファミレスの壁面に、銀時が吸い寄せられるようにへばりついていた。
「銀時?」
声をかけると、銀時はびくりと肩を跳ねさせて振り返った。ファミレスの壁面には、巨峰やキウイ、苺など彩り鮮やかな果物が乗ったパフェの写真があった。銀時の頭の中を瞬時に察し、首を傾げる。
「食べたいなら食べればいいのに」
「週一しか食えねえんだよ」
銀時は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「糖尿病なんだっけ」
「寸前!くっそ、月曜に食っちまったんだよな……」
ジャンプ買いに行った帰りになーと銀時はぼやく。ガラス越しに見える店内には、男女の組み合わせが目立つ。早めの昼食か、お茶を楽しんでいるようだった。銀時と並んで何となしにパフェの写真を見ていると、ふと若い女性店員と目が合う。にこやかな表情で女性は店から出てきた。
「いらっしゃいませー今ならカップル割引やってますよ」
「えっ?」
声を漏らしたのは私のほうだった。見回せば店を囲むようにカップル限定割引と幟が立っている。笑顔を貼りつけたままの女性へ「いや」と口を開きかけたところで、銀時が歩み出す。
「え、銀時」
「嘘も方便って言うだろ」
銀時は呟き、店内へ入っていく。ドアを押さえていた女性が「彼女さんもどうぞー」と私を急かす。私は躊躇いながらも銀時のあとを追った。
窓際の奥まった禁煙席へ向かい合って座る。水を運んできた店員へ銀時が早速パフェを注文する。私はメニューの中から目に入ったチーズケーキを頼んだ。店員が離れたことを確認してから声を潜めて銀時を咎める。
「いいの?」
「来週我慢するからいいんだよ」
パフェのことと言うより、恋人同士と思われていることに対する危惧だったのだが、銀時は気にしていないようだった。好物の前では大きな問題ではないのだろうか。
周囲の席には若いカップルが多く、皆楽しげに会話をしたり食事をしたりしている。甘い雰囲気に居心地が悪く、お尻の辺りがもぞもぞする。一方の銀時は全く周りに関心がなさそうだった。メニューを顔の前に持っているので表情は窺えないが、モンブランあんじゃねーかなどと熱心に眺めている。
自制心の無さには呆れてしまうが、羨ましくもある。私は先のことを考えて踏み出せないことが多いので、自由に立ち回る銀時には、ある種の尊敬の念がある。私が叩いて叩いて慎重に渡る石橋を銀時は恐れることなく進んでいくのだ。
注文したものが運ばれ、デザートを食べながらぽつりぽつりと世間話をする。食後のコーヒーと入れ替わりに、空になったガラスの器とお皿が下げられていく。無骨な指で摘まれる砂糖がコーヒーに落とされていく様を見ながら訊ねる。
「この辺で酒屋さんってどこにある?」
「酒屋ぁ?おまえが飲むの」
「おじいちゃんに買っていくの。もうすぐ命日だから」
診療所の近所にあった造り酒屋は随分前に店仕舞いしてしまった。跡継ぎがいないのだそうだ。
何個目かの砂糖がコーヒーに溶け、銀時はようやく手を止めた。
「家、どうなってんの」
「空き家。持ってても仕方ないんだけど、売るのも壊すのも」
壊すにしてもお金が要る。売るにしても、コンビニもスーパーも徒歩圏内に無いあんな田舎で、すぐに買手がつくとは思えない。それ以前に、嬉しかったことや楽しかったこと、悲しかったことまで全て詰まっているあの家を人に明け渡すには、まだまだ心の整理がつかない。おじいちゃんと過ごした日々はもちろん、銀時と過ごした一夏の思い出も残っている。
言葉に詰まり、コーヒーを飲み込む。苦味が舌に残る。頬杖をついた銀時がコーヒーを一気に飲み干し、席を立つ。その表情は苦悶に満ちている。砂糖は入れていたが苦かったようだ。
「持っててもしゃーねぇもんでも、捨てられないんだろ?だったら抱えてくしかねえだろ」
銀時は会計へ向かう。私はまだ半分もコーヒーを飲んでいない。こちらのペースなどお構いなしだ。レジで銀時は財布を開いたものの、お金が足りなかったらしい。不足分は私が支払い、ファミレスを出た。
「酒なら馴染みの店があるから、そこでいいだろ」
「場所だけ教えてくれれば自分で行くよ」
「方向音痴が何言ってんだ」
銀時は吐き捨てるように言って先を進み始めた。人混みに紛れていく背中を見失わないように、私も歩み始めた。
優しい風が頬を撫でる。目的地は決まっているのに、前を歩く黒いブーツは時折立ち止まった。それは甘味処であったりパチンコ店の前であったり、知り合いに声をかけられたりと理由は様々だったけれど、足を止めるのは苦にはならなかった。寧ろ足を止める度に銀時の背中を押したり、街の人と話したりするのは存外楽しい。
あちらこちらで道草を食って、酒屋にようやく着いた。店の前では簡易テーブルで昼間からワンカップを飲むおじさんが何人か屯していた。「銀さんが女連れてるよ」「依頼人だろ」「銀さんに彼女なんかできっこねえよ」と口を揃えて笑われ、銀時はほっとけ酔っ払い、と悪態で返していた。
全国から多くの酒を取り寄せているという酒屋には、おじいちゃんの好きな銘柄もきちんと置いてあった。特に好んで飲んでいた銘柄のワンカップを箱に詰めてもらい、代金を支払う。
「アンタ、見ない顔だねえ」
銀さんのコレかい? と店主の老齢の男性が小指を立てる。銀時は酒の並んだ冷蔵庫を眺めており、こちらには背を向けていた。私はかぶりを振る。
「まさか」
「なんだ、そうかい」
店主は肩を竦めた。知り合いの浮いた話は格好の酒の肴になるだろう。
銀時の背を振り返り、店主へ向き直る。
「私にはもったいないくらい、素敵な人です」
箱を入れたビニール袋の持ち手が重力に倣って突っ張っている。店主は目をぱちくりとさせた後、大口を開けて笑い出した。
「銀さんのことをそんな風に言う女がいるなんてなぁ!」
「おかしいですか?」
「アンタの審美眼を疑うよ」
苦笑しながらお釣りを財布にしまっていると、店主が私の顔を覗き込む。
「アンタよく見りゃ別嬪だなあ」
「はい?」
「死んだ家内にそっくりだよ。アンタ、酒は?飲めるか?」
「少しなら……」
「今度飲みにでも行くかい」
「オイじーさん。下心スッケスケだぞ」
後方から銀時が槍を投げるように声を飛ばす。こちらを気にする素振りもなかったので、声が聞こえていたとは思わなかった。まさか先程の私の言葉も聞こえていたのだろうか。
銀時は冷蔵庫からワンカップを二つ取り出し、店主に見えるように掲げた。
「コレもらってくわ。ツケで」
「ちょっと銀さん、ツケ溜まってんだけど」
「嫁さんに若い女口説いてたことバラすぞエロジジイ」
「え、さっき亡くなったって」
「……」
冷や汗を垂らして店主が黙する。男の人はいくつになっても結局若い女が好きなのだろうか。とは言え私はとっくに二十歳を過ぎているし、誕生日も素直に喜べなくなってきている。
「置いてくぞコラ」
「あ、うん」
急かす銀時に続く。さっきの私の言葉が聞こえていたのか確かめたかったけれど、その先の返答が怖くて口を噤んだ。
片手でワンカップを二つ指に挟んだ銀時がぷらぷらと歩く。あとは日用品を買うだけなのだけれど、銀時がどこへ向かっているかわからないまま隣を歩いた。太陽は徐々に傾いてきており、寺子屋帰りの子どもたちが並んで歩いている。
遠くにターミナルの見える河川敷の土手で銀時は腰を下ろした。
「ここ人も少ねーし穴場なんだよ」
辺りにはトンボが飛んでいた。銀時はワンカップの蓋を捲る。隣に座ると、もう一つのワンカップを差し出された。汗をかいた瓶の水滴が冷たくて心地良い。蓋を捲り口に含むと、やや辛口だけれどすっきりとした味わいのお酒だった。おじいちゃんの好きだったお酒に少し似ている。
薄く伸びた雲の切れ間から夕日が差し込んでいる。東の空は夜を始めようとしており、既に薄暗くなっていた。異なる色を混ぜながら、日は暮れていく。
銀時はいつから田舎に帰るのかと訊いてきた。江戸を出る日を告げると、銀時は無言でワンカップを傾けた。透明の瓶の向こうに、夕日が霞んで見える。
「すぐ帰ってくんの?」
「うん、一日で終わる」
「そ」
きっと日が落ちきる前に、銀時は腰を上げるのだろう。なるべくその時間を引き延ばすように、銀時の持つお酒の残量を窺いながら、私はちびちびとお酒を飲んだ。もう少し一緒にいたいとか、話がしたいとか言葉にできたらどんなに楽だろうかと思うけれど、私にはできなかった。そんな私の心情を知ってかしらずか、夕日はあっという間に沈んでいった。案の定、日が沈み切る前に銀時は腰を上げ、私たちは帰路に着いた。
緩やかな弧を描く橋の上で、銀時が不意に足を止める。数歩前へ出たところで、私も足を止めた。振り返ると、銀時は少し俯いて首筋を掻いていた。なにか言いたいことがあるのだろうか。数拍置いて、銀時が口を開く。
「おまえさぁ、なんか溜めてるもんねーの?」
言わんとしていることがわからない。
「……洗濯なら今朝してきた」
「そうじゃねえよバカ」
「バカって」
むっとしていると、銀時は片眉を上げて「だから」と語気を強める。
「得意だろうが、何でも溜め込むの。言いたいこととか、しまってるもんがあるなら、ジジイに会う前にちゃんと吐き出してけ」
日差しも優しい風も鳴りを潜めた今、空気はひんやりと冷たい。私は銀時との間の距離を詰め、欄干に肘を乗せて凭れた。晴天は昼間だけだったようで、夜空には雲が流れていた。吹きつけてきた風は、隣に銀時が並び遮られる。
帰る気配のない銀時に沈黙という圧力をかけられ、しばらく思案した末に、重く澱んでいる胸の内を言葉にしてみることにした。言葉にしてみると、不思議なことに気持ちに色が乗っていく。
「……少し、嫌かもしれない」
「嫌?」
「帰るのは嫌じゃないんだけど……少し怖い」
私は自分の意思で江戸へ来た。過去を断ち切るように、昏い感情に蓋をするように。故郷で過ごした時間は大切だし、帰りたくないわけではない。ただ、胸の中を蠢くこの言い様のない不安の正体がわからない。言葉にするには私は物事を知らなさ過ぎるし、自分自身についても知らなさ過ぎる。嫌だ怖いだなんて、私が選び取ることのできる言葉はあまりに拙く、子どものようだった。でも、それ以外に表現がわからない。
銀時は私の抽象的な表現に何も言わない。仕方がない。自分でも説明しようのないものを他人に理解してほしいなど無理がある。水に流れる落ち葉を目で追う。橋の下を見下ろす私の頭に、分厚い掌が乗る。それは乗っただけで、撫でるわけでも叩くわけでもない。
「心配いらねえよ。ここで待っててやっから」
多分、なにかを理解してくれたわけではないと思う。けれど、不安を掬い取るような声に、私は支えられている。
流れていく落ち葉が連なっていく。重なって、連れ立って流れていく葉を、風と水が運んでいた。
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